第11話 最大級の破滅フラグ
養心殿の一件から三日が経った。
後宮内には「風心妃が皇帝に毒を盛るために医術を学ぼうとした」という噂は流れていない。
その件については、私はひとまずほっとしていた。
私が医術を学ぼうとしたことは鳳瞬さん、安仁さん、寧寧ちゃんの三人の胸の内だけにしっかりと留まっている証である。
これで私が再び医術を学びたいと口にしなければ、皇帝に対する毒殺嫌疑という破滅フラグは立たないはず。
それは大変に良かったのだけど、肝心の後宮から出たあとのプランが早くも頓挫したことに私は頭を悩ませていた。
本来ならば鳳瞬さんから医術を学びつつ、禁衛殿で有能な誰かに武術も学び、綾書殿でも有能な誰かに芸術関係の知識や技術を学ぶつもりだった。
すべては後宮から出たあと、実家に頼らず独りで生きていくためだ。
しかし、養心殿の一件で私は悟った。
医術を学ぼうとしただけで毒殺の嫌疑をかけられるのなら、武術や芸術を学ぼうとしても何らかの嫌疑をかけられる可能性が高い。
たとえば武術なら「風心妃は皇帝がお通いなったときに暗殺するつもりだ」となるかもしれない。
一方の芸術の分野ではどうか?
さすがに芸術の知識を学ぶだけで何らかの嫌疑をかけられる心配はないと思ったものの、先代皇帝の寵姫となった妃が高価な絵画や芸術品を国庫で買い漁り、見事なまでに財政を悪化させたことがあると知って綾書殿に行くのをやめた。
どちらも破滅フラグに通じていると確信したからだ。
そうして、私の気力は一気に落ち込んでしまった。
これでは下手に自分から動くことができない。
どこでどう破滅フラグが立つのか、原作知識がないのでまったくわからないのである。
下手をすると料理一つ習うだけで悪評が立ちかねない。
とはいえ、このまま何もせずにいても将来は変わらないはずだ。
たとえ正ヒロインの倭魅美が現れて私が恋路をサポートしたとしても、私自身の将来を考えると後宮から出ることは絶対に必要。
何の知識も技術も身につけず本物の風心の実家に帰ったとしても、私は厄介払いされて家から追い出されるか尼さんになることを迫られる。
これは寧寧ちゃんや他の侍女から聞いたことだが、後宮にいる華やかな妃たちも皇帝に選ばれなかったら無用の長物になる。
位の高い妃ならば一生後宮内の隅っこの離宮で孤独に暮らし、中には皇帝以外の男性と添い遂げることを良しとせずに出家して尼さんになる妃もいるという。
そして四夫人以下の位の妃たちは成果や出世を遂げた官僚や功臣たちに下賜されるか、中には皆皇帝の陵へと追いやられ、その場所で皆皇帝たちの霊を奉斎することを強要される妃もいるらしい。
要するに歴代皇帝の墓がある土地へと追放され、毎日毎日墓参りをして余生を送れということ。
離宮でずっと孤独に暮らすのも地獄なら、好きでもない男性の元へ嫁がされるのも地獄。
さらに何の娯楽もない墓地で一生にわたって墓守をするとなると、それはもはや地獄を通り越して自殺するようなレベルの苦痛だ。
では、私はそのような地獄や苦痛に耐えられるか?
はい、もちろん無理です。
現代日本人にはどれも無理な選択です。
だとしたら、答えはやはり一つ。
どうにかこの乙女ゲーム異世界において、女一人でも市井で生きていける処世術を身につけなければ破滅フラグを回避しても遅かれ早かれ詰んでしまう。
私は大きなため息を吐いてテーブルの上に突っ伏した。
時刻は昼過ぎ。
今日も天気は快晴で、開け放たれた窓からは心地よい風が流れ込んでくる。
「どうされたのですか、風心さま」
私が将来のプランについて悩んでいると、両手でお盆を持った寧寧ちゃんが部屋の中へと入ってきた。
専属侍女の寧寧ちゃんには日中の部屋の立ち入りは自由に許可している。
そんな寧寧ちゃんはお茶を持って来てくれたようだ。
お盆の上にはお茶が入った銀製のコップが置いてある。
何でも銀製の食器やコップは毒を見分けることができるので、四夫人クラスの妃が使う食器やコップは毒味役がいても銀製のものを使うらしい。
「何でもないわ。ちょっと疲れているだけだから」
嘘ではなかった。
このところ妙に身体が重くてダルい。
本物の風心の身体は若くて健康的で、それこそ激しい運動をしても翌日には体力が回復している感じがあったのだが、養心殿の一件の次の日から身体に妙な不調が出始めた。
病気や怪我から来る不調ではなく、何か神経が張り詰める作業と長時間のウォーキングをしたような感じである。
今日のような絶好の散歩日和でも外に出たくないと思ってしまうほどに。
(……それになぜか両足も微妙に痛いのよね)
私はテーブルの下で両足の太ももをスカート越しにさする。
昨日もそうだったが、やはり太ももの筋肉が少し張っていた。
足を使うような激しい運動は一切していないのに、だ。
「風心さま、お疲れなら寝台でお休みになられますか?」
寧寧ちゃんが心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫。そこまで疲れているわけではないから」
私は空元気で返事をしたあと、ゆっくりと上半身を起こした。
「もしかして、例の噂のせいで寝不足気味なんですか? わかります。あたしもあの噂を聞いてから怖くて上手く寝つけないんです」
そう言うと寧寧ちゃんは、お茶が入っていたコップを丁寧な所作でテーブルの上に置いた。
「例の噂?」
私が小首をかしげると、寧寧ちゃんは「幽霊騒ぎですよ」と眉間にしわを寄せる。
「ここ最近、夜の後宮に出るようになったそうです。髪も結わず、簪も付けていない襦裙姿の妃の幽霊が徘徊していると」
「ゆ、幽霊って……嘘でしょう?」
私は小さく身体を震わせる。
現実の人間も恐ろしいのは前世の職業柄よく知っていたが、それでも実体のない幽霊はもっと恐ろしい。
何せ幽霊にはカウンセリングも心理療法も薬物療法も効かないのだ。
「本当だと思いますよ。この玉照宮にいる他の侍女たちも目撃したと言っていましたし、他の宮の侍女や夜回りの下女たちも実際に見たと言っているそうです」
嘘だと信じたかったものの、残念なことに寧寧ちゃんの顔は大真面目だった。
「見間違いじゃないの?」
「ですが、こんなにたくさんの目撃者がいるんですよ。きっと先帝時代の妃の幽霊に決まっています」
寧寧ちゃんいわく、後宮の外に出るためには唯一の出入り口である龍翔門を通る必要があり、しかも後宮の周りには侵入者と脱走者を防ぐ大きな堀がある。
なので好色だった先帝の時代、皇帝から見限られた妃が自分の将来を憐れんで首を吊ったり堀に身を投げる事件があったという。
そのときに死んだ妃たちが幽霊となって後宮内に出現している――というのが侍女や下女たちの見解だった。
だけど、私はとても信じられない。
「その幽霊騒ぎで何か実害は出ているのかしら?」
「いえ……養心殿のほうに走り去る姿が目撃されているだけで、誰かが襲われたり呪われたりしたという話は今のところないようです」
「だったら、その話はもう終わりにしましょう。聞いていてもあんまり楽しくないから」
事実だった。
怪談話があまり好きではなかったこともあるが、この話を続けていると胸の奥から心を曇らせる黒い霧が出てくる感じがしたのだ。
「そ、そうですよね。幽霊騒ぎなど風心さまがお聞きになるようなことではありませんよね。申し訳ありません。このような話を口にしてしまって」
「別にいいのよ。それよりも他に何か後宮内を騒がせているようなことはないの?」
どこに破滅フラグの種がバラまかれているかわからない以上、寧寧ちゃんのような後宮内の噂話や人間関係の情報に通じている侍女は頼りになる。
後宮を出たあとのプランの練り直しも必要だが、同時に破滅フラグに繋がりそうな情報は少しでも入手しておきたい。
そう考えながら私はカップを手に取ってお茶をすする。
「ありますよ。異国からたくさんの贈答品と一緒に、とある一人の妃さまが後宮入りされます」
「ぶううううううっ!」
私は思わずお茶を盛大に吹き出してしまった。
(い、異国から妃がやってくる!?)
あまりの不意打ちに私は盛大に咽てしまった。
異国からやってくる妃といえば決まっている。
この『後宮遊戯』の世界において日本をモデルにした島国――倭国から後宮入りする正ヒロインの倭魅美しかいない。
つまり、いよいよ私にとって最大級の破滅フラグのお出ましということだ。
「風心さま! 大丈夫ですか!」
一方、寧寧ちゃんは自分の懐から手巾を取り出して慌てて駆け寄ってくる。
「あ、あのう……あたしの淹れたお茶がお口に合いませんでしたか?」
私はハッとする。
寧寧ちゃんは両目に涙を浮かべて私の衣服に飛んだお茶を拭いていく。
「ううん、そんなことないわ。別にあなたの淹れてくれたお茶が悪かったわけじゃないの。それよりも――」
私は寧寧ちゃんの両手をガシッと掴む。
「異国から来る妃について詳しく聞かせて」
「は、はい……もちろんです」
ひとまず寧寧ちゃんを落ち着かせた私は、大きく深呼吸をして異国から後宮入りする妃についての情報を聞く。
「え~と、華秦国からさらに東方には海に浮かぶ島国があります。その島国の名前は倭国といいまして、華秦国が建国されてからは宗教や交易品を通じて外交関係がある国です」
私は「うんうん」とうなずきながら耳を傾ける。
「そして先帝の時代まで倭国は属国扱いだったらしいのですが、半年以上前の内乱のあとに現在の帝が皇帝の座に就いてからは正式な同盟国となったそうです。そして同盟国と認めてくれた倭国から大量の贈答品と一緒に、これから互いの国の外交を強くしたいという意味も込めて高貴な妃さまが入宮されることになりました」
「正ヒロインの倭魅美のことね」
「せ、せいひろいん?」
あっ、と私は口を手で隠した。
うっかり正ヒロインというこの世界には存在しない言葉を使ってしまった。
「な、何でもないから気にしないで……それで? その妃の名前は倭魅美というのかしら?」
「はい、おそらく間違いないと思います。倭国の中でも高貴な家柄の妃さまらしく、かなりの人数の侍女やお供を連れて来られるそうです……とはいえ、その妃さまや従者たちが華秦国の慣習などをどれぐらい知っているのかは疑問らしいのですが」
「まあ、それは後宮入りすれば嫌でもわかるから深く考えなくてもいいでしょう。それよりも、高貴な家柄の妃ということは後宮入りしたあとも結構な身分を与えられるんじゃない?」
後宮には上級妃として四人の四夫人がいて、中級妃は九人いる九嬪がいる。
そして下級妃となると特別な位はない。
これが『後宮遊戯』における後宮内の妃たちのヒエラルキーだった。
最初は私もよくわかってなかったが、寧寧ちゃんに色々と聞いたから今では後宮内にある様々な部署の名前や場所も頭に入っている。
まあ、それよりも今は倭魅美のことだ。
寧寧ちゃんはこくりとうなずいた。
「倭魅美さまはおそらく九嬪の妃さまになられるでしょう。今いる九嬪の誰かを出世した武官や文官に下賜されるという噂が広まっていますから」
気分が乗ってきたのか、寧寧ちゃんの口調も段々と熱量が込められていく。
「そして倭魅美さまが九嬪の妃さまになられる証拠は他にもあります。倭国の妃さまが後宮に来られたあと、安政園で大規模な歓迎の催しが開かれるそうなので」
「安政園って後宮内にある大きな庭のこと?」
「そうです。普段はお花見や舞楽会を開く場所なのですが、その安政園をすべて使って歓迎の催しを開くということは倭国の妃さまは九嬪として後宮入りすることはほぼ確実でしょうね」
なるほど、さすがは正ヒロイン。
ゲームではまず九嬪クラスの中級妃として後宮入りするところからスタートし、そこから攻略対象たちと出会って恋愛へと発展していくのだろう。
「ちなみに倭国のお妃さんが来るのはいつなの?」
私は何気なくたずねたあと、再びカップを手に取って残りのお茶をすする。
すると寧寧ちゃんはあっけらかんと口にした。
「え? 明日ですよ」
直後、私は一度目よりも強くお茶を拭き出したのは言うまでもない。