鯰石
週末の午後。
車を走らせながら、俺と橘さんは最初の目的地――針摺石へと向かっていた。
道の両側には田畑と低い山並みが続き、春の空気は少しだけ甘い匂いを含んでいる。
「こうして回るの、ちょっと遠足みたいですね」
橘さんが助手席で窓を開け、風を受けながら笑う。
その横顔は、会社で見る姿とは少し違っていて――素直に、きれいだと思った。
「ここらへん、バリバリの地元ですね」
「ふふっ、案内役にはぴったりですね、佐伯さん」
軽くからかうように笑われて、少しだけ肩が熱くなる。
……ほんと、油断ならない。
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針摺石は、小さな川沿いの道に面した場所にあった。
案内板には「道真公がこの石の上で針を摺った」という伝承が書かれている。
周囲は静かで、鳥のさえずりだけが響いていた。
「……特に、なにも感じませんね」
橘さんが目を閉じて小さく息を吸い、首を横に振った。
神社のときのような反応は――ない。
「ま、全部に何かあるわけじゃないですよね」
「ええ。でも……不思議ですね。あの日の神社の空気、やっぱり特別だったんだと思います」
風に揺れる髪を耳にかける仕草が、ふと胸をくすぐる。
俺は咳払いして、次の場所を確認した。
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次に向かったのは、鍬柄橋。
昔、このあたりで道真公が橋を渡ったと伝えられている場所だ。
小川のせせらぎが心地よく、春の光が水面で揺れている。
「ここも……静かですね」
「何かあるというより……落ち着く感じだな」
橘さんは橋の欄干にそっと触れ、目を細める。
その横顔は、まるで何かを探るようだった。
けれど――やはり、神社のときのような“反応”はない。
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そして最後に、**鯰石**へと向かった。
大きく裂けたような形をした岩が、川沿いにぽつんと佇んでいる。
近づくにつれて、空気の“重さ”が少しだけ変わった気がした。
「……ここ、ちょっと違います」
橘さんが小さく息を呑む。
その手が自然と叶糸に触れた。
俺も近づいて岩を見上げる――確かに、あのときと似たような、説明できない感覚があった。
「魔力……ほんの少しだけ、残ってます」
橘さんの声は低く、真剣だった。
神社ほどは強くない。でも、確かに“ある”。
「なんでここに……」
「わかりません。でも、ここが“なにか”の跡なのは間違いないです」
裂けた岩の線を、橘さんが指でなぞる。
その仕草が妙に神聖に見えて、俺は息を呑んだ。
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「神社と……この岩」
「転移と関係してる可能性、ありますね」
「少なくとも、偶然じゃなさそうです」
春の風が吹き抜け、川面に光がきらめいた。
昔から地元にある“ただの伝承の場所”が、今はまったく違う意味を持って見える。
橘さんが真剣な表情で岩を見つめる横で、俺は思う。
――この調査は、確実に何かへと繋がっている。