ううううう
公園
サキはサトシと待ち合わせをしている公園へ急いで向かった。
「うわっ!」
公園のブランコに走っていく途中で男の子とぶつかった。歳は小学校低学年くらいだろう。
赤いロープジャングルがシンボルのこの公園で小学校低学年の男の子と女の子が三人グループで公園にあるコンクリートの舞台で楽しそうにはしゃいでいた。間もなく遅れてサキとぶつかった男の子が合流した。
サキは待ち合わせ時間よりも大分前に来てしまったことに気付いて、一人ブランコに腰を掛けた。日差しが強い。急いでいたので家から帽子を被ってくることを忘れてしまった。しかしサキは日陰に隠れることはせずに、公園のブランコにただ座っていた。
サトシは公園のブランコに座っていた。
「久しぶり 元気だった?」
サキはサトシに話しかけた。
「私は何とか元気でやってるよ サトシと会うのっていつぶりになるのかなあ? 私は東京で自営業をしているんだ お店も持っているんだよ 自営業だから気ままにこうやってお休みが取れるんだよ だからサトシの休みにだって合せられるんだからね」
サトシはしゃべらない子なので、サキは反応がなくてもあまり気にしなかった。サトシはブランコに座って、ただ前を見ていた。
「しかしさあ サトシは相変わらずだね 全然年取らないんだね 私なんかもうすぐ三十歳になるよ いいおばさんだよね? そうだっ! 二人が初めて会ったあの場所に行こうよ 懐かしいね」
サキはブランコから立ち上って、サトシと手を繋いで病院に向かった。
「なんか まるで親子みたいだね ちょっとショックなんだけど」
サキはサトシにお尻をぶつけて笑った。長い坂を上った天辺に病院が見えた。サキはこの病院でサトシと出会った。この病院では色々なことがあって確かに嫌な思いもしたけど、それでもサトシに会う事ができたので、この病院はサキにとってとても特別なところだった。
「ああ すごい懐かしいね どんぐらい前だ? 見て見て! 屋上に人がいるよ 先生と女の子だね 何してるのかなぁ? サトシ ちょっと屋上まで行ってみない?」
陽は完全に沈んでいて、明るい月が出ていた。病院は賑やかに感じたが人がいないので、誰にも何も言われずに屋上まで行くことができた。
「ここでさあ サトシとポテトチップを食べたときにサトシの手が血だらけだったことに気付いて二人で大騒ぎしたこと覚えてる? なんかバリケードに指を差しちゃったときあったじゃん それでサトシと姉弟の契りを交わしたんだよね? 私も指を噛んで血と血をくっ付けたんだよねー」
サキは笑ってサトシの顔を見つめていた。サトシもサキをみて笑ってくれた。
サキは今から発する自分の言葉の意味と発する声のイントネーションのギャップを想像して頭の中で何度か言葉を繰り返した。
「……ふぅ 今からここから飛び降りて死にまーす 今度こそちゃんと撮ってよね」
満月で大きな月がサキとサトシの表情を照らした。
サキが病院の屋上のフェンスを上ろうとしたときにサトシに手を掴まれた。
「サキ ダメだよ 飛び降りちゃダメだ 生きろ」
サトシは真剣な顔をしてサキを見つめていた。サキはサトシの手を振りほどいてフェンスの外に出ようとしたが、サトシの力が強くて後ろに倒れ込んでしまった。
「なによっ! じゃあなんであの時は 死ぬなって言ってくれなかったの! 私は本当は恐かったのにっ 死ぬのが本当に怖かったのにーっ なんで なんで今頃そんなこと言うの? サトシはずるいよ! なんで なんで急にいなくなっちゃったの? 先に死んじゃうなんてダメじゃん だったら一緒に死ねば良かったじゃん! ワーーーーンッ」
サキは大声で空を見上げて泣き出した。力強く背中に熱い体温を感じていた。本当は分かっていたのかもしれない。カスミがサキを後ろから強く抱きしめて飛び降りるのを止めていたのだった。
あの事件があってからこの病院は廃墟となっていた。今は誰もいない病院なのだ。カスミはとても怖かったけどそれ以上にサキを守るためには最後まで終わらせないといけないような気がしたので、ギリギリまで見守っていた。その甲斐あってかサキは落ち着くと正気を取り戻した。
「カスミン ありがとう ごめんね 怖かったでしょ? お化け出そうだよね?」
「うん めっちゃ怖かったよ」
「どうする? これから」
「とりあえず 美味しいものでも食べに行きますか?」
「うん」
カスミはサキの手をしっかりと握りしめて廃病院を後にした。
※未収録 から騒ぎ ハロウィン
から騒ぎ祭
ケンイチの仕事場はなんだかそわそわしていた。皆時間を気にしているようだった。ケンイチは不思議に思い、近くの女の子に話しかけた。
「今日は何かあるの? みんななんか早く帰りたそうだけど」
「えっ! 高橋さん 知らないんですか? 今日はワールドカップの日本戦なんですよ みんな八時のキックオフには家に帰ってテレビを観たいんですよ」
そう言ってるうちに定時となった。皆、時間を見計らったように立ち上がって会社を出て行ってしまった。部長にいたっても例外ではなく会社はケンイチ一人を残してシーンと静まり返っていた。サッカーには正直あまり興味がなかった。というよりもスポーツ全般が苦手だったので、野球やサッカーなどのスポーツはあまり見る機会がなかった。子どもの頃はオリンピックのせいで楽しみにしていたアニメ番組もオリンピックになってしまったことに腹を立てていたくらいだった。
ケンイチはしばらく残業をして、誰もいなくなったオフィスの戸締りを確認してから会社を出た。新宿西口のオフィス街ではまるでホラー映画の様に人っ子一人いない状況で少し異常だった。しかし繁華街に脱出すると、町はハロウィンに彩られていた。ワールドカップとハロウィンで仮装した人と日本代表のユニフォームを着た人たちでJR新宿駅はごった返していた。いろんな人がいるんだなと少し呆れた気持ちでケンイチは京王線のホームに向かっていった。京王線はいつもより混んでいて、座ることはおろか身動きができないほどに詰め込まれた電車の中でしばらく過ごすことになった。ケンイチはワールドカップも腹を立てる対象となりつつあった。少しハロウィンも手伝っているようだったが会社の女の子が言っていた家に帰ってという部分がちょっと違うのではないかのかと思い、このワールドカップのキックオフに合わせて、自分自身がユニフォームを来て町中に現れる者たちは、日本代表を応援する気が本当にあるのかと疑問に思ってしまったのだった。
笹塚駅に着くと途端に肌寒くなった。電車の中でおしくらまんじゅうをしていたため、ふと外に解放されると、夜の空気が肌にまとわりついていた他人の熱気を急速に拡散していった。ケンイチは着ていた上着を体に密着させるために引き締めて改札口を出た。
から騒ぎバーでは毎年恒例の仮装パーティーが催されている。ケンイチがから騒ぎバーの仮装パーティーに参加するのは二回目だった。一回目は仮装をせずに仕事帰りにフラッと立ち寄った。二回目の本日はケンイチなりに準備をしていた。仮装と聞いて迷った。迷ったのはマスクの選択だった。フランケンシュタインか狼男の精巧に作られたマスクのどちらにしようかを迷っていたのだった。ケンイチは迷いに迷った挙句、他のマスクよりも値が張ったがオラン・ウータンのマスクを選んでいた。埼玉の動物園でカスミがオラン・ウータンの檻から離れずにずっと見ていたことが頭にあったので、もしかしたら喜んでくれるだろうという思いから実は前々から準備をしていたのだった。
から騒ぎバーの入り口付近からもう賑やかな雰囲気が伝わってきていた。ケンイチはカバンに忍ばせておいたオラン・ウータンのマスクを被ってからお店の中に入っていった。
「わーっ! オラ・ウータンだぁ」
誰かが入り口を気にしていて叫んでいた。ケンイチはもう慣れていて、両手を上げてとりあえず皆の注目が収まるのを待った。口と目の所に穴が開いているのでかろうじて息ができる。
「お兄ちゃん こっち!」
声のする方に目を向けると、トモエがワイン樽のテーブルに座って、ケンイチに手を振って呼んた。トモエの隣には知らない女の子が座ってケンイチの方を楽しそうに見ている。トモエの仕事先の先輩らしい。璃子という。とても大人っぽくて清楚できれいな女の子だった。トモエからは今までケンちゃんとしか呼ばれたことがなかったのに、埼玉に帰った頃からお兄ちゃんと呼ばれるようになった。
「よくお兄ちゃんだってわかったね トモエ」
「うん だってわかるよ お兄ちゃんだもん」
隣にいる璃子はとてもうれしそうにケンイチを見つめていた。二人は赤ワインを飲んでいた。ケンイチは何か違和感を感じていて、体感よりも時間差があって二人の仮装というべきか衣装の完成度に驚いていた。ただオラン・ウータンのマスクを被って我が物顔でから騒ぎバーの入り口を潜り抜けてしまったことをなんとなく後悔してしまうほどだった。
トモエと璃子は一時期に一世風靡したアイドルデュオの装いだった。いつも地味な男っぽい恰好しかしていなかったあのトモエが、女の子らしい恰好をしていることにケンイチは驚きと嬉しさを感じていた。タマオにも見せてやりたいなとケンイチは思った。トモエと璃子は目立っていて他の客の目を引いていた。他の若い男たちが二人に何とか話しかけて仲良くなりたいというような雰囲気がケンイチにもなんとなく伝わった。
ケンイチはトモエの成長をを喜ばしく思っていると突然後ろから目隠しされた。オラン・ウータンのマスクは口と目に微かな穴が開いているだけなので、目の所を隠されるとケンイチは途端に息が苦しくなった。
「楽しんでる? ケンイチ君」
振り返るとレイコさんだった。バドワイザーのハイレグを着ていて目のやり場に困るようなきわどい恰好だった。
「あとでお姉さんが、あなたの知らない世界の雑学をしっかりと教えてあげるからね」
そう言うとレイコさんは笑顔でその場を離れ、他の知人に近付いて話し始めていた。
トモエと璃子が楽しそうに他のお客さんと楽しく話しているのを何を想うわけでもなくケンイチは一人で世界の瓶ビールを適当に飲みながらみていた。どこにいても誰かがケンイチに話しかけてくれるのでケンイチは相手に対して全力で対応した。なのでケンイチも話し相手がいなくなるというようなことはなかった。しかしケンイチはそろそろ人を待っていた。それはカスミとサキだった。彼女たちは今何をしているんだろう? 毎年恒例のから騒ぎ祭りに顔を見せないのだろうか? そんなことを想っていた。気が付くとお店の入り口を気にしている。そんな時に不思議な客がやって来た。その男はケンイチと同い年くらいでケンイチが初めて見る顔だった。ハロウィンなのに何の仮装もせず、ふらっと来たわけではないようで誰かを見つけているような素振りをしていた。ケンイチは昔の自分を少し思い出して、その時に優しく声を掛けてくれたカスミの様に振舞いたいと思い、ケンイチはその男に近付いた。
「こんばんは 誰か待ってるの?」
「はい カスミという人に呼ばれたんですけど知ってます?」
「うん 知ってる カスミさんとはどういうお知り合いなの?」
「いえ ぜんぜん 知りません」
ケンイチは自分の知っている人の名前を男から聞いて、その男は呼ばれた人のことは何も知らないというこの状況に狼狽えてしまった。
「ん? カスミさんの事は知らないのにここにやって来たの?」
「ええ 何というか カスミさんの知っている人が僕の知人なわけで……」
ケンイチが見慣れない男と話していると、すぐに謎が解けた。それは入り口からやって来た二人の美女が解決をしてくれた。カスミとサキだ。二人はスリットの深いチャイナドレスのペアでやって来ていた。おそらくこの寒空のなか、歩いて方南町の家から歩いてきたのだろう。タクシーで来ればよかったのに、お店に到着した二人は自分たちが寒さで震えていたことに今頃気付いたように寒さをはしゃいでいた。その様子に周りの客たちはケンイチも含めて釘付けになってしまっていた。
「カスミさ~ん サキさ~ん」
トモエが二人に大きく手を振って、自分の隣の椅子をペンペンッと叩いていた。トモエは顔が赤くなって十分に酔っぱらっているようだった。美女たちが集まる一角にはレイコもいて、このから騒ぎバーでは空前絶後の華やかさを演出していた。何気なくテナントを通り過ぎる人たちも立ち止まって、人だかりができてしまうほどだった。ケンイチと男がカウンターに腰を掛けて話し込んでいると、何かに気付いたサキがすくっと立ち上がってこちらに近付いてきた。
「もしかして サトシ だよね」
ケンイチはピンッときた。カスミに呼ばれたということはカスミがサトシを探し当ててこの日にこの場所に呼び出したのだろう。
「うん」
サトシがぶっきらぼうな口調でチャイナドレス姿の美しいサキに答えた。
「そっか…… 声変わりしたんだ」
「うん」
「生きてたんだ」
「うん」
「お姉さんは……心配してしまったんだぞ」
サキがサトシの頬を右手で撫でた。
「サキはあのあと病院が変わってしまったんだ いつものようにサキに会いに行ったら何もなくて……それで今やっと会えたんだ……」
「ごめんねっ! 知らなかった」
サキがサトシを抱きしめた。
「カスミという人からダイレクトメールをもらってここに来たんだよ」
サキはサトシと体を離してから驚いた表情でカスミの方を見ていた。
「カスミン ありがとう ケンイチさんもありがとう」
本物のサキの笑顔はとてつもない威力があった。自分のオーラを防御に徹していないと気絶してしまいそうな素敵な表情だった。実際周りの男女の数名が「尊い」という言葉を言った後にその場に倒れてしまうほどだった。
「ケンちゃんはオラン・ウータンなの?」
「そうだよ」
「ケンちゃんのこと好きかも」
「えっ? 今更なの?」
ケンイチはカスミの言葉と表情を小さい穴の奥から見逃さずに見つめていた。いつか見た長い悪夢はまだ終わっていなくて、もしかしたら今好きと言ってもらえた瞬間から現実が始まったのかも知れないと思ってしまった。カスミの言葉に一喜一憂してしまう自分がとても滑稽に感じた。カスミの事をただひたすらと誰にも目もくれずにいられる自分の事が好きで堪らなかった。自分ひとりでは完結出来ない危うい人間関係でどのようにすればブレずにいられるのかと思ったときに、最終的にたどり着いた答えは自分を好きでいることなのだとケンイチは理解していた。
この後から騒ぎバーでは全員が集合して記念写真が撮影された。
二人目の子ども
「あっ もしもしカスミさん? うん…… うん……お祝いありがとうございます すごい可愛い洋服だね うん二人目は男の子だよ 名前はケイト こっちはすごい雪だよ」
トモエがビデオ通話に切り替えてくれて、外の景色をカスミとケンイチに見せてくれた。大粒の雪がゆっくりと落ちてきて、辺り一面が真っ白な世界である。それは暖かそうな家の中の大きな窓ガラスから映し出されていた。トモエは振り返り、家の中の泣きじゃくる生まれたばかりの赤ん坊を抱っこして、あやしているタマオの奮闘劇を映していた。次にトモエのビデオは笑顔で走って来る女の子を捉えていた。
「マリエ カスミお姉さんとケンイチおじちゃんだよ こんにちわーっして」
トモエが長女のマリエの目線にカメラの高さ合わせると、マリエが楽しそうに手を叩いて、カスミの顔を覗いていた。
「マリエちゃーん こんにちわー」
カスミは満面の笑みでトモエの子どもに手を振ってみせた。マリエはすぐに飽きてママの顔を見上げると、抱っこをせがんでいた。
「そっちは雪がすごいなぁ それで外とか出掛けられるの? 買い物とかどうするの?」
ケンイチはトモエに質問した。
「うん こっちは共同で除雪機を持っていて、当番制で県道に出るところまでの私道は自分たちで除雪するんだよ でも県道は毎日除雪してくれるからタマオも仕事に毎日行けてるよ」
「あっ! お兄さん 久しぶりです! お姉さんも久しぶりでーす」
タマオが遠くから、赤ん坊をあやしながらこちらに話しかけていた。薪ストーブの近くでは丸くなっているゴールデンレトリバーが気持ち良さそうに寝ていた。トモエもタマオも今では立派な母親と父親の顔をしていて、ケンイチは感慨深いものを感じていた。みんなで埼玉に行ってからもう三年の月日が経とうとしていたのだ。ケンイチもそろそろカスミとの将来を真剣に考えなければならないと思っていたところだった。
「サキさんはあれから大丈夫なの?」
トモエは器用にマリエを持ち上げながら、スマートフォンを自分とマリエが見えるような位置に立て掛けてソファーに座った。
「うん 通院しながらだけどなんとか生きてるよ」
「カスミさんっ! 縁起の悪い事言わないのっ!」
ケンイチはカスミの冗談をたしなめた。サキはあれからよく埼玉にときどき帰るようになった。母親とのわだかまりが溶けたようで、気が弱くなった母親を励ましに行っているとのことだった。もう年末でサキは埼玉の実家に帰って今年は母親と紅白を観るんだとか。ケンイチも仕事納めが終わり、昨日から方南町の家でカスミと二人きりで年末を過ごしていた。
ケンイチには重大な発表があった。仕事で大阪に転勤になることになっていたのだ。まだカスミには伝えていなくてどのタイミングで話せばよいか分からないまま年末を迎えてしまったのだった。
ケンイチの職場
「失礼しまーす」
ケンイチは上司である部長にミーティングルームに呼び出されていた。心当たりはなかった。新人の頃はよくこの人に怒鳴られていた。今思うと自分の事を一生懸命育ててくれていたんだと思う。いつしかケンイチにも後輩ができて、ときどき部長と飲みに行ったりして、後輩との付き合い方をどうすれば良いかなど相談に乗ってもらっていた。面倒見の良い部長は自動販売機で缶コーヒーを二つ買ってきて一つをケンイチにくれた。
「どうも」
ケンイチはプシュッと缶コーヒーのプルタブを開けた。
「高橋さあ 最近 お前変わったな 何かあったの?」
部長はまたいつもの雑談をしてきた。部長はたまに何の用もないのにこうやってケンイチをミーティングルームに誘って二人でコーヒーを飲む時間を作ってくれていた。そのまま仕事の話をせずに終わることがほとんどだった。ケンイチはこの時間に最初何の意味があるのだろうと思っていたが、気が付くとケンイチは部長を信頼していて、いろんな悩みを打ち明けることが出来ていた。ケンイチはこの部長のこういう部分を盗んで後輩たちに接するようにしてみたら、人間関係が割とうまくいくことに気が付いたのだった。
「えっ! 何すか急に」
「うん 何か表情がさあ 良くなったよ お前」
ケンイチは褒められて照れてしまった。
「今、大阪本社で大きなプロジェクトが立ち上がっていることは知っているよな?」
「はい 詳しくは知らされていませんけど この間の納会で社長が言ってたやつですよね?」
「そうそう あれなんだけど 東京支社からも何人か参加することになっていて うちの部署からはお前に行ってもらおうと思っているんだ。大阪に四~五年修行してこいよっ!」
「ええ! オレっすか?」
「うん お前」
「このプロジェクトが成功したら、それなりのポストが用意されるぞ 年収が変わるからな お前彼女いるの?」
「……まあ いますけど」
「その人とは将来とかを考えているのか?」
「まあ 一応 考えてますけど……」
「お前 埼玉出身だったよな? 帰って来たらお前が大宮支社で本部長だよ」
「ええ! それはないですよ だってまだオレ入社して……」
「いつまで新入りの気持ちでいるんだよっ!」
部長が思い切り、ケンイチの背中を叩いた。
「お前だから やれるんだ 俺が信じているお前を信じろ!」
「それって どっかのアニメで聞いたセリフっすよ」
「うん 懐かしいだろ じゃあ よろしくな」
部長はそのままミーティングルームから出て行ってしまった。ケンイチは部長がいなくなったのを確認すると、ガッツポーズをして飛び上がった。カスミは自分の出世を喜んでくれるだろうか? ケンイチは埼玉に庭付きの一軒家を建てて、普通の幸せな家庭を想像してみた。
夢のはなし
年が明けるとケンイチとカスミは午前中には家を出て、大宮八幡宮まで初詣に出掛けた。方南町の裏道から都道に沿って永福町方面を歩いてゆくと、段々と参拝目的の長い行列が見えてきた。カスミと初詣をするのは初めてだった。カスミはあまり興味がないということで、不思議なことに昨年と一昨年はサキと二人で初詣に行っていた。ケンイチはカスミの分までおみくじを引いて、その画像を送っていたのだった。今年は珍しくカスミのほうから初詣に行こうと言ってきた。
「やっぱり 並ぶんだね よくこんな寒い中、神社にみんな来たがるよね」
「うん でもそれが日本の仕来たりなんじゃないの?」
「ふうん」
カスミは行列の先頭を見ようとつま先で立って、眉のあたりをピンっと伸ばした手で押さえていた。自分から誘っておいて文句を言っていることにケンイチは少しだけ納得がいかない気持ちだったが、プロポーズのタイミングとしてはまあ良いのかなと感じていた。めでたいし。やがて順番が来るとケンイチは用意していた五百円玉をカスミに渡した。自分の分の五百円玉を賽銭箱に投げて、二回お辞儀をして、二回手を叩いて、最後にもう一回お辞儀をした。カスミも鮮やかなほどきれいに一連の流れをしていた。
(これからも自分の周りの人たちが何事もなく、健康で一年を過ごせますように あとカスミが自分の出世を喜んでくれて プロポーズをオーケーしてくれますように)
ケンイチは一通り願いを伝えると後の人に場所を譲った。
「ケンちゃん この先の永福町商店街でなんか食べて帰ろう」
「うん 美味しい日本酒を熱燗で飲もうか?」
「それいいねっ」
二人は傾斜の緩い長い坂道をゆっくりと上って、永福町の商店街に向かった。商店街ではお昼から屋台が出ていて、ケンイチとカスミは熱燗を二つもらい、大きな牛串ステーキと広島風お好み焼きを買って、設置されていたテーブルに座って食べていた。ケンイチは早く伝えてしまった方が良いと思って姿勢を正し、お好み焼きを割りばしでつついて食べているカスミを見つめていた。心臓は多少ドキドキしていた。
「なあに? ケンちゃん」
何も知らないカスミは改まった態度の自分に気付いたようで、どうしたの? という顔をしていた。
「実はさ オレ 大阪に転勤することになったんだ」
カスミはとても驚いた表情でケンイチを見ていた。
「多分だけど、四年くらいは大阪にいることになる それで……」
「ごめん ケンちゃん 私も今日は言わなければならないと思ってたことがあって 外で話した方がなんか言いような気がしてケンちゃんと初詣に来たの……」
「ん? なに?」
ケンイチは最後まで言い切れないというか言わせないように遮ったカスミの言葉の先がなんとなく怖かった。
「ケンちゃん 今までありがとう わたし 北海道に帰ることにしたの」
「えっ!」
ケンイチは血の気が引いていくのを感じた。まだ酔うほど飲んでいないが、吐きそうなほど心が苦しくなってしまった。
「カスミ オレと結婚をしてくれないか?」
ケンイチは頼りない口調でカスミに言った。
カスミは顔を横に振った。
「なんで? なんで急にそんなことを言うのっ!」
寒さのせいではない。ケンイチは本当に大切な人が何をしても自分の元を離れてしまうのではないかという恐怖心から震えあがっていたのだった。今までの人生は割と順調な方で、挫折したことは数えるほどしかなかった。それでも何を置いても失ってはいけない人間が目の前にいて、何をどうしたらいいのかが分からないというこのような経験は一度もなかった。ただ、なんとなくこんな日が来てしまうのではないかという予感はどこかでずっとあって当たってしまったんだなとケンイチは思ってしまった。長い夢から醒めただけかもしれない。ケンイチとカスミが恋人として過ごした日々は意外とあっけなく終わってしまった。
架純のこと
カスミが二十一歳のときの回想をする。
カスミは傘を差して葬儀場から少し離れたところで立ち尽くしていた。北海道の冬。小雨が降っている。カスミはある男のことだけを心配して葬儀場に来ていた。しかし葬儀場の中に入ろうなどとはまったく思っていなかった。
ここ札幌市北区屯田の葬儀場では彼氏の奥さんの告別式が行われていた。しばらく待っていると、棺を運ぶ喪服の男たちが四隅とその中間地点にあたる部分を合計六名で霊柩車に運び入れていた。少し時間をずらして葬儀場からうなだれた彼の姿が現われた。彼は一人何も持たず、顔を俯いていた。棺を運んでいた男たちは彼の存在を全く無視している様子で、力なく歩きだした彼の肩に、一人の男がぶつかると、その男は彼を睨み付けていた。出棺で外に出て来た他の人たちの数人がカスミのことに気付き始めた。人の良さそうな女の人がこちらに近付こうとしていたが、すぐに呼び止められて戻って行った。
彼の奥さんは精神を病んでいたらしい。原因は色々あると思うのだが、自殺の決定打となったのは旦那さんの浮気だった。原因は自分にあるのだとカスミは認識をしていた。
霊柩車が短く二回クラクションを鳴らした。彼はクラクションの音にビクッとなって肩が揺れた。自分ができることは彼の苦しみを一緒に感じて、この罪に対する罰を共有していくことなのだろうと思っていた。
彼の奥さんを乗せた霊柩車が火葬場に出棺されていく。一人、また一人と葬儀場に戻っていった。集まった人たちの吐く息が、しばらく白く舞い上がって空中に残った。やはり寒く、ほとんどの人は早足で両腕をさすって葬儀場の中に消えて行った。彼は今何が始まって、何が終わったのかが分かっていないという様子で、寒い外に雨に打たれながら立ちすくんでいたのだった。
カスミは彼以外が誰もいなくなったことを確認してから近くまで走り寄って、傘の中に彼を入れた。
「大丈夫……」
カスミは質問とも励ましとも取れるイントネーションで彼に言葉を掛けた。
「……ああ カスミかぁ 雨が 降っていたんだな……」
彼は生気がすべて吸い取られた抜け殻の様になっていた。カスミは彼の背中を優しく抱きしめてあげた。自分が子どもの頃に親にされたら安心するだろうと思うことをしてあげたのだった。
「なぜ来たの?」
「えっ!」
カスミは敵意が含まれた彼の声を聞いて、何かの聞き間違いではないかと最初は思ってしまった。カスミはすぐに彼から離れた。
「僕の立場も分かってよっ! 何でここに来るんだよっ! どんな神経をしていたら不倫相手の妻の葬式に顔を出すことが出来るんだよ こんな無神経な女だとは思わなかったよ」
「ごめっ ごめんなさいっ! でもあなたの事が心配になって……」
(確かにそうだ よく考えてみれば彼の言う通りだ……)カスミは今頃になって自分がしていることが悪い事なんだと気付いてしまった。
「別れよう!」
とても短かくて強い口調で言われた。彼はカスミの目を見て、確かにそう言った。そしてそのまま葬儀場にとぼとぼと歩いて消えてしまった。
今度はカスミの方がしばらくこの場所から動くことが出来なくなっていた。
旅行
「ただいまー」
カスミはかじかんだ手でブーツを脱ぐのに苦戦しながら、玄関から母親と弟に戻りを伝えた。
「おかえりー 早いねえ 今日仕事はお休みだったの?」
リビングから母親の声が聞こえた。
「まあね それよりお母さん 服ありがとう クリーニングに出して返すね」
「ああ いいよ いいよ そのまま掛けといて」
「ワタルは?」
「今ご飯食べた終わったところだよ」
「じゃあ 私がワタルのお風呂入れてあげるね お母さんはゆっくりしてていいよ」
「ありがとうっ じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
「うん」
やっとブーツを脱ぎ終えて、カスミはリビングに到着した。木造二階建ての1LDKのアパートにカスミは母親と弟と三人で暮らしていた。ソファーに座ってテレビを観ている弟の背中が見えた。カスミは今日あったことの心の整理をするために、ワタルが観ているテレビを遮ってワタルの顔を見つめた。ワタルとは目が合わず、テレビすらも観ていないようだった。ワタルの目線の先を追ってみると、母親とワタルと三人で円山動物園に遊びに行ったときにカスミが撮ったオランウータンをバックにしたワタルと母親の写真だった。ワタルはこの写真が好きでよく眺めていた。
「ワタル…… お風呂に入ろうっか?」
ワタルはソファーから立ち上って、よちよちと走り出した。その先に石油ストーブが付いているので、カスミはワタルの服を掴んで、お腹周りをがっちりと両腕で捕まえた。ワタルはカスミの七つ下の弟である。年齢は十四歳になるのだが、目が離せず油断ならない性格をしていた。
お風呂場でワタルの服を脱がせながら、もう一度今日あったことを思い出して整理してみた。いつもよりぎこちなくて、ときどき動きが止まってしまう姉のことをワタルは不思議そうに見ていた。
(これは要る…… これは要らない……)
カスミは気が付くと独り言を言っていた。ふとワタルの顔を見ると、自分に笑いかけてくれたのでワタルに笑顔を返し、考えるのをやめた。
「はい まずは足をゆっくりあたためましょうね」
カスミはワタルの足にシャワーでお湯を当てて温めた。ワタルの足は動かずにじっとしてる。それから全身にシャワーを掛けてあげてからワタルを湯舟に入れてあげた。
「ふう~」
湯舟に浸かったワタルが気持ち良さそうに息を漏らした。カスミは気持ち良さそうなワタルの顔をみて、癒されている自分に気付いた。癒されるときに罪の意識も一緒に思い出される。癒されるときに喪失感も一緒に思い出される。自分はもう幸せを感じてはいけないのだと思ってしまった。カスミの心に中に何かが芽生え、それがカスミの心の大切なものをえぐり続けていた。
(大好きな家族からも離れて、一人で暮らしていこう)
カスミがぼーっと考え事をしていると、ワタルが湯舟から腕を伸ばして、カスミの頭に手のひらを乗せてきた。濡れたままの手は水分をふんだんに含んでいて、カスミの髪の毛から頬をつたい、首筋を通って着ているTシャツが濡らされてしまった。
「ああっ! ワタル 何すんのよ~っ」
カスミは大げさに笑って、ワタルにお風呂のお湯を「ピチャッ」と手で優しく掛けた。
ワタルを寝かしつけたあとにカスミは母親と簡単に夕食を済ませるために出来合いのお惣菜を温めてテーブルに並べた。キャベツと豚の炒め物を母親と分け合ってそれをおかずにご飯を食べた。カスミは食欲なんてものが一ミリもなかったが、何事もなかったように美味しそうに母親の前でキャベツと豚の炒め物を食べていた。
「カスミは良い人いるの?」
母親がカスミに質問をした。いつもなら何気ない会話のひとつなのだが、今は母親にどう話してよいか分からず、気が付くと俯いてしまっていた。
「お母さんさあ 今職場でね 気になる人がいるの 実はワタルにはもうその人に会ってもらってるんだけど、カスミは……」
「ごめん お母さん私ね この家を出て行こうかと思っていて ちょうど良かったじゃん ああ良かった お母さんに苦労ばっかかけてたもんね」
「カスミ?」
母親は明らかにカスミを心配している口調で話しかけてきた。
カスミにとってはショックなことだった。自分のお母さんが他の人に取られてしまうような思いがこみ上げてきたからだ。別に怒ったり、抗議をしたい気持ちはなかったのだが、さまざまな感情が溢れ出してきてしまい、気が付くとテーブルに突っ伏して言葉を失ってしまったのだった。
「ごめんね そうだね ごめんごめんっ 今のなしっ!」
母親がカスミの背中に回りこんで優しく抱きしめてくれた。
「おかあさ~んっ!」
カスミは母親に抱き着いて泣きじゃくった。母親はきっと何かがあったのであろうカスミに対して何も聞かずに、背中をトントンと一定のリズムで優しく叩いてくれた。
次の日にカスミはちょっと旅行をしてくると母親に置手紙を書いて、家を出た。気軽に出て行った体でカスミはちょくちょく母親に連絡を取っていた。
「もしもしお母さん、うん 元気でやってるよ 今は東京観光してるよ この間は石川県にも観光に行ったんだ 旅仲間もできて楽しくやってるんだよ ワタルはどう? そっかそりゃいいね ワタルも慣れて来たんだね新しいお父さんに うん なんか旅行が楽しくてさ もう少し旅行を続けるね ごめんね こんな自分勝手な娘で もうすぐ帰ると思うしさ 旅行のお土産を楽しみにしててねー」
一年後
ケンイチが大阪本社に転勤になってから、一年の歳月が流れた。お盆休みで久しぶりに埼玉の実家に帰る前に、東京支社の同僚たちと会って飲み会をすることになっていた。この一年はなかなか忙しくて、東京はおろか実家にも帰ることが出来ないでいた。
「高橋っ 次は笹塚でいいか? 取り合えずタクシー三台呼んだから 寮の近くで店を決めといてくれよ」
先輩の森がケンイチに次の幹事を指名した。
「わかりました けどオレそんな知らないっすよ」
「まあ いいよ このまま七人で佐々木の寮に泊るし、お前も今日は泊っていくだろ? 白木屋とかなんでもいいからさ」
「はい じゃあ分かりました 笹塚駅で」
ケンイチたちは新宿の焼き鳥屋さんで食事をした後に、二次会に笹塚を選んだ。選んだというよりも会社寮があって、最後に会社寮でみんなで泊れるように考えていた。ケンイチも一年前にはこの寮に住んでいた。そこでカスミと飲み直してお付き合いが始まったのだ。ケンイチは久しぶりにから騒ぎバーに行ってみようと思っていた。仲間の何人かは一緒に行ったこともあるので二次会としても丁度良いだろうとも思ったのだった。とても久しぶりだったので懐かしい常連メンバーもいるかもしれないと内心期待していた。
笹塚駅に到着するとみなぞろぞろと、から騒ぎバーに入っていった。ケンイチだけは面持ちが少し違った。から騒ぎバーの入り口で立ち止まり、一回深呼吸をした。
「ケンちゃんこっちだよ」
入り口から一番奥にある大きなワイン樽のテーブルでカスミが自分を呼ぶのに隣の椅子を叩いて大きく手を振ってくれていたことが昨日のことのように思い出された。マイペースなサキさんはいつも離れてカウンターの隅っこで、誰かがとなりに座ってきて話している情景も浮かんだ。
店内からは「m-flo」の「one Sugar Dream」が流れている。
から騒ぎバーは一年前と何もレイアウトが変わっていない。しかしスタッフもお客さんも知らない人ばかりだった。それでも久しぶりに来てみると、とても懐かしい気持ちに浸れた。
カウンターが空いていたので、七人はカウンターに座って飲み物を頼んだ。新宿の焼き鳥屋さんで散々近況を語り合っていたので、みんな静かにお酒を飲んでいる。お調子者の佐々木はたまに入り口を通り過ぎる女の子たちに手を振って勝手に呼び込みをしていた。
一時間くらいから騒ぎバーで過ごしたあとに誰かがキャバクラに行きたいと言い出した。
「歩きだと少しかかるので、タクシー呼びますか?」
キャバクラ行を推進している後輩がスマートフォンで色々と調べ出した。
「あっ オレちょっと用事を思い出したんで、ここで別れます」
ケンイチがみんなに告げた。
「おいおい もしかして昔の彼女のところとかに行っちゃうの?」
「まあ そんなところです それじゃあ」
ケンイチはから騒ぎバーを出て、一応廊下の奥にトモエが駄菓子を選んでいないかを確認した。サキがサトシに電話をしているかもしれないとも思った。ケンイチは大分気持ちよく酔っぱらっていた。ここまで来たら久しぶりに秘密基地に行ってみたいと思ったのだった。
甲州街道と環状七号線の交差点を右折して、人通りの少ない道を歩き進めた。不快なほど湿った夏の空気が健一のシャツを汗で湿らしてゆく。ケンイチは自分がだんだん急ぎ足になっていたのを体温の上昇と息を切らしていることで気付いた。
(カスミが先にいて、ビルの壁に寄りかかって月を見上げているかもしれない タマも一緒にいるかも知れない)ケンイチはいつか見た夢を頼りにどこか期待していた。
秘密基地に着くと、とても懐かしい隙間にいつものように座り込んで空を見上げた。カスミはいなかった。どこかからもう鈴虫の音が聴こえてきた。たまに通る車の音にすぐにかき消されてしまうが秋を少しだけ感じられてひんやりした気持ちになれた。しばらく座り込んでいたが、タマはやって来なかった。時間も遅いし当然だなと思った。ケンイチは欲が出てしまい、このままドン・キホーテに行ってみようと秘密基地を後にした。カスミとは何度も何度もこの道をよく一緒に歩いた。ケンイチは酔いが手伝っているということもある。足取りこそしっかりしていたが、この後の事は何も考えていなかった。
やがてドン・キホーテにたどり着くと、相変わらずアダルトグッツのコーナーでキャッキャ言いながらはしゃいでいる学生たちを微笑ましく見送りながら、ケンイチは地下一階の食品売り場に足を運んだ。カスミがおつまみを真剣に選んでいる横顔が脳裏に焼き付いて離れなくなった。もうとっくに酔いは醒めていて、真剣にカスミのことを考えてしまっていた。ケンイチは一応カスミが選んでいた梅干しを買って、ドン・キホーテを後にした。
(さあ、ここからどこに向かおうか?)
ケンイチの足は方南町を勝手に目指して進んでいた。よく歩いた道だ。あの時は仕事がお休みの日が嬉しくて仕方なかった。カスミと過ごせる時間がケンイチにとってとても大切な時間だったのだ。もしかしたら方南町の一軒家にカスミとサキがいて、三人で梅干しのお湯割りを飲めるかも知れないと心のどこかで思いながらケンイチは歩き続けていた。
「やっぱり 時間は残酷だよな」
ケンイチは独り言を呟いた。閑静な住宅街を過ぎてやって来たカスミとサキの家は跡形もなくて平地になっていた。「売地」と看板が掲げられている。正気に戻ったケンイチはタクシーで新宿まで行って、漫画喫茶で一夜を明かした。
埼玉の実家
埼玉の実家に着いたのは夕暮れ時だった。姪と甥へのプレゼントなど色々と買い物をして東京を満喫してから、池袋の東武東上線に乗ったら人身事故で電車が大幅に遅れてしまったのだ。滅多に車の音がしない実家はタクシー音を敏感に察知した父親と母親が玄関の前で待っていてくれていた。おじいちゃんとおばあちゃんにぴったりくっついてマリエとケイトがケンイチを不思議そうにみている。大きくなった二人を見てケンイチは笑顔がこぼれた。
「マリエちゃん ケイトくん こんにちはー 大きくなったねえ」
ケンイチが二人に地近付くと走って家の中に逃げて行ってしまった。
「ケンイチ どうした? 遅かったじゃねえか」
父親がニコニコしながらケンイチを出迎えた。タクシーのトランクから荷物を取り出すのを手伝ってくれた。
「うん 川越駅で人身事故が起こって電車がずっと止まってたんだよ 混んでたんで座ることもできなかったんだ」
「お兄さん お久しぶりです」
タマオが娘のマリエを抱っこして家から出て来た。マリエはケンイチを見つめていた。
「おお! タマオ君 久しぶり いつから来てたの?」
「昨日のお昼ごろにこちらに到着して、そのままお邪魔してます」
「休みはいつまで?」
「明後日から仕事なんで、明日の朝に帰ろうと思います」
「そっかあ じゃあ今日はゆっくり語ろうよ タマオ君」
「なんだあ ケンイチ お前すっかりお兄さんみたいだなあ」
父親がニヤニヤしながら二人の会話を茶化していた。
「さあさあ こんなところでいつまでも立ち話してないでみんな家に入りなさい」
母親が玄関の網戸越しにケンイチたちを家に誘導した。
実家は久しぶりに帰るとがらりと模様替えされていた。壁で隔たれた二部屋の壁を取っ払って、大きな画面の液晶テレビを壁にピタリと付けて、みんながソファーに座りながらテレビを観れるような大家族用のレイアウトに変わっていた。父親も母親も孫が相当可愛いらしい。孫たちが喜びそうなビニール製のカラフルなフロアタイルを部屋の一角に設置して、そこにおもちゃが用意されている。孫を中心とした家の作りに変わっているようだった。もう自分とトモエが過ごした学生時代の実家の面影がどこにも見当たらなかった。しかし、こういう時間の流れによる変化は正しくて、うれしいとケンイチは部屋中を見回してそう思っていた。
「お兄ちゃん おかえり」
トモエがソファでケイトを抱っこしながら言った。最近ではケンイチのことをお兄ちゃんと呼び方を変えているらしい。もうトモエからケンちゃんと呼ばれなくなって久しい。ケイトも叔父さんの顔を興味深くみつめていた。
「おう ただいま 明日の朝に帰るんだって? もっとゆっくりして行けばいいのに」
「うん タマオの仕事があるからね でも車で来たから意外と時間の融通はきくんだよ」
「そっか」
「ケンイチッ お風呂沸したから入っちゃいな パジャマも用意しといたよ」
母親がやって来て、ケンイチを真正面に捉えて言った。息子の背丈が自分よりも大きいことが誇らしいようで、目を輝かしてケンイチを見ていた。
ケンイチが風呂から上がってくると、ダイニングにはたくさんの料理と冷えたビールが用意されていた。
「ほらっ ケンイチが好きな焼き鳥を買ってきてるよ 食べな」
「ありがとう」
ケンイチのターンはすぐに終わり、親たちの関心はすぐに孫たちに向かった。最初ケンイチ叔父さんのことを緊張していたマリエとケイトだったが、お土産のおもちゃとお菓子を渡したらすぐに懐いてきた。子どもはげんきんなんだなと思った。
両親がマリエとケイトと子どもスペースで楽しそうに遊んでいる。ケンイチとトモエとタマオは三人の時間をもらって懐かしい話をした。
「そういえば、トモエはカスミさんとサキさんと連絡を取ってるの?」
「取ってるよ たまにだけどね」
「カスミさんは元気でやってるの?」
「北海道で介護の仕事をしてるらしいよ お兄ちゃん連絡取ってないの?」
「うん…… 何が原因か分からないんだけどお兄ちゃん 嫌われちゃったみたいなんだ」
「そんなことないよ カスミさんと連絡するといつもケンちゃんのことを聞いてくるし」
「えっ! そうなの?」
「そうだよ 大阪の転勤で出世コースを歩んでいることとかすごい喜んでいたよ」
意外だった。カスミが自分のことを話題に出してくれているんだとケンイチは嬉しかった。
「まっそれはいいや そういえばタマオ君とトモエってどうやって出会ったの?」
美味しいおつまみにビールが進んだ。