□ 2-14 魔族を懐柔する(3)
妖魔ジャスミン――
メルジーヌの秘書であるその存在をすっかり忘れていた。
他の魔族と違い、彼女は気落ちした気配がない。
表情こそ硬いが、声はしっかりしている。
ミラが言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『仕事できるし、洞察力がとんでもなく鋭いわ。
彼女は特に注意した方がいいかも』
そうだった。
むしろ今、一番警戒すべきなのはこの人だ。
秘書としてメルジーヌに付き従ってきた彼女なら、少しの違和感でも見逃さないだろう。
俺はジャスミンの表情を伺いつつ、息を潜める。
「あら、ジャスミン。何かしら?」
ミラは動揺することもなく、自然に視線を向ける。
「メルジーヌさまは、死神アレンさまに敗北なさった――とのお話でしたが……
少し不思議に思うところがございます」
ジャスミンの鋭い眼差しが、ミラをまっすぐ射抜く。
「先ほどメルジーヌさまは……アレンさまをお気に入りになり、愛人にされたと伺いました。
ですが、なぜ“敗北した相手”が、愛人として従っているのでしょうか?
今もなおアレンさまは、愛人という立場なのでしょうか?」
……うっ。
痛いところを突かれた。
そもそも“俺がメルジーヌの愛人である”という設定は、
『生贄の少年をメルジーヌが気に入って連れて帰った』
――この筋書きのためのものだ。
だが今は、“メルジーヌは俺に敗北した”という新たな話になっている。
敗北した側が、なぜ勝者を愛人扱いするのか。
――全く辻褄が合わない。
さすがは洞察力がすごいと警戒されていたジャスミンだ。
その上ミラは、さっき『この子はわたくしのものよ。ジャスミンにはあげませんわよ』などと悪ノリしている。
不自然にもほどがある。
どう切り抜けるんだ、これ……?
俺は固唾を飲んだ。
だがミラは、あっさり言い放つ。
「そうよ。アレンは今でもわたくしの愛人ですわ。
そこは変わりませんの。
ふふっ、面白いことでしょう?」
なんと!
『愛人』で押し通すつもりだ。
ミラはさらに、さらりと爆弾を投げる。
「このアレンはね、聖女に懸想していたのよ。
聖女は老齢だったというのに、何とも変わった趣味ですわね」
……ほお、俺が聖女に懸想していたと?
ミラはどこへ話を持っていく気なのか。
「その聖女がわたくしの身体を手に入れたのですわ。
この傾国の美女たるわたくしの、ね。
……ふふっ、どうなるか分かるかしら?」
ミラは艶然と笑う。
「聖女がわたくしの身体でアレンを抱きしめたら、まあ、この坊やったら顔を真っ赤にして……うぶな子はイチコロですわ。
わたくしの身体に、あっさり魅了されましたの」
話がどんどん怪しい方向に……
「若返った憧れの聖女が、絶世の美女となって現れた。
しかもその中身にはサキュバスのわたくしが同居している。
――アレンが夢中になるのも当然でしょう?」
ミラは楽しそうに言葉を続ける。
本当にメルジーヌの人格になってしまったかのようだ。
「そしてアレンは自ら、“聖女とわたくしの下僕にしてください”と懇願したのですわ。
ふふふっ、こんなに可愛らしい顔をして、下僕になりたいなんて……とんだマゾヒストね」
(ちょ……!!)
魔族を納得させるためとはいえ、ひどすぎないだろうか。
まあミラはこういうおふざけというか悪乗りは時々やるんだが……
ミラは調子に乗ってきたようで、さらに饒舌に語り続ける。
「聖女も呆れていたけれど……だから、わたくしが代わりに言ってあげたの。
坊や、“あなたは可愛いから、愛人にしてあげるわ。愛人として仕えなさい”ってね」
ミラは俺の方をちらりと見やり、さらにとどめを刺すように続けた。
「するとアレンはこう誓ったの――
――生涯、聖女とメルジーヌさまの愛人としてお仕えします――
……ってね。死神の力を持ちながら愛人志願だなんて……ほんと、おかしなこと。
おほほほほほ!」
ミラの高笑いがこだまする。
もはやメルジーヌが乗り移ったとしか思えないほどだ。
重苦しかった空気は完全に吹き飛び、ジャスミンを含む全員が呆然とミラを見ている。
……無茶苦茶な話だが、妙な説得力がある。
メルジーヌを倒し、その魂を封じ込めた少年が、メルジーヌ惹かれ、愛人になった。
なぜならば、メルジーヌは絶世の美女である上に、その中身には少年が道ならぬ恋心を抱いていた聖女がいるからだ。
しかも、その少年はマゾっ気があるから、自ら下僕になりたいと懇願して愛人になった。
倒錯した話だが、淫魔メルジーヌが相手ならば、あり得る話か……?
魔族たちはその倒錯したリアリティに、どう反応してよいのか困惑しているようだ。
さすがはミラだ。
一時は詰んだと思ったが、強引に形にしてしまった。
ただ、俺にとっては、不名誉も甚だしい。
聖女に道ならぬ恋をし、マゾの気があり、愛人として生涯仕える……そんな誓いを立ててしまったことになっているとは。
成り行き上、ミラの話に異議を唱えるわけにはいかないのがつらいところだ。
「うふふ。わたくしとしても願ってもないことでしたわ。
一度は敗れましたのに、こんな可愛い坊やを愛人にできるなんてね。
聖女は不本意だったようですけど、もう愛人の誓いはなされてしまいましたもの」
ミラは満足げに言う。
「聖女も本心ではまんざらでもないと思いますわよ?
ですから、あなたたちが嘆くようなことにはなっていませんのよ。
唯一の足かせは、聖女に身体の“優先権”があることくらいですの」
ミラは周囲を見渡し、落ち着き払って微笑んだ。
もはや完全にメルジーヌになりきっている。
魔族たちはぽかんと口を開け、沈黙する。
あまりにも予想外すぎる展開に、言葉が出てこないのだ。
やがて、ジャスミンがゆっくりと口を開いた。
「……ご、ご丁寧な説明、誠にありがとうございました。
さすがはメルジーヌさま。
死神すら愛人にしてしまうとは……その比類なき魅力、恐れ入ります」
ジャスミンはゆっくりと一礼した。
多少の動揺は見られるようだが、これで疑念はなくなっただろうか。
――だが、そこで終わらない。
「……それで、アレンさま」
ジャスミンは顔を上げ、真っ直ぐに俺を見る。
「メルジーヌさまに“愛人として一生仕える”というお言葉――本気で仰っているのですか?」
鋭い。
やはりこの人、抜け目がない。




