第12話 ヒロインの後宮入り
寧寧ちゃんの言っていたことは事実だった。
翌日の昼前――。
龍翔門をくぐって倭国人の一団が後宮内に現れた。
風に揺れる服は華秦国では見ない異国の和服。
十頭を超える馬車は列をなし、その荷台には漆塗りの重箱や螺鈿細工の飾り棚、一目見て高価とわかる壺などの贈答品がぎっしりと積まれていた。
陽光を浴びてきらきらと光り、まるで財宝の行列だ。
ただ、その一団の中に男性は一人もいない。
御者も女性ならば従者たちもすべて女性。
この後宮に入るにあたり、男性はすべて龍翔門の外で排除されたのだろう。
あっ、殺伐とした意味じゃないわよ。
倭国から来るさいには当然ながら護衛や力仕事のために男性も多くいたのだろうが、後宮は皇帝の世継ぎを生むために造られた女の園である。
だから倭国から来た男性の護衛や従者たちは「お前たちは男だから後宮には入れないよ」とストップされたに違いない。
私は両目を細めて倭国の女性たちを食い入るように見る。
倭国の女性たちの顔は華秦国人とあまり変わらない。
おそらくこれは『後宮遊戯』の世界観が架空の中華国をイメージしながらも、ゲームのプレイ対象者を日本人としているからだろう。
オタク文化に詳しくない私でもそれぐらいはわかる。
そんな私は龍翔門から少し離れた位置で倭国人の一団を眺めていた。
隣には専属侍女の寧寧ちゃんを始め、周りには水連さんなど他の侍女たちもいる。
「ねえねえ、あの天蓋付きの馬車に乗られているのが倭国の妃さま?」
「きっとそうよ。でも噂とは違って普通のお顔をしてらっしゃるわね」
「普通どころか九嬪の妃さまと比べても遜色のないお顔をしてますわよ」
他の下級妃や侍女たちは興味津々で会話を弾ませている。
後宮内は娯楽が乏しい反面、他人の噂話はそれこそ電光石火の如く広まってしまう。
それが海を隔てた異国の妃ならば噂話には事欠かない。
昨日の夜に寧寧ちゃん以外の侍女たちにも話を聞いてみると、倭国の妃はのっぺりとした顔で両目が離れすぎているとか、鼻が潰れて顔が縦に平らになっているとか、挙句の果てに不思議な妖術を使うなどの様々な噂が立っていた。
私は倭魅美の可愛らしい顔を知っているので「いやいやいや」と内心で否定していたが、何も知らない人間からすれば噂の真相を一刻も早く確かめたいというのが本音だっただろう。
だからこそ、こうして龍翔門の前に大勢の妃や侍女、宦官たちが集まっているのだ。
実のところ誰もが噂のような顔をしているとは思っていないだろうけど、それでも海を渡ってきた異国の妃となると疑いたくなる部分も少しはあったに違いない。
ところが現実に現れた倭魅美は、噂とは似てもつかない顔をしている。
もちろん、とても良い意味で。
「あのお方が倭国の高貴な妃であられた倭魅美さまなのですか……風心さまには負けますけど、まるで春風のように優しい顔立ちをしていますね」
そう話しかけてきたのは寧寧ちゃんだ。
確かに、と私は心の中で思った。
一団の中には一台だけ異様に目立っている馬車がある。
四方から中が見える天井だけがついた馬車で、その馬車には純白で可憐な花を思い浮かばせる年頃の少女が乗っていた。
『後宮遊戯』の正ヒロインである倭魅美だ。
義妹の説明つきで見せられたゲームのパッケージに描かれていたので、私もどんな少女なのかは知っている。
年齢は十六歳。
倭国で高貴な立場にあった父親からゲームの舞台――華秦国に後宮入りを命じられた姫君。
(絵で見るより実物はもっと綺麗な子ね)
リアルな倭魅美は高価そうな簪が差された艶やかな黒髪を背中まで伸ばし、切れ長の目眉と愛嬌のある目が小柄な顔の中に収まっている。
肌は遠目からでもわかるほど健康そうな桃色。
おしとやかで繊細そうな雰囲気は深窓の令嬢を想起させた。
いや、深窓の令嬢というよりは鳥籠の佳人と呼ぶべきか。
どこか儚げで、女の私から見ても庇護欲をそそる雰囲気がある。
そんな倭魅美が着ている衣服は、白地に赤の花柄の刺繍が入った襦裙と桜色の上衣だった。
入宮するにあたって龍翔門の外で着替えたのかもしれない。
まさに全体的な印象は日本の国をイメージしたヒロインといった感じだ。
「ですが、風心さま。倭国のお妃さまは妖術を使うとの噂です。外見的には見目麗しくても、実際のところどういう人物なのかはわかりませんよ。もしかすると恐ろしい性格の持ち主かも……」
寧寧ちゃんの意見に私は「ダメよ」とたしなめた。
「まだ実際に話したこともないのに悪評を口にするのはおやめなさい……でも、後宮入りした以上は遅かれ早かれお話しする機会もあるでしょう。何せ相手は九嬪ではなく、私と同じ四夫人――いえ、五夫人の妃になるのだから」
私は表向き冷静な感じを作り、持っていた孔雀の扇子で自分を軽く仰ぐ。
しかし、内心では今後の展開に大いなる不安を抱いていた。
(まさか、こんな怒涛の展開になるなんて夢にも思わなかったわ)
事の発端は今朝のこと。
皇帝のいる大玄殿から使いの者が玉照宮にやってきた。
使いの者は私にひざまづいて拱手しつつ、朝廷の重要会議で決定した内容を伝えに来たと告げた。
それは倭魅美のことだった。
当初こそ倭魅美は九嬪の一人として後宮入りする予定だったが、色々とあって倭魅美は四夫人クラスの妃として迎えることに決定したという。
これを聞いたとき私はよく理解できなかったが、侍女頭の水連さんや寧寧ちゃんに言わせると凄まじいことだったらしい。
なぜなら、今後は皇后に次ぐ上級妃は四夫人ではなく五夫人になるからだ。
しかも五人目の上級妃は遠い異国から来た妃。
下手をすると権力闘争が激化して後宮内に血の雨が降りかねない、と。
私は今朝のことを思い出して生唾を飲み込む。
(一体、これから私の身の回りで何が起こるの?)
などと不安になっていても状況は変わらない。
倭魅美が五人目の上級妃になるのはほぼ決定で、その証拠に数日後の安政園では新たな上級妃の誕生を祝する式典が開かれる。
主賓は宸妃という新たな妃位を与えられる倭魅美。
式典の名前は妃位封賜という五番目の上級妃の誕生を祝うもの。
(どうしよう……破滅フラグの匂いがぷんぷんするわ)
正ヒロインの倭魅美がある程度の地位からスタートすることはわかっていたものの、九嬪クラスを飛び越えて四夫人クラスからスタートするとは想像もできなかった。
果たして原作ではどうなっていたのだろうか。
九嬪クラスからスタート?
それとも四夫人あらため五夫人として華々しくスタートしたの?
答えは全然わからない。
ここに義妹がいてくれたら全部教えてもらえたのに、この世界には私の破滅フラグを回避する術をおしえてくれる存在は皆無である。
では、どうするか?
「……虎穴に入らずんば虎子を得ず」
私はぼそりとつぶやいた。
そうだ。
誰も私を助けてくれる存在がいない以上、何か困難に直面しても自分自身で何とかしなければならない。
今までもそうやって生きてきた。
家族療法で私たち家族を救ってくれた大恩あるカウンセラーに憧れ、私は心理士の道に進むことを決意した。
あのカウンセラーの人のように私も心の病を抱えた人たちを救いたい。
その思いで私は必死に勉強し、多額の奨学金を借りて心理学専攻の大学と大学院に通った。
やがて卒業後は東京のメンタルクリニックに就職し、カウンセラーとして働きながらもさらに上を目指して国家資格である公認心理師になるための勉強もしていた。
結果的に何の因果か義妹がプレイしていた後宮版・乙女ゲーム内の悪役妃に転生してしまったものの、それでも私の根本的な信念は揺らがない。
どのような困難な壁にぶつかろうとも、解決策を模索して実行する。
その途中である程度の失敗や苦難は覚悟の上だ。
人生なんて失敗と苦難が連続して訪れるものだし、どんな失敗や苦難も乗り越えられるように神様は設定していると伝え残した古代の学者もいたはず。
まあ、古代の学者うんぬんはともかく。
どちらにせよ、私は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の精神で今まで人生を歩いてきた。
だったら、この乙女ゲームの中でもしっかりと生き抜く。
それこそ倭魅美がどういう立場で後宮入りしたとしても、私が倭魅美に対して取るべき行動は変わらない。
倭魅美と攻略対象者の恋路を邪魔しないことだ。
それどころか、むしろ積極的に倭魅美が恋をした相手との仲を取り持つことが最大級の破滅フラグを回避することに繋がるはず。
(そうよ、山田ゆい。まずはこの後宮から無事に出て、独りで生き抜くことを最優先に考えなさい)
そのとき、胸の奥にチクリとした痛みが走った。
同時に頭の中に一人の男性の顔が浮かぶ。
厳密に言えば、男性であって男性ではなくなった可哀想な人。
安仁さんの顔だった。
養心殿の一件から今日まで一度も顔を見ていない。
大玄殿で皇帝の側仕えをしているというので、今回の倭魅美の妃位封賜の準備に駆り出されて大忙しなのだろう。
それはわかる。
新たな上級妃の誕生を祝う催しの準備のため、今頃は寝食を返上して仕事に専念しているのかもしれない。
それでも、一度でも意識してしまうと会えない日は少し憂鬱になるのだ。
報われない恋なのは重々承知している。
安仁さんは男性機能を切除された宦官なのだ。
つまり後宮でしか生きられない存在。
一方、私こと山田ゆいが転生した蘇風心も皇后に次ぐ高位な妃――四夫人の徳妃だ。
皇帝に見初められなかったとしても、普通はこの後宮から出られることは不可能……という情報はさりげなく侍女たちに聞いて回って入手していた。
なので私も安仁さんも後宮という鳥籠の中でしか生きられない鳥に等しい。
私は小さくため息を吐いた。
安仁さんと一緒に暮らせるなら後宮暮らしも悪くないんだけどな。
叶わない願望なのは理解している。
宦官と四夫人クラスの妃の恋愛は絶対に叶わない。
もしも安仁さんも私を想ってくれたとしても、四夫人は皇后に次ぐ上級妃で皇帝の権威の一部でもあるのだ。
当人たちの意志など関係なく周囲が恋愛沙汰を許さない。
仮に私と安仁さんが隠れて恋を謳歌したとしても、いずれ必ずバレて私と安仁さんは皇帝の権威を失墜させた罪で処刑されるだろう。
だとすると、安仁さんに恋焦がれるのも破滅フラグかもしれない。
もしも倭魅美の存在を無視して安仁さんと恋仲になろうとしても、運命という死神は私の首を刈り取ろうと大鎌を構えて歩み寄ってくる。
そんな気配をここ最近はひしひしと感じている。
やはり後宮内にいてはダメなのだ。
あらゆる場所、あらゆる人、あらゆる状況の中に私を死に誘う破滅フラグが配置されている可能性が高い。
私は下唇を噛み締め、スカートの一部をギュッと強く握った。
しっかりしなさい、山田ゆい。
だったら今は当初の目的を達成させるために行動するのよ。
私の目的は必ず死罪になる破滅フラグをすべて回避し、さらにダメ押しで後宮から外に出て独りでたくましく生きていくことだ。
しかし、四夫人クラスの上級妃が後宮から出ることは無理らしい。
とはいえ、絶対に不可能かというとそうではなかった。
皇帝から徳妃の妃位を剥奪された場合は別だった。
もちろん、何か大罪を犯してしまえば妃位どころか命まで取られてしまう。
そこで私は考えた。
倭魅美と皇帝の華龍瑛を恋仲にさせるのはどうか。
具体的な手段はまだ考えていない。
だが極限まで仲良くなった倭魅美と華龍瑛との恋を成就させる立役者になれば、私は二人の愛のキューピッドとして華龍瑛から恩賞をもらえるかもしれない。
もしこれが成功すれば私の目的はほぼ達成される。
私は恩賞として徳妃の妃位を返上して生家に帰り、そこからは生家の力を借りずに自力でたくましく生きるのだ。
うん、これしかない。
原作ゲームでは蘭鳳瞬、趙虎月、陳燕青を攻略したあとでないと華龍瑛は攻略できないと義妹は言っていたが、それはゲームの話であってここは現実の世界だ。
実感としては三人と倭魅美を恋仲にさせたあと、さらに華龍瑛も恋仲にさせるなんて無理である。
この世界で倭魅美が結ばれるのは一人だけ。
そうであるなら倭魅美は、私が後宮から出られる唯一の方法を持っている華龍瑛と恋仲になってもらう。
私自身もまだ華龍瑛と面識はないが、四夫人の徳妃なので会おうと思えば九嬪クラスの妃たちよりも会いやすいはずだ。
そうと決まれば善は急げ。
私は「やるぞ!」と感極まって大声を上げてしまった。
と、そのときである。
「……あれ?」
くらり。
突如、猛烈な眩暈に襲われて視界がぐるぐると回りだす。
そして――私の意識はぷっつりと途切れた。