聖女と呼ばれる人
福岡市の中心にそびえる高層オフィスビル。
その自動ドアをくぐった瞬間、営業部に異動して一週間の俺――佐伯悠真の胸は、ほんの少し緊張でざわついていた。
地元・筑紫野市から通勤するようになり、毎朝のこのビルにも少しずつ慣れてきた。
だが今日は、初めて担当する取引先との打ち合わせだ。
胸に資料のファイルを抱え、エントランスの総合受付へと向かう足取りは自然と固くなる。
「いらっしゃいませ。ご来館ありがとうございます」
その声を聞いた瞬間、時間がゆっくりと流れたような気がした。
受付カウンターの向こうに立っていたのは、淡いピンク色の髪を整えた女性だった。
柔らかな光の中で、髪がふわりと揺れ、深いアメジストのような瞳が来訪者を見つめている。
――美しい。
そう思うよりも先に、胸が高鳴った。
心臓が一拍遅れて跳ね、呼吸が浅くなる。
たった一瞬、視線を交わしただけなのに、なぜか世界がそこだけ切り取られたようだった。
「おい、ボーッとすんなって」
横から肘で突いてきたのは同期の山本だ。
慌てて目を逸らす俺に、山本はにやりと笑う。
「な、見たろ? あの人、橘さん。ここの受付嬢だよ。
このビルじゃちょっとした有名人で、みんな“天使”とか“聖女様”とか呼んでる」
「……聖女様?」
「営業でこのビルに来る男、だいたい一回は惚れる。アプローチして玉砕したやつ、数知れずだぞ。
ま、悠真には高嶺の花ってやつだな」
「べ、別に……そういうんじゃないから」
口では否定しながら、胸の奥ではすでに分かっていた。
俺は――橘さんに、一目惚れしたのだと。
それからというもの、俺はこのビルに来るたび、無意識に受付を探すようになった。
彼女の姿を見つけるだけで、朝のだるさが少しだけ和らぐ。
笑顔で来訪者を迎えるその姿は、まるで世界のどこよりも美しく、穏やかで、癒しに満ちていた。
……ただこのときの俺はまだ知らなかった。
橘さんと呼ばれているその女性――セリが、
本当にこの世界に降り立った“聖女”だったということを。