第5話 原作知識は大切です
蘇風心に転生して丸一日が経った。
私は自室の窓際に座り、中庭の様子をぼんやりと眺めていた。
格子窓を開けた部屋の中には陽気な春の日差しとともに、草花の匂いが乗った微風が舞い込んでくる。
(本当にここはゲームの中なの?)
昨日から何度もそう自身に問いかけているが、無意識の自分からは「ノー」としか答えが返ってこない。
それほど視界に広がっている光景はリアルそのものだ。
おまけに今の私の五感は鋭敏に研ぎ澄まされていた。
臨床心理士として働いていたときとは全然違う。
クライエントさんの悩みを傾聴するさいには、柔和な顔とは裏腹に心の中では常に相手の真実の声を拾おうと五感を鋭くさせていた。
だが、この蘇風心の身体ではそれが自然にできるのだ。
どうやら風心はかなりの健康体に加えて、五感や運動神経が抜群に良い。
十七歳という若さも要因の一つだっただろうが、持病がない健康的な肉体があるということは大変にありがたかった。
この身体なら私の望みはきっと果たせる。
破滅フラグを回避しながら悪役毒妃という汚名を返上し、いずれ現れる正ヒロインの倭魅美を幸せにして自分は後宮から出ていくという望みが――。
などと考えながら温かな陽光を堪能していたときだった。
私は通路に続く扉の向こうに人の気配を感じた。
水連さんや他の侍女たちのような針の如く尖った気配ではない。
まだ飼い主に甘えるかどうか判断がつかない小動物のような気配。
私は扉に向かって声をかける。
「寧寧ね。構わないわ、入りなさい」
「ふえっ!? し、失礼します!」
寧寧ちゃんはおそるおそる扉を開けて室内に入ってくる。
「ど、どうしてあたしが扉の前にいるとわかったのですか?」
「う~ん……勘かな」
私はにこやかな笑みを向けると、ゆっくりと立ち上がった。
そして丈の長いひらひらのスカートをなびかせながら、部屋の中央に置かれていた長テーブルの席へと移動する。
私は絹製の座布団が敷かれた椅子に腰を下ろし、寧寧ちゃんにも対面の席に座るよう促す。
「さあ、こっちへ来て座りなさい。ちょうど一人でいるのに退屈していたの。それに、あなたには聞きたいこともあったしね」
すると寧寧ちゃんは激しく首を左右に振った。
「そのような椅子に座るなど恐れ多いことです。それにそちらは医官長である鳳瞬さまや、それこそ帝のためにご用意されている高貴な椅子なのですよ。あたしのような下っ端の侍女が座れば天罰が下ります」
「それは違うわ。あなたはもう私の専属侍女になったのよ……いいから座って」
私がニコリと微笑むと、寧寧ちゃんはもじもじしながら「それでは……」と対面の席に座った。
一拍の間が空いたあと、私は昨日から考えていたことを口にする。
「寧寧、実はあなただけに伝えておきたいことがあるの」
私は真剣な表情で寧寧ちゃんを見つめる。
「な、何でしょうか?」
「私ね……ちょっとだけ記憶喪失になっているみたい」
「…………」
石のように硬直した寧寧ちゃんを無視して言葉を続ける。
「昨日の怪我自体は大したことないのだけれど、あれから一日経ってみてやっぱりそうだと確信した。私はあなたたちの名前は覚えているのに、肝心の中身についての記憶が抜け落ちているの。たぶん原因は頭を打ったせいね」
嘘である。
本当は何もかもまったく覚えていない。
というか『後宮遊戯』をプレイしていないので大半のことがよくわからない。
そこで昨日から考えていたのは、記憶喪失の振りをして寧寧ちゃんから色々と『後宮遊戯』の中身について教えてもらおうということだった。
今の私には破滅フラグを回避することの他に、倭魅美に幸せになってもらったあとで後宮から出るという大仕事が待っている。
そのためには『後宮遊戯』の原作知識――つまり、私が蘇風心として存在しているこの国のことや後宮内での人物相関などは絶対に知っておかなければならない。
これが『後宮遊戯』を嬉々としてプレイしていた義妹なら話は違っていただろう。
世界観や登場人物のことなど知り尽くしていただろうから、その原作知識を大いに利用して自分の望みを叶えることも簡単だったに違いない。
でも、私は違う。
圧倒的に『後宮遊戯』の原作知識が欠けている。
これは非常にマズい。
このままだと肝心な場面で何か致命的な失敗をするかもしれない。
そこで昨日の私はあることを思いついた。
ちょうど専属侍女に任命した寧寧ちゃんにだけ記憶喪失と嘘をつき、記憶を思い出したいという振りをして『後宮遊戯』の世界観を教えてもらおう、と。
やがて寧寧ちゃんは口を開いた。
「ご冗談……ですよね?」
「ごめん、冗談じゃない」
そう告げた直後、寧寧ちゃんは「うわ~ん!」と泣き出した。
そのままテーブルに額をこすりつける。
「も、申し訳……ありばべん……あ、あたじのせいで……風心さまのご記憶が……なくなるなんて……」
寧寧ちゃんは泣きながら謝罪してくる。
「ごうなったら死んでお詫びをいたじます!」
寧寧ちゃんは立ち上がると、大きく背中を逸らせた。
その視線は目の前のテーブルへと向けられている。
「――――ッ!」
私は寧寧ちゃんが何をするのか直感的に理解した。
堅い木製のテーブルに額を思いっきり叩きつけるつもりだ。
「ま、待ちなさい!」
私はテーブルの上に飛び乗って寧寧ちゃんの行動を制止させる。
「とめないでぐださい。あだしのようだ役立たずは死んでお詫びを――」
「しなくていいから! 大丈夫だから、落ち着いて……ね?」
私は寧寧ちゃんを抱きしめると、軽く頭をポンポンと叩いてなだめた。
すると寧寧ちゃんはようやく落ち着きを取り戻し、ぐずぐずだった涙と鼻水を衣服の裾で拭って通常の寧寧ちゃんへと戻る。
「申し訳ありません、風心さま。大変にお見苦しいところを見せてしまって」
私は「い、いいのよ」と乾いた笑みを作った。
でも、あとでちゃんと服は洗ってね。
「それで、話の続きなんだけど――」
寧寧ちゃんは「あっ!」と声を上げて驚きの顔を浮かべる。
「そうでした。風心さま、記憶がないというのは本当なのですか?」
「ま、まあ……残念なことにね」
こんな純粋な子に嘘をつくのは心苦しかったが、これも私の将来のためだ。
「けれど、あなたが気を病むことはないのよ。きっと記憶を失ったのも一時的なだけで、色々と教えてもらえれば思い出すと思うの。だからお願い。私に色々と教えてちょうだい」
私はテーブルの上に腰を下ろし、寧寧ちゃんの両手を強く握り締める。
「ふえっ……そ、そんな……あ、あたしなんかではお役に立たないと……思いますが……」
なぜか寧寧ちゃんは顔を逸らし、顔は茹でタコのように真っ赤になった。
(ちょっと露骨な感じだったかな?)
などと思ったものの、背に腹は代えられないのも事実である。
やがて覚悟を決めてくれたのか、寧寧ちゃんは私に顔を向けて大きくうなずく。
「わかりました。あたしなんかでよければお手伝いいたします」
「ありがとう。じゃあ、さっそく聞かせてちょうだい」
その後、私は寧寧ちゃんから様々なことを聞いた。
まず一つ目は、私たちがいるこの国はやはり「華秦国」だった。
つまり、ここは間違いなく『後宮遊戯』の世界ということになる。
そしてこの世界観はどうやら細部まで作り込まれていたらしい。
華秦国はもともと大陸に五つか六つほどあった小国の一つだったものの、周辺にあった国々を戦によって滅ぼし、巨大統一国家として君臨したのが半世紀ほど前。
やがて華秦国の初代皇帝は国内のインフラ整備を整え、言語と貨幣を統一した。
同時に度量衡という様々なモノの単位も統一したことで、国内の商取引が円滑化されただけでなく、作物の収穫量や納税額が正確に把握できるようになって経済が安定したという。
経済が発展して治安が維持されると、華秦国の首都である東安の一角に宮城――東安城を建設。
すると東安城の奥に次代の皇帝を誕生させる女の園が誕生した。
その女の園こそ、私と寧寧ちゃんのいる後宮だ。
ちなみに後宮で働いている人間の数は三千人を超えていて、皇帝の正妻である皇后の次に権力のある四夫人と九嬪には個別に宮殿が与えられているという。
ところが現在は皇帝の正妻である皇后はおらず、皇帝の実母である皇太后もいないことから、事実上の後宮の最高権力を持つ四夫人(うち一つの徳妃が私こと蘇風心)で皇后の座を争っているらしい。
「ねえ、実際はどうやって争っているの? 囲碁や将棋なんかのゲームで勝敗を決めるとか……まさか、喧嘩で決めるわけじゃないわよね?」
「げえむ、とやらが何かは存じませんが……そのようなことで皇后さまの座を争っているわけではありません。すべてを決めるのは帝ですので、それぞれの妃さまは帝のお通りがされやすいようにお化粧や上質なお召し物で日々ご自身の美と魅力を高めております」
「私もそうだった?」
何気ない質問に、寧寧ちゃんは「え?」と面を食らったような顔をする。
それだけで察しがついてしまった。
どうやら寧寧ちゃんは根本的に嘘がつけない性格らしい。
なので私の質問に言葉を詰まらせたのだ。
そして、それは本物の風心が日頃からどういった性格の持ち主なのかの判断基準にもなった。
(もしかして、この部屋の中に本物の毒なんてない……わよね?)
いや、悪役毒妃とも呼ばれるキャラだ。
ヒロイン用ではなく、皇后になるべく他の妃たちを毒殺する毒の一つや二つぐらい用意しているかもしれない。
(あとで部屋中を捜索してみよう)
私は背中に冷や汗を流しながら、寧寧ちゃんの曇った表情を晴らすべく話題を変えた。
「そ、そういえばこの国の皇帝はまだ若いのよね? え~と、華龍瑛……さまだったかしら。四夫人でも素顔をよく知らないって本当?」
寧寧ちゃんいわく、華秦国の皇帝の名前は華龍瑛。
年齢は二十三歳で、普段は皇帝の政務室と寝所を兼ねた大玄殿で日々を過ごしているという。
ところがこの若き皇帝は一癖も二癖もあるらしく、普段はずっと大玄殿に籠っているばかりか、とある理由から日常的に顔を隠して生活しているというから驚きだ。
「はい……噂ではご尊顔を拝めるのは側近の方々だけらしく、安政園でのお花見や舞楽会などでも顔をお隠しになられているので誰も素顔を拝めていないのです」
「顔を隠しているのはどんな理由からなの?」
「申し訳ありません。あたしも半年前に後宮へ来たばかりなのでそこまでは……」
どうやら寧寧ちゃんは本当に知らないようだ。
私は心理学に精通しているので、相手の仕草を見れば大体の本心はわかる。
たとえば代表的なのは目の動きだ。
人間は無意識に嘘をつこうとするとき、右上に視線が向いてしまう。
他にも会話中に両手の拳をグッと握るのは、相手の話を聞きたくない「ノー」のサイン。
一方で両手の指を広げているのはリラックスしている状態で、これは相手を受け入れるサインとして判断できる。
では、今の寧寧ちゃんはどうか。
視線は私に向かって真っすぐ伸び、膝の上に乗せている両手の指はだらりと広がっている。
私に対して嘘偽りなく答えている証拠だった。
「別に謝らなくてもいいのよ。ごめんね。変なことを訊いてしまって」
「と、とんでもありません。むしろお答えできずに大変申し訳ありません。おそらく鳳瞬さまなら帝の素顔をご存じのはずですが」
「鳳瞬さんが?」
寧寧ちゃんはこくりとうなずく。
「鳳瞬さまは後宮における帝の専属医官でもありますから、当然ながら素顔は拝見されているかと思います。でなければ専属医官は務まらないはずですし」
「鳳瞬さんか……」
私は眉間にしわを寄せながら両腕を組む。
鳳瞬さんは『後宮遊戯』における攻略対象者の一人で、義妹の話によれば最初にプレイした人間はまず鳳瞬さんを攻略すると言っていた。
それに鳳瞬さんは医官、つまりはお医者さんだ。
今後のヒロインとの関係性も含め、私が後宮から出たあとの生活を考えると、鳳瞬さんから医術を学ぶという手もある。
「……よし、決めた」
破滅フラグを回避するタイミングは早いに越したことはない。
私は寧寧ちゃんの両肩をむんずと掴む。
「寧寧、今から鳳瞬さんの元へ向かうわよ」




