10
頬に冷たいものが触れて、何かと指を伸ばしてみたら水滴だった。微量の水はすぐに蒸発して消えたが、暗雲が立ち込めた空からは大粒の雨が落ちてきている。すぐに本降りになりそうな曇天を仰ぎ見てから、オレはゆっくり立ち上がった。帰ろう。
瀬川の課外授業は楽しいと評判だったが、参加して損をした。あんなガキっぽい『ごっこ遊び』が楽しめるはずもなく、どちらかと言うとついていけない。何故、あんなことが楽しいんだ? どうしてあんなことくらいで楽しめるんだ? オレには、その神経が解らない。
のんびり遊歩道を歩いていたら滝のような夕立に襲われた。だけどオレは、急ぐこともなく雨の中を歩いている。雨は槍になったりはしないし、打たれたくらいで死ぬはずもないからだ。濡れた髪やシャツが肌に張り付いて気持ち悪いが、ただそれだけのことだ。
夏の夕立は一時にザッと雨を降らせ、すぐに上がった。だが空はまだ厚い雲に覆われているから、もう一雨くらいあるのかもしれない。これだけ濡れた後では何度雨に降られようと同じことだが、よくよく考えてみたら今日は電車なんだよな。さすがにこの格好で電車に乗ることは出来ないから、どこかで服を乾かそう。雨上がりだが気温は高いままだし、太陽が顔を覗かせれば髪も服もすぐに乾くだろう。
「高野」
雨をしのげそうな場所を探して歩いていると、不意に名前を呼ばれた。声のした方へ顔を傾けてみれば、そこには担任教師の姿が見える。緑の葉が雫を滴らせている大木の下で、瀬川がオレを呼んでいた。
「雨宿りもしなかったのか」
濡鼠のオレを見て、瀬川は訝しそうに眉根を寄せる。そんなことを言う瀬川は、この大木の下で雨宿りをしていたのだろうか。青々と茂っている葉は思いのほか雨を防げるものらしく、瀬川はあまり濡れていなかった。皮肉な気分で、オレは口元を歪める。
「雨に打たれても死ぬわけじゃないからな」
「……退屈そうだな」
「ああ、退屈だね。今も、これから先も、きっと退屈だ」
自分で考えていたよりも、オレの口調はきつかった。課外授業を全否定した形になったから瀬川も閉口する。オレに愛想を尽かして、瀬川なんかどこかへ行ってしまえばいい。そうすればオレも、瀬川のことなんかどうでもよくなるはずだ。だけどいつまで経っても瀬川は立ち去ることなく、オレの隣にいた。
「……高野」
しばらくの沈黙の後、瀬川の方から口火を切った。オレは瀬川を振り返ることもなく、短く反応を返す。瀬川がどんな顔をしているのかは分からなかったが、ヤツは淡々と言葉を続けた。
「目を閉じてみろ」
「……何で?」
「新しい世界を高野に見せるためだ」
瀬川が意味不明なことを口走るから、オレは思わず眉根を寄せながら振り向いてしまった。瀬川は真顔のまま、じっとオレを見ている。まるで、オレが言いつけに従うのを待っているかのようだ。
新しい世界、何とも胡散臭い響きだ。目を閉じただけで世界が変わるのなら、誰も好き好んで苦労なんかしない。世の中には苦労をしているヤツなんて山ほどいる。だから瀬川の言葉は嘘なんだ。
「次に目を開けた時、高野の世界は確実に変わっているはずだ。俺が保証する」
確実にとか保証するとか、どこからそんな根拠のない自信が湧いてくるんだ。そこまで言い切るのなら従ってやってもいいが、目を開けても世界が変わっていなかったらどう責任を取ってくれる? オレがそう尋ねても、瀬川はけろりとした顔で答えを口にした。
「何も変わっていなかったら、何でも言うことをきいてやろう」
「じゃあ、オレが教師やめろって言ったら聞いてくれんのかよ?」
軽々しく『何でも』とか言うから、ついムキになってしまった。この条件だったら絶対に怯むだろうと思っていたのに、瀬川はアッサリと頷いて見せる。こいつ、正気か? いいよ、そこまで言うなら新しい世界とやらを見せてもらおうじゃないか。
目を閉じると湿った土のにおいが鼻についた。夏に特有の、雨上がりのにおいだ。どこか遠くで蝉が鳴いている。この鳴き声はツクツクボウシか? この蝉の声が聞こえてくるようになると夏も終わるんだよな。そんなことを考えていたら不意に、唇に何かが触れた。
驚いて目を開けたら、オレの視界を占めていたのは瀬川の端正な顔だった。初めてキスした時と同じように、瀬川の瞳に映ったオレが困惑顔をしている。うろたえてる自分の姿なんて、見せるなよ。こんな時にキスしてくるなんてどういう神経してんだ。
「高野、空を見てみろ」
そう言って、瀬川はオレの前から体を退けた。わけが分からないまま、オレは言われた通りにしてみる。すると空は、オレが予想もしていなかった様相を呈していた。厚い雲の切れ間から注ぐ筋状の光が、この世のものとは思えないくらいキレイだ。
「雲間から洩れる太陽の光芒を、天使の階という。珍しい光景ではないんだがこうして改めて見ると、きれいだろう?」
解説を加えている瀬川に返事をするのも忘れるほど、オレは空に見入っていた。空がこんなにキレイなものだったなんて、知らなかった。この現実離れした光景が珍しくないなんて嘘だ。
「光に照らされて煌めく雨の雫、その雫を乗せて輝く青々とした葉、天使が舞い降りて来そうな空。世界は、美しい。そのことを知っているだけで、ずいぶんと世界が変わると思わないか?」
どんなに美しい情景も、毎日のように眺めていれば必ず見飽きる。それは美しさが日常に取り込まれてしまうことで目新しさを失ってしまうからだ。だがそれでも、美しさ自体が損なわれるわけではない。見慣れた日常の光景も少し視点を変えるだけで新鮮に思えるものなのだと、瀬川は言った。
「キス一つとってみても、それは同じだ」
そう言って、瀬川はオレに顔を近づけてきた。空を映していたオレの視界が、再び瀬川で占められる。そのキスを受け入れたくて、オレは自然と目を閉じた。
要は、気持ちなんだ。全ては自分の心持ち一つで変わって行く。くだらないと思う『ごっこ遊び』も最初からアホくさいと思わず真剣にやってみれば案外に楽しめるかもしれないし、やり飽きたと思っていたキスも、その時々の感情が違えば常に新鮮なものになる。すげぇよ、瀬川。あんた、やっぱり教師なんだな。
「人生は楽しいぞ。だから腐ってないで青春を謳歌しろ」
体を離した後、瀬川は教室で見せるような爽やかな笑みを浮かべ、素の口調でそんなことを言ってのけた。ひょっとしてこの課外授業も特別指導の一環……だったりしたのか? もしそうならば、オレはまんまと嵌められたわけだ。まあ気分いいから、別にいいけど。
「せがわー」
「先生と呼べ」
「センセー、キスしたい」
一度目のキスはときめきを、二度目のキスは衝撃を、三度目のキスはオレに不思議な心地よさをもたらした。次に瀬川とキスしたら、今度はどんな感情が与えられるだろう。オレはそれを知りたかったんだけど瀬川は何を思ったのか、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて見せる。
「はまったか? でもダメだ」
「えー? 何でだよ。さっきはそっちからしてきたじゃん」
「高野は熱しやすく冷めやすいんだろう?」
それはつまり、オレを飽きさせないために焦らすということか? というか、何でそんな必要があるんだ? オレを焦らしてどうしようっていうんだよ、瀬川。
「雨も上がったことだし、そろそろ解散にしよう。その前に、散った生徒を呼び戻さないといけないな」
反応を返せないでいるオレを置き去りにして、急に教師の顔に戻った瀬川はさっさと歩き出した。人間っていうものはどうして、禁止されればされるほど燃えるんだろう。計算高い瀬川が恨めしく思えるほどに、オレは瀬川にのめりこみ始めているみたいだ。その証拠に、瀬川とキスしたくてたまらない。
「いたいけな青少年に禁欲を強いるなんて鬼畜だろ」
届かない独り言を瀬川の背に投げつけてから、オレは仕方なくヤツの後を追った。




