第10話 すべての攻略対象者
夜の帳が静かに広がり、満月からは銀色の光が降り注いでいる。
日中に皇帝としての政務を終わらせた華龍瑛こと俺は、四方を高い塀に囲まれた大玄殿の広い庭で武術の稽古を行っていた。
しかし、今日は独り稽古の日ではない。
「はああああああああ」
裂帛の気合一閃。
俺は疾風のように鋭く踏み込み、稽古相手の首筋に向けて木剣を走らせた。
(――当たる!)
俺はそう確信した。
だが、俺の予想に反して木剣は虚しく空を切る。
目の前の稽古相手が上半身を逸らせることで躱したのだ。
しかも顔色一つ変えない余裕の表情で。
「――チィッ!」
俺は返す剣でさらなる追撃に打って出た。
両腕に力を込め、相手の胴体を切り裂く勢いで木剣を振るう。
(これなら避けることはできまい!)
そう思った瞬間、
「甘い甘い」
稽古相手は軽く笑いながら、俺の木剣を正面から受け止めた。
ガシィンッ!
木剣同士が激しくぶつかり合い、静寂を打ち砕く音が周囲に響く。
「くっ!」
俺は両手に走った痺れに耐え切れず、地面を蹴って後方に飛んだ。
距離を取って握力を回復させようとしたのである。
しかし、俺の姑息な考えを稽古相手は一瞬で看破した。
「大家、それは悪手ですぜ」
稽古相手は獰猛な笑みを浮かべて突進してきた。
同時に俺の木剣を真下から弾き飛ばし、流れるような動きで俺の喉元に突きを繰り出してくる。
ビタッ、と稽古相手の木剣が俺の喉元の手前で停止した。
俺は両手を挙げるような格好のまま、苦々しい表情で稽古相手を睨みつける。
文句なしの勝負ありだった。
「俺の……負けだ」
吐き捨てるように言うと、遠くから「ガランッ!」と衝撃音が鳴った。
空中を舞っていた俺の木剣が地面に落ちた音だ。
「今の斬撃はなかなかのものでしたが、まだ俺から一本取るのは早いようですな」
稽古相手は腹の底から豪快に笑った。
「まだだ……まだ稽古は終わっておらんぞ」
俺は稽古相手の虎月に向かって言い放つ。
趙虎月。
俺よりも三歳年上で二十五歳の偉丈夫だ。
背丈は六尺(約180センチ)を軽く超え、稽古着を内側から破りそうなほどの筋骨隆々な体型をしている。
それもそのはず。
虎月は後宮の警備などを取り仕切る禁衛殿の護衛官であり、常日頃から武術や肉体の鍛錬は欠かしていないのだ。
そんな虎月は決して愚鈍には見えない。
日々の過酷な鍛錬によって無駄な贅肉は欠片もなく、それこそ野生の虎が二本足で立っているような凄みと雰囲気がある。
一方、厳ついのは肉体だけで顔つきは年齢よりも幼く見える部分があった。
耳に届かないほどの短髪に、少年のような澄んだ瞳。
笑った顔は純真無垢で、凛々しさと幼さが同居している。
とはいえ、武術に関しては子供のような幼さは微塵もない。
たとえ立場が上の相手でも稽古のときは全身全霊で相手をする。
それが禁衛殿で一目も二目も置かれている護衛官であり、鳳瞬や燕青と同じく俺と幼少の頃から家族同然に付き合っていた趙虎月という男だった。
「いや、今日はもうやめておきましょうや。ほら、ちょうど他の奴らも来たようですしね」
虎月は木刀で自身の肩を軽く叩きながら、俺の後方にあごをしゃくった。
俺は顔だけを振り向かせる。
視線の先には、二人の男がこちらに向かって歩いてくる姿があった。
一人は白衣姿の蘭鳳瞬。
そしてもう一人は宦官服を着た小柄な男だった。
五尺六寸(約170センチ)の俺や鳳瞬よりも少し背が低く、理知的に見える珍しい丸眼鏡をかけている。
一見すると子供に見えそうな風貌だが、あれでも二十三歳の成人だ。
「虎月さん、相手は我が華秦国の皇帝である大家なのですよ。少しは手加減して差し上げてはどうです?」
丸眼鏡の男――陳燕青は柔和な笑みで虎月に提案する。
「馬鹿野郎、燕青。手加減なんてしてるに決まってんだろ。てめえは普段から鍛錬もせず本にばっか囲まれてるから目が節穴になるんだよ」
「これは手厳しい。ですが、僕が書物に囲まれているのは当然のこと」
燕青は人差し指で丸眼鏡の体裁をクイッと整える。
「僕は経書、歴史書、詩文書、市井で流行な絵巻物にいたる書物の管理を行う綾書殿の典籍官です。どこかの誰かさんのように脳みそまで筋肉にする必要はありませんので」
虎月はチッと舌打ちする。
「ったく……相変わらずガキみてえな顔で舐めた口を利きやがる」
「それは誉め言葉と受け取っておきますよ。武術馬鹿さん」
また始まったか、と俺は嘆息した。
喧嘩するほど仲が良いというか犬猿の仲というか、昔からこの二人の関係性は変わらない。
「興が削がれた。今日の稽古は終わりだ」
俺は両手の掌を何度も開閉しながら虎月に告げる。
(ようやく痺れが治まってきたか)
虎月が手加減してくれたからこの程度で済んでいるが、もしも本気で打ち込まれていたら骨が折れていただろう。
「大家、大丈夫ですか? 少し診せてください」
鳳瞬が駆け寄ってくると、俺の両手を掴んで真剣に診察してくる。
「……まったく、これは皇帝の手ではありませんね」
悲しそうな表情で鳳瞬がつぶやく。
「こんな剣ダコだらけの手を作ってどうするのです? これでは通い出そうとする妃が驚くではありませんか」
「おいおいおい」
鳳瞬の言葉に著しく反応したのは虎月だった。
「鳳瞬、今のは本当か? ついに大家がどこかの妃さんの元へ通い始めようとしたってことは、いよいよ使い物にならなかったアレが――って痛えッ!」
話の途中で虎月は苦悶の表情を浮かべた。
しれっと虎月に近づいた燕青が、その腹に平手打ちを食らわせたのだ。
鋼の肉体を持つ虎月とはいえ、鍛えられない皮膚への打撃は衣服越しでもまともに食らうと相応の痛みをともなう。
「て、てめえ……何しやがる、燕青! ぶっ殺されてえのか!」
「いいえ、全然。あなたにだけは殺されたくありません」
燕青は虎月の怒気など完全に無視し、あっけらかんと答える。
「そんなことよりも前々から思っていたのですが、あなたには他人に対する配慮というものが欠けています。見ず知らずの他人に対してならばまだしも、我らが大家に対する配慮にだけは気をつけてください」
「そうだぞ、虎月」
燕青の援護に回ったのは鳳瞬だ。
「ただでさえお前は馬鹿なのだ。ならば、馬鹿は馬鹿なりに他人を気遣え。それとわたくしたちは表向き〝宦官〟として後宮にいるのを忘れるな。知っているのだぞ。武の鍛錬で発散できなかった性気を色街の妓楼で発散していることはな」
うぐっ、と虎月は表情を歪めた。
虎月が密かに妓楼に通っているのは俺も知っていた。
だが、それを咎めようとは思わない。
古来より英雄は色を好むという。
虎月は半年以上前、俺が皇帝になるために行ったあの惨劇の一番槍を務めてくれた。
あの女の護衛を務めていた手練れたちを虎月が始末してくれなかったら、今の俺はこうして皇帝の座に就くことは叶わなかっただろう。
いや、あのときの立役者は虎月だけではない。
この場にいる鳳瞬も燕青も、あのときは虎月と同等かそれ以上に裏から俺に協力してくれたのだ。
俺は過去の記憶を少しだけ思い出したあと、一つだけ咳払いをした。
「二人ともそのくらいにしておけ。虎月はお前たちが思っているほど馬鹿じゃない。妓楼でも後宮でも本当の身分がバレないよう注意してはいるだろう。まあ、武術馬鹿には違いないが……」
「大家!」
虎月はパッと顔を明らめると、俺に勢いよく抱き着いてきた。
「さすがは俺たちの大家ですな! この趙虎月、大家のためならたとえ業火の中にでも飛び込む所存ですぜ!」
ぎゅうう、と虎月は馬鹿力で締め付けてくる。
「離せ、暑苦しい!」
身体を揺らしながら叫ぶと、虎月は「おっと、こりゃあ失礼しました」と両手を離す。
「ははは……大家、今のは臣下として感極まったゆえの行動ですので、どうか罰だけはご勘弁を」
ふっ、と俺は苦笑する。
もしも宰相や将軍の前であったのなら不敬罪を申し渡さないといけなかったが、ここには家族同然の者たちしかいない。
そして今の俺は華秦国の皇帝ではなく、ただの龍瑛としてここにいるつもりだ。
「案ずるな、虎月。お前に何も罰は与えん。ただし、これまで以上に俺の鍛錬に付き合ってもらうぞ。その点だけは覚悟しておけよ」
虎月に言い放った俺は、自分の木刀を拾いに行こうとした。
と、そのとき――。
「お待ちください、大家」
空気を張りつめさせるほどの凛然とした声が耳朶に響く。
俺は声を発した鳳瞬に顔を向ける。
「武術の鍛錬もよいですが、そろそろ本格的に四夫人のどなたかを立后するおつもりはないのでしょうか? たとえば風心妃などは?」
ドキッ、と俺の心臓が心地よく跳ねた。
「なぜ、そこで風心妃の名が出てくる?」
俺は精いっぱい真顔を作って鳳瞬にたずねる。
「なぜ、と言われてもわたくしのほうが困ります。このところ大家は宦官の安仁どのとして風心妃の元へ意図的に近づいているご様子。ならば、風心妃を寵姫として――ゆくゆくは立后するおつもりなのかと思っただけです」
「風心妃だぁッ!」
俺たちの会話を聞いていた虎月は、風心の名前を聞いた途端に顔をしかめた。
「あの妃さんの噂は禁衛殿まで届いているぜ。自分の侍女たちにまで毒舌を振りまいている徳妃ならぬ〝毒妃〟ってよ」
「虎月さん、言葉には気をつけてください。ここは後宮とはいえ、どこに目や耳があるかわからないのですよ」
「はあっ? こんな場所に他の連中なんていねえよ。いたとしたら、俺が気配を見逃すわけねえだろうが」
確かに虎月ほどの達人ならば、この庭のどこかに他の人間が潜んでいてもすぐに気配を察知するだろう。
などと俺が考えていると、燕青は「そういうことではありません」とため息を吐く。
「とはいえ、風心妃の色々な噂は綾書殿にも届いています。あえては申し上げませんが、四夫人のお一人ということも信じられない性格の妃だと」
燕青はやや小声で続ける。
「そんな風心妃のところへ宦官の振りをしているとはいえ、大家が何度も足を運ぶんでいるとは……一体、何があったのですか?」
三人の視線を受け止めながら、俺は乱れていた前髪を手櫛で整える。
「別に何もない……しいて言うならば好奇心だな」
これは半分嘘だった。
好奇心という面はあったが、何もないというわけではない。
俺は昼間の養心殿の出来事を思い出す。
後宮の妃たちなどは自分が皇后になることしか考えず、常に他の妃たちを蹴落とすことばかりを考えているものだと思っていた。
もちろん、妃たちが皇后になろうと努力することは構わない。
後宮とは本来そのような場所なのだ。
けれど、それが他人の評価を貶めたり生命を奪うということに熱心になるのなら話は別だ。
少なくとも俺はそのような妃を正妻にして皇后にさせたいとは思わない。
寵姫の立場にさせるのも無理だ。
だが風心妃は己が皇后になれなかった場合、大人しく後宮から出て生家のある西方で弱き人々を救いたいと口にした。
本音だったのだろう。
俺はあのときの風心妃の瞳を脳裏によみがえらせる。
純粋で、真っ直ぐで、嘘のない澄んだ輝き。
正直なところ、あの場にいた俺はあまりにも動揺して難しい顔になっていただろう。
それほど俺の心は風心妃の言葉に揺れ動かされてしまった。
あのような妃ならば俺は――。
「……家……大家っ!」
俺はハッとして三人を見回す。
「どうしたんですか、大家」と虎月。
「先ほどよりも顔が赤いですよ?」と燕青。
「まさか、お身体の具合が悪くなったのですか!」と鳳瞬。
俺は「何でもない」と慌てて首を左右に振った。
そして話題を変えるために例の件を口に出す。
「そ、そういえばもう間もなくだな。倭国から贈答品とともに妃が後宮に来るというのは」
俺の言葉に燕青が大きくうなずく。
「はい。この度、倭国は正式に我が華秦国の同盟国となりました。ゆえに倭国の帝から多くの贈答品とともに、高貴な妃が入宮いたします」
倭国とは、華秦国よりさらに東の海に浮かぶ島国である。
そして俺が華秦国の正式な皇位に就いて落ち着いたため、倭国の帝は高価な贈答品と妃を入宮させることで外交関係を平穏に保ちたいというわけだ。
本当は断りたかったところだが、こういったことは皇帝の一存では決められない。
現に倭国の妃を入宮させることは今後の華秦国と倭国の関係上必要ということから、宰相や外交官の長である大鴻臚などが早々に決めてしまった。
ただ、これは皇帝である俺の責任でもあった。
過去の清算に囚われて立后させるどころか寵姫すらも決めていないことに宰相や大鴻臚は焦りを感じたため、表向きは外交上必要という体裁を作り、本当は異国の妃を迎え入れて次代の皇帝を生む刺激としたいのだ。
「その倭国の妃は何という名前だったか?」
俺が誰にでもなく訊くと、丸眼鏡の体裁を整えながら燕青が応えた。
「倭魅美という妃です」