□ 2-8 魔王城へ(1)
その時、ミラがわずかに眉をひそめ、低くつぶやいた。
「……誰か来るわね」
「え?」
ミラの視線を追うと、遠い空から何かが一直線にこちらへ飛んでくる。
大きく広げられた翼、風を切る羽ばたき――魔族だ。
(や、やばい……!)
まさかメルジーヌの部下!?
メルジーヌの中身がミラだとバレたら作戦は終わりだ。
ここはミラに任せるしかなさそうだけど……
緊張する俺の横で、ミラは静かに目を細める。
その白い頬に、あの独特の『魅惑の文様』が浮かび上がっていく。
メルジーヌとして振る舞うための準備だ。
動揺の色は一切ない。
ほどなくして、その魔族は目の前に降り立った。
現れた男――ひと目でただ者ではないと分かる。
筋骨の浮かぶ大きな体、黒い軍服には重厚な装飾。
胸元には赤い紋章。
緑がかった肌は硬質な光沢を帯び、顔立ちは彫りが深く、額には長い角が一本。
(うわ……威圧感すごい……)
“戦場の猛将”という言葉がぴったりだ。
だが彼は直立の姿勢で深々と頭を垂れた。
「メルジーヌさま。
……お帰りが遅いので、お迎えに参りました」
その低く響く声は、意外にも礼儀正しかった。
ミラはその姿をしばし見つめ、気だるげに肩をすくめた。
「あら、ロイ。わざわざ来たの?
――余計なお世話ですわ」
その瞬間、空気がぴり、と張り詰めた。
「はっ……! 申し訳ございませぬ……!」
ロイ――親衛隊長だと聞いていたが、その名に恥じぬ忠誠ぶりだ。
ミラは鼻を「ふん」と鳴らし、まるで女王そのもの。
ここまで完璧にメルジーヌを演じきるなんて……やっぱり、ミラってすごい。
ロイはふと俺の方に視線を向けた。
鋭いその目に射抜かれて、思わず背筋が伸びる。
「……メルジーヌさま。
差し出がましいようですが……その人族の少年は、一体……?」
(ドキッ……!)
やっぱり来たか。
生贄のはずの俺が無傷で立っているのだ。疑われないはずがない。
「あら、ロイ?」
ミラはゆったりと眉を上げ、冷たい笑みを浮かべた。
「……わたくしのやることに、口出しするつもりかしら?」
「……っ」
ロイが息を呑む。
ミラは俺に軽く手を向けて、さらりと言った。
「この子はね、ハーフエルフですわ。
わたくしのお気に入りになったの。だから愛人にしましたのよ。
名前はアレン――ほら、可愛いでしょう?」
「……あ、愛人……で、ございますか……っ」
ロイの眼がわずかに見開く。
視線が迷い、唇が震え……だが、すぐに直立不動に戻る。
「はっ! 大変失礼いたしました。
メルジーヌさまの……“ご愛人”とのこと、承知しました。
ご夕食の準備が整いつつあります。どうか城へお戻りを。
“ご愛人”さまの分も、きちんとご用意いたします」
“ご愛人”を強調したのは絶対わざとだ。
怒ってる……というより、ショックがデカいのだろう。
ミラは満足げに頷く。
「分かったわ。すぐに行くから――先に戻ってなさい」
「はっ!」
ロイは深々と頭を下げ、翼を広げて急上昇。
空の彼方へ消えていく。
姿が見えなくなったのを確認すると、ミラはようやく息を吐いた。
「……ふぅ。危なかったわね」
さっきまでの“女王”の気配がふっと抜け、いつものミラの声になる。
「あのロイね、メルジーヌに懸想してるのよ」
「へっ……そ、そうなの?」
「だからアレンのこと、気に入らないの」
「そりゃ……まあ……」
ちょっと気の毒かも。
思いを寄せてた相手から「この子が愛人よ」と紹介される。
そりゃショックだ。しかも相手がメルジーヌを殺した俺。
そしてメルジーヌの中身はミラ……話がヤバすぎる。
(バレたらマジで殺される……)
「ロイは強いわよ。敵に回さないようにね」
「へ、へい……」
いやもうたぶん、完全に敵だよね。
あの目つき、絶対俺のこと敵認定してる……
(作戦の難易度、ぐんと上がってないか……?)
「そろそろ行きましょう。待たせるのも不自然だし。
それと――私のことは“ミラ”って呼んじゃダメよ」
「へい、メルジーヌさま。
……それじゃ、行きますか」
ふと見上げれば、空はもう薄暗くなりはじめていた。
長かった一日。
だけど、ここからが本番だ。




