■ 第1章 サキュバスの愛人になる □ 1-1 日常の終わり(1)
剣と魔術の息づく大陸グリムディア。
広大な草原に険しい山脈が点在するこの地では、人族、魔族、エルフ族――三つの種族が領土を分け合っていた。
中央に位置するのは、人族の国『ラミビア聖王国』。
聖王と聖女の加護で長く栄えてきたが、今はその輝きに翳りが差していた──病に倒れた聖王に、力を失った聖女。
南の果てに広がるのは、“狂気の魔女”メルジーヌの支配する『アモアンダの森』。
この地に足を踏み入れて、生きて帰った者は、誰一人としていない。
そして大陸の北、霧深い高原の奥にあるとされる『精霊の里』。
エルフたちが隠れ住むその地は、神秘に包まれている。
――表向きは平穏なこの大陸で、今まさに、小さな運命の歯車が回り始めていた。
人族の国・ラミビア聖王国の辺境都市ダッカルタ。
その街外れの小さな家に、少年と老女が静かに暮らしていた。
だがこの日常は、すぐに終わりを告げることになる―――
◇◇◇◇◇◇
「アレン、今日も剣術の稽古、頑張ってね!
サボっちゃダメだからね?」
玄関先で明るく声をかけてきたのは、俺――アレン・ロジエの育ての親、ミラ。
白髪をきっちりお団子にまとめ、丸眼鏡をかけたその姿は、どこにでもいる元気なお婆ちゃんだ。
でも実はこの人、かつては王宮魔術師だったという、ちょっとすごい人だったりする。
ま、そのことを本人はほとんど語らないし、「もう隠居した身よ」なんてのんびり暮らしてる。
ただ、一つだけ言えるのは――ミラの魔術の腕は本物だってことだ。
「わーってるよ! 行ってくる!」
木剣を片手に、俺は家の前の荒地へと向かう。
ミラとの出会いは10年前――王宮を引退し、気ままに放浪していた彼女が、孤児院にいた当時5歳の俺を気に入り、引き取ってくれたのが始まりだ。
ふらりと孤児院を訪れたミラは、病弱で寝込んでいた俺を見つけると、すぐに治癒魔術で治してくれて、親代わりにまでなってくれたのだ。
理由を聞くと、「長年独り身だったし、子育てをしてみたかったの。アレンはとっても可愛かったから」と笑っていた。
だけど、俺にとっては、それが人生最大の幸運だった。
それから十年。俺たちはここダッカルタに拠点を移し、冒険者として生計を立てている。
魔獣討伐、素材収集、旅人の護衛など、何でもこなすハンターは、この世界には欠かせないのだ。
かくいう俺も、一流ハンターを目指して日々鍛錬を重ねている……はず、なんだけど。
「はぁ……今日も適当にやるか」
木剣を構え、いつものように素振りを始める。
踏み込んでは剣を振り、下がってはまた振る、それを様々な型で繰り返す。
だが、踏み込みは弱く、剣筋もヘロヘロだ
「……やっぱダメだな」
空を仰ぎ、大きくため息をつく。
俺がこんなにひ弱なのは、生まれつきの体質らしい。
俺の亡き母はエルフのように耳が尖っていたらしく、俺はハーフエルフってやつらしい。
だけど、特別な能力もないし、尖った耳すらない。
それどころか、虚弱体質で筋力も貧弱。
身長も低いままで、15歳だというのに、未だに10歳そこそこに見られる始末だ。
唯一の救いといえば、エルフ譲りの金髪碧眼の見た目くらいか。
「……どうせ俺は、見た目だけだよな」
ぼそっと独り言を漏らしながら、再び木剣を振る。
俺だって、いつかはS級ハンターになって、世間をあっと言わせるような大物を討伐してやるぜ……そう、あの伝説の魔女・メルジーヌとかね。
……なんて昔は無邪気に言ってたけど、現実はそんなに甘くない。
適当にサボりながら素振りを続けていると、やがて遠くから馬の蹄の音が聞こえきた。
その音は次第に大きくなり、やがて家の前で止まる。
砂埃の中、黒い馬の背から降り立ったのは、フードを深くかぶったハンター風の女。
(誰だ……?)
その女はゆっくりとフードを外した。
燃えるような紅い髪を後ろで無造作に束ねた姿。
日に焼けた浅黒い肌に、切れ長の金色の瞳―――まるで女狼のような鋭い雰囲気をまとっている。
風に揺れる彼女のマントの隙間から、腰に吊るされた見事な剣がちらりと覗く。
(……ただのハンターじゃなさそうだな)
警戒する俺をよそに、女は俺の顔を見た途端、意外にもニッと笑った。
まるで知り合いでも会ったかのように、親し気に歩み寄ってくる。
「ふう、やっと見つけたわあ、その金髪に青い目!」
「……俺?」
「そう! 君、ハンターのアレン・ロジエ君よね?」
「え? あ、まあ……そうですけど?」
俺は戸惑いながら答える。
「よかったわぁ!
もう何か月も探し回ってたんだから、大変だったのよ!」
……え、何この馴れ馴れしい人?
「えっと……どちら様ですか?」
「あっ、ごめんねぇ~。
でもね、悪いけどこれ、仕事なのよ」
「……仕事?」
俺が眉をひそめると、女はけらけらと笑いながら肩をすくめた。
「そう、仕事。だからねえ――」
次の瞬間、彼女の手が剣の柄にかかる。
「苦しまないように、スパっとやってあげるから!」
(え?)
疑問に思う間もなく、銀光が閃いた。
鞘から抜き放たれた剣の切っ先が、一瞬で目の前に迫っていた。
……マジか!
俺はパニックになりながらも、とっさに両手から風魔術を発動する。
爆発的な風の力で、自分ごと後方へ吹き飛ばす。
これは俺が唯一得意とする、ミラ直伝の回避魔術だ。
だが――
(速いッ!)
女の踏み込みは異常なほど速かった。
「ぐっ……!」
鋭い刃が俺の両腕を掠め、鮮血が噴き出す。
何が起こったのか理解できないまま、俺は地面に転がっていた。
「あら? 真っ二つにするつもりだったのに……
さすが、ちっちゃくてもハンターなのねえ」
女は剣を軽く回しながら、余裕の笑みを浮かべる。
(なんだこれは……ヤバい。とにかくヤバい!)
両腕の傷は深く、ズキズキと焼けるように痛む。
けど、それ以上にヤバいのは、目の前の女だ。
「……な、なぜ……俺を……?」
震える声で問いかける。
いきなり殺される理由なんて、全く思い当たらない。
「ふふっ、分かってるのよ。
君、聖王陛下の隠し子でしょう?
危険人物として、排除命令が出てるのよ」
「は?」
思わず間抜けな声が出る。
(聖王陛下の隠し子――俺が?)
聖王といえば、ラミビア聖王国の頂点に立つ存在。
……冗談だろ?
そんなバカな話、あるわけがない。
「ちょ、ちょっと待った! それ、絶対人違いだって!
俺、ただのハンターだし!」
「ふふふ……しらばっくれるのね。
でも、まあいいか。すぐにあの世行きだもんね」
女は再び剣を構える。
その動きは滑らかで、一切の迷いがない。
(ひ、ひぇぇ……この女、聞く耳もたねえ)
逃げる? 無理だ。
戦う? もっと無理。
「ま、ま、待って! 話せば分かるって!
ほら、人違いの可能性があるでしょ?
ね? ちょっと冷静に考えてみてよ!」
「ううん、ないわねぇ。確実に君よ?
これも仕事だからね。
おとなしく諦めてね」
「そ、そんな……」
俺は絶望しながら、じりじりと後ずさりする。
だが、身体は震え、足は言うことを聞かない。
女は一瞬で間合いを詰めると、容赦なく剣を振り下ろしてきた。
「み、ミラぁ!! 助けてぇぇぇ!!」
俺は絶叫しながら寝転がり、必死に身体を捻る。
(ダメだ、避けられない……!)
鋭い剣先が目の前に迫る――その瞬間。
突如、淡い『光の壁』が目の前に展開された。
「ギン!」と女の剣が弾かれ、壁はガラスのように砕け散る。
「アレン!!」
背後から、切羽詰まった声が響く。
振り返ると――そこには、蒼ざめた顔で防御魔術を発動している俺の保護者——ミラの姿があった。




