第14話 風心妃の異変 後編
「たかが宦官風情がわたくしに気安く話しかけるな!」
その怒声を聞くなり、寧寧ことあたしはビクッと身体を震わせた。
同時に自分の顔から血の気が引いていくのがわかり、誰かに心臓を素手で掴まれているような胸痛が走る。
風心さまの意識が戻ったことは非常に嬉しい……が、それを手放しで喜べない自分がいた。
事の発端は今日の昼前。
龍翔門の近くで倭国から来たお妃さまを一緒に見学していたときだ。
風心さまは「やるぞ!」と謎の気合を発した直後、両膝から地面に崩れ落ちた。
あたしは慌てて風心さまを抱き起こして声をかけ続けたが、風心さまの意識は一向に戻らなかった。
そこであたしは無我夢中で養心殿へ駆け込み、医官長である鳳瞬さまや他の医官を連れて龍翔門へ戻った。
そして風心さまは丈夫な布と竹棒で作られた簡易寝台に乗せられ、玉照宮のご自身の寝所の寝台へと運ばれた。
それから鳳瞬さまは真剣に風心さまを診察してくれた。
けれども、鳳瞬さまでも風心さまが意識を失った原因はわからなかった。
もしかすると毒矢による意識の消失も考えられたため、鳳瞬さまはあたしたち侍女たちの立ち合いのもと風心さまの身体をくまなく診察したものの、毒矢の存在はおろか意識を失った原因の特定すらできなかったのである。
このまま今の風心さまが意識を取り戻さなかったらどうしよう。
あたしは寝台で意識を失っていた風心さまを見つめながら思った。
侍女の中には風心さまの意識が戻らないことを願っていた者もいた。
口には絶対にできないが気持ちはわかる。
これまで風心さまの気持ち一つで心を傷つけられたり、下手をすれば命すら危ういことが日常茶飯事だったのだ。
それでもあたしは風心さまのご回復を神様に一心に願った。
あたしの粗相で頭部に怪我をされたあとに目覚めた風心さまは、まるで誰かの魂が憑依したような温和な性格になられたからだ。
しかも温和な風心さまはあたしを処罰するどころか専属侍女にまでしてくれた。
それからの数日間は夢のように幸せだった。
この温和な風心さまならば心から慕ってお仕えできる。
などと思っていた矢先、龍翔門での一件が起きて今に至る。
そう、あたしが心からお仕えできると思ったのは温和な風心さまのほうだ。
だが、寝台の上で目覚められた風心さまは違う。
ここにいる風心さまは風心さまではない。
正確に言うと寝台で目覚められた風心さまの雰囲気は、あの日以降の風心さまの態度と雰囲気にそっくりだったのだ。
あの日――それはあたしの粗相で、大事な頭部に怪我を負わせてしまったときのことである。
正直なところ、あのときのあたしは死を覚悟した。
後宮の最高権力者である四夫人のお一人の風心さまを誤りとはいえ突き飛ばし、小さなコブを作る怪我を負わせてしまったのだ。
侍女職を解雇され、生家へ送り返される程度では済まされない。
もはや死罪は免れないほどの重い罪を犯してしまった、と心から恐怖して嘆いた。
後宮で仕えることになった風心さまは、それぐらい普通にするような妃ということも聞いていたからだ。
蘇風心。
あたしと同じ西方の中核都市である陽順の生まれで、風心さまのご実家の蘇家は陽順では知らぬ者がいないほどの大貴族だった。
陽順では豪商として知られるあたしの家など軽く吹き飛ばせるほどに。
実際に玉照宮で風心さまに仕えるようになってから、あたしは小動物のように怯える毎日を過ごしていた。
それは侍女頭の水連さまをはじめ、他の侍女たちも同じだった。
とにかく風心さまは高飛車な物言いと傲慢な性格の持ち主で、ちょっとした粗相でも相手が涙ぐむまで毒舌を吐きまくる妃だった。
大貴族の生家で自由気ままに甘やかされて育ったのだろう。
加えて風心さまは徳妃という中途半端な妃位が気に入っていなかったのか、それこそ毎日のように苛立って怒気をまき散らしていた。
それだけではない。
「このお馬鹿!」
「この役立たず!」
と毎日のように誰かが罵声を浴びせられ、侍女たちの間では今日は誰が風心さまの責めを受けるかが一番の関心事になっていた。
誰かが責めを受けている間は、自分はその対象から外れるからである。
これは玉照宮で働くようになってから気づいたことだが、玉照宮の中は常に殺伐としていて、侍女たちは日常生活にも支障が出るほど心が疲弊していた。
もちろん、あたしも心が疲弊していたうちの一人だ。
あのときもそうである。
あたしは先輩の侍女たちに命令され、風心さまの居室にお茶をお持ちした。
正直なところ、怖くて足が震えていた。
何か粗相をしてしまわないか?
粗相をしてしまったらどうしよう?
もし粗相をしてしまったらどんな罰が与えられるのか?
そんなことばかり考えていたせいか、あたしはとんでもない粗相をしてしまった。
自分の襦裙の裾に足を取られ、風心さまにお茶をかけてしまったどころか、転んだ勢いで風心さまを突き飛ばしてしまったのだ。
風心さまが衣裳選びの最中だったことも不幸に拍車をかけた。
当然のことながら風心さまは背中から倒れ、後頭部を床に強打して気を失ってしまったのである。
でも、安仁さんに介抱されて目覚めた風心さまはあたしを許してくれた。
性悪な風心さまではなく、温和な風心さまへと変貌されていたからだ。
その温和な風心さまの雰囲気は目の前の風心さまからは感じられない。
「ふ、風心さま……あなたは本当に風心さま……ですか?」
ほぼ無意識な問いかけだった。
なので口にしてからハッとした。
あたしは何という失礼なことを言ってしまったのだろう。
これこそ死に相当する処罰を与えられかねない物言いである。
「…………」
寝所の中が水を打ったように静まり返った。
あたしは風心さまの表情をおそるおそる見つめる。
風心さまは大きく目を剥いていた。
あたしが口にした無礼な物言いに呆れたのではない。
まるで安仁さんを怒鳴ったことに「しまった!」とでも言うような表情だった。
あたしは思わず小首をかしげたくなった。
どうして風心さまがそのような顔をしたのか理解できなかったからだ。
それは安仁さんも同じだったらしく、大声で怒鳴られたことよりも今の風心さまの顔つきを不思議がっている様子だった。
そんな中、冷静な声を発した方がいた。
「風心妃さま、意識が戻られたことは大変に喜ばしいことです……ですが、一つだけ確認させていただきます。わたくしが誰かおわかりになられますか?」
鳳瞬さまである。
「ええ……も、もちろん」
風心さまは小さくうなずいた。
「あなたは養心殿の医官長である蘭鳳瞬よ。そして隣にいるのが……そうそう、帝がおられる大玄殿の中で働いている宦官ね。名前は安仁だったかしら」
風心さまは安仁さんに顔を向け、先ほどとは打って変わる満面の笑みを浮かべた。
鳳瞬さまは安堵の息を漏らす。
「どうやら頭部に深刻な症状はないようですね。言葉遣いもはっきりしていて呂律も回っていない。風心妃さま、頭部以外にどこか異常はありませんか?」
「……いいえ、ありませんわ」
一拍の間を空けたあと、風心さまはにこやかな笑みのまま応えた。
「ですから、今日のところはお帰りになられてくださいな。こんな夜分に四夫人の宮に殿方がお二人で――まあ、一人は男性とは呼べない宦官ですが、どちらにせよ診察のためとはいえ長居されては後宮内に妙な噂が立ってしまいます」
あたしは風心さまたちの会話を黙って聞いていた。
侍女なので主人や医官長の話に口出しすることができなかったものの、それ以上に風心さまの様子のおかしさに言葉を発することができなかった。
ただ、その中でわかったことが一つある。
このお方は温和な風心さまじゃない。
お姿は間違いなく風心さまそのものだが、口調、態度、雰囲気、いずれもあたしが心から仕えると決めた温和な風心さまとは違う。
では、鳳瞬さまと会話している風心さまは誰なのか?
あたしはごくりと生唾を飲み込んだ。
まさか、目の前にいるのは陰険なほうの風心さま?
などと考えていると、いつの間にか鳳瞬さんと風心さまの会話は終わっていた。
「それでは今宵は失礼させていただきます。どうか、くれぐれもお身体を冷やさぬようにしてお休みください」
風心さまの心身に異常がないと診断されたのだろう。
鳳瞬さまは小さく頭を下げると、振り返って扉に向かって歩を進めた。
そのさいに「安仁どのも今日は帰りましょう」と告げる。
すると安仁さんも踵を返し、鳳瞬さまのあとを追うように歩き出す。
その中であたしは安仁さんの横顔を見た。
安仁さんは暗い表情で眉間にしわを寄せていて、やがて二人はそのまま部屋の外に出ていった。
「……寧寧」
二人がいなくなったあと、風心さまは低い声量であたしの名を呼んだ。
ドキッとあたしの心臓が気持ち悪く跳ねた。
風心さまに視線を移すと、風心さまは妖艶な笑みを浮かべていた。
「先ほどはごめんなさいね。急に大声を出してしまって驚いたでしょう?」
「い、いえ……意識が戻られたことは……大変に喜ばしい……ことです」
風心さまから感じる恐怖に言葉が途切れ途切れになってしまった。
それでも風心さまはそのことには何も指摘せず、「今日のことなのだけれど」とまったく別の話題を口にされた。
「あなたも龍翔門で見たわよね。倭国からやってきた妃を」
「倭魅美さまのことですか?」
「さま? あんな華秦国人でもない島国の女を〝さま〟付けなどやめなさい」
風心さまは鋭い矢のような視線を向けてくる。
「も、申し訳ありません!」
あたしは慌てて頭を下げる。
「ですが、魅美妃は数日後に安政園で行われる妃位封賜で四夫人とお並びになられる妃位を与えられるとのこと。たとえ華秦国人でないとしても、あたしたち侍女にとっては雲の上の存在になるお方です」
「…………」
再び部屋の中に静寂が訪れた。
「要するに、あの倭魅美という女はわたくしたち四夫人を差し置いて帝のご寵愛を受ける可能性もあるということよね」
あたしは上手く返事ができなかった。
確かに魅美妃が正式に後宮入りし、しかも四夫人に相当する妃位を与えられるのなら帝の寵愛を受ける可能性は九嬪よりも高い。
(仕方ない……予定を変更……アレで……もろとも……)
あたしは眉根をひそめた。
風心さまは口元を自身の右手で覆い隠すと、何やら小声でボソボソとつぶやき始めたのである。
「あのう……風心さま?」
あたしが声をかけると、風心さまはかっと両目を見開いた。
「寧寧、そこの箪笥の一番下の引き出しの奥にある粉盒を取ってきてちょうだい」
「粉盒……ですか?」
粉盒とは白粉や香粉を入れる、円形または楕円形の蓋付き小箱のことだ。
小箱の材質は様々で、青磁や白磁、漆塗りなどがある。
あたしは命じられるまま箪笥の元へ行き、一番下の引き出しをそっと開けた。
引き出しの中には何枚もの寝衣が収められていた。
これは変ではない。
寝所の箪笥に寝衣が収められているのは当然だ。
あたしはそっと引き出しの奥に手を入れる。
指先に固い何かが触れたので、しっかりと掴んでそのモノを取り出す。
本当にあった。
あたしの右手の中には銀色の粉盒が握られている。
しかし、どうして風心さまは粉盒をこんな場所に入れていたのだろう。
これでは粉盒を人目につかないように隠していたように思える。
あたしは取り出した粉盒を風心さまに手渡した。
そこでふと粉盒の中身を想像して胸の奥が冷える。
「安心しなさい。その中には普通のおしろいが入っているだけだから」
風心さまは粉盒を開けて中を見せてくれた。
粉盒の中にはやや茶色の白粉――おしろいが入れられていた。
おしろいというと先帝までの時代は雪のように真っ白なモノが一般的だった。
だが、その時代のおしろいには毒性の強い鉛や錫が入っていたことで中毒死する妃が続出。
そこで現在の新たな皇帝になったとき、鉛や錫が入った真っ白なおしろいの使用は後宮内で使用禁止になったという。
代わりに今の後宮では米粉などの穀物を使った、中毒死する心配のない少し茶色のおしろいが使われている。
「あなたの言うとおり、魅美妃は倭国人とはいえ妃位封賜で新たな妃位を与えられる妃。ならば、わたくしも認識を改めなければいけないわね。同じ四夫人……いえ、五夫人の一人として魅美妃に贈り物をしようと思うの」
あたしは黙って風心さまの言葉を聞く。
今の風心さまからは一言も発せられないほどの威圧感があった。
「倭国にはおしろいというモノがないのかもしれないわね。昼間の魅美妃を見た限りではほとんど化粧というものをしていなかった。あれはいけないわ。帝のお目通りがあるかもしれない妃は常に己の美を保ち、そして美を磨かなければならない」
不意に風心さまはあたしを見て口角を吊り上げる。
全身の産毛が総毛立つほどの酷薄した笑みだった。
「寧寧、わたくしの頼みを聞いてもらえる?」