飛梅
太宰府駅に降り立つと、柔らかな春の空気が頬をなでた。
参道には観光客や家族連れが多く、にぎやかな声が響いている。
梅ヶ枝餅の甘い香りが風に乗って流れてきて、自然と肩の力が抜けた。
「やっぱり、ここって観光地なんですね」
隣でセリが少し目を丸くしている。
受付嬢のときの雰囲気とは少し違っていて、休日の私服姿が新鮮に見えた。
「そうですね。地元の人間からすると、ちょっと特別な場所って感じです」
「修学旅行の学生なんかも来たりします」
「学問の神様なんで、俺も受験のときはお世話になりました」
参道を歩きながら、俺たちは神社の入口へと向かう。
石の鳥居をくぐると、目の前に伏した姿の大きな牛の像――御神牛が見えた。
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御神牛
「……牛?」
「はい。御神牛っていって、道真公と深い縁があるんです。
この牛が動かなくなった場所にお墓が建てられて、そこが今の太宰府天満宮の始まりです」
「へぇ……そうなんですね」
セリは興味深そうに像を見つめる。
表面は多くの人に撫でられて、つやつやと光っていた。
「頭を撫でると、知恵を授かるって言われてるんですよ」
「じゃあ……」
セリはそっと牛の頭に手を伸ばし、やさしく撫でた。
「……これで、ちょっとは賢くなれるかな?」
冗談っぽく笑うその姿に、思わず俺も笑ってしまう。
春の陽射しの中、彼女の横顔が少しだけ近くに感じた。
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太鼓橋・心字池
さらに奥へ進むと、朱色の橋が水面に映えていた。
「太鼓橋」と呼ばれる三つの橋が、心字池に架かっている。
「この橋、それぞれ“過去・現在・未来”を表してるんです」
「……なんだかロマンチックですね」
セリが一歩、橋に足を踏み入れる。
はにかみながら一歩ずつ進んでいく彼女の姿を、俺は自然と目で追っていた。
揺れるたびに袖口から見える叶糸が、春の日差しを受けてきらりと光った。
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本殿
橋を渡り、楼門を抜けると、本殿の姿が目の前に広がった。
檜皮葺の屋根と豪奢な造り。何度来ても、どこか背筋が伸びるような場所だ。
「……すごい。写真で見るよりずっと立派ですね」
「ここは道真公の墓所の上に建ってるんです。だから、ちょっと特別なんですよ」
二人並んで鈴を鳴らし、静かに手を合わせた。
人のざわめきの中、ほんの一瞬だけ世界が静かになった気がした。
隣にいるセリの姿が、いつもより近くて――
不思議と心が温かくなった。
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飛梅
本殿の脇に、梅の木が静かに立っていた。
白い玉垣に囲まれ、まるでこの場所を見守るように枝を広げている。
「これが“飛梅”です」
「とびうめ……?」
「昔、菅原道真公が左遷されるとき、自分の庭の梅に
“春風が吹いたら香りを届けてくれ。私がいなくても春を忘れないで”
って歌を詠んだんです。
そしたらこの梅、一夜のうちに京都からここまで飛んできたって言われてます」
「……木が飛んで来たんですか?」
セリがくすっと笑う。
けれど、その声の奥に、ほんの一瞬――微かな震えが走った。
「言い伝えですけどね。京都から“転移”してきた、って言う人もいます」
その言葉を聞いた瞬間、セリの瞳が一瞬だけ揺れた。
風に揺れる枝のように、ごくわずかに。
「……転移、か」
小さく呟いたその声は、風に紛れて誰にも届かない。
けれど確かに、彼女の胸の奥で何かが鳴った。
「どうかしました?」
「ううん、なんでもないですよ」
セリはいつもの穏やかな笑顔に戻り、枝を見上げた。
その横顔を、ただ遠くを見つめていた。
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大樟
参道の左手にそびえ立つ一本の大樟。
樹齢は1,500年を超えるといわれ、見上げるほどの迫力だった。
「すごい……まるで生命そのものみたい」
「この木、ずっとこの神社を見てきたんですよ。千年以上も」
「千年……そんなに……」
セリは見上げながら、しばらく黙り込んだ。
手首の叶糸が風に揺れて、小さく光る。
――彼女がこの世界に来る前の、ずっとずっと昔から、この木はここに立っていたのだ。
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カフェでのひととき
参拝を終え、参道沿いの店に立ち寄った。
観光客でにぎわう店内に、甘い梅ヶ枝餅の香りが広がっている。
「やっぱり……こういうの、いいですね」
セリがカップを両手で包み込みながら微笑む。
ほんの少し頬が赤くなっていて、それがなんだか反則的に可愛かった。
「そうですね。地元民でも、たまに来るといいもんです」
「今日はありがとうございました。案内、すごく楽しかったです」
彼女の言葉に胸が少し熱くなる。
そして――セリがスマホを取り出した。
「あの……よかったら、連絡先……交換してもいいですか?」
「え、あ、はい!」
ちょっと声が裏返った。恥ずかしい。
でも、それを見てセリがふっと笑う。
――その笑顔が、やけにまぶしく感じた。