僕の大切な人は、いつも僕の前からいなくなる。
僕の大切な人は、いつも僕の前からいなくなる。
一人目は、僕が赤子の頃から世話をしてくれていた婆やだった。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、聖母のように僕を優しく包み込んでくれた婆や。
王妃である母は、生まれつき病弱で床に伏せることも多かった。そんな母に代わって、婆やは色んなことを教えてくれた。
丸くなった腰を支えるように、いつも後ろで手を組んでいて、年のわりに艶やかな銀髪は頭頂部で丸くまとめられていた。
野菜嫌いな僕のため、厨房の料理長と何度も試作を重ねて料理やデザートを作ってくれた。
王子だからと使用人から甘やかされて育つ中、彼女だけがいけないことはいけないとハッキリと叱ってくれた。婆やがいなければ、きっと僕は傍若無人な王子に育っていたことだろう。
「アドニス殿下」
婆やが僕の名を呼ぶ声は、優しく僕を包み込んでくれるようで心地よかった。
血は繋がっていなかったけど、僕は彼女のことを本当の祖母のように慕っていた。
そんな婆やが突然姿を消したのは、僕が五歳の時。
その頃には、婆やがたまにひどく寂しげな目をしていることに気づいていた。
いつも優しく、幸せそうに微笑む彼女が不意に落とす影。彼女の表情が曇るたびに、僕の心には不安な気持ちが波のように押し寄せた。どこか儚く、そのまま何処へ消えてしまいそうで。寂しげに微笑むときは、世界との境界線が曖昧になり、彼女の存在までもが薄らいでいくように錯覚した。
その度に、僕は婆やの胸に飛び込んだ。ぎゅうぎゅうと存在を確かめるように抱きしめては、確かな温もりを感じてホッとした。
ある日、些細なことで頭に血が昇った僕は、同年代の使用人の子供を突き飛ばしてしまった。彼は軽く膝を擦りむいてしまい、ぱたぱたと静かに涙を溢して僕に謝ってきた。
その時、婆やが僕の手を取り、ペチンと手の甲を叩いたのだ。
「人に手を挙げてはなりません。痛みを知りなさい」
そう言って僕の手を解放すると、婆やは泣き続ける子供をあやすように抱きしめた。
僕よりもその子が大事なのか。
叱られたことへの羞恥心、自らの行いへの罪悪感、そして年相応の嫉妬心が僕の口を動かしていた。
「婆やなんか嫌いだ! どこかに行ってしまえ!」
本心ではなかった。
五歳の僕は、まだ自分の感情をうまくコントロールができなくて、心にもない言葉を婆やに投げかけてしまった。
その時の婆やは、何も言わずに微笑んでいたけれど、その笑顔がひどく悲しげで胸が締め付けられる思いだった。
僕は居た堪れなくてその場から逃げ出した。
――そしてその翌日、婆やは僕の前から姿を消した。
母上に聞いても、悲しげに首を振るばかりで婆やの行方を教えてはくれなかった。
どうして何も言わずに僕の前から消えたんだ。
悲しくて、悔しくて、怒りまでも込み上げてきて、僕は三日三晩泣き暮らした。僕が泣いている時、決まって背中をさすってくれた皺だらけだけど誰よりも優しい手。もういつものように背中をさすってもらうことができないと、そう悟ってまた涙が出た。
少し落ち着いてから、僕はどうしても婆やに会いたくて、城中を探し回った。
だって、まだ謝っていないのに。ひどい言葉を投げかけて、大好きな婆やを傷つけたまま離れ離れになるなんて、あんまりじゃないか。
結局、隅々まで探したけれど、婆やの姿はどこにも見当たらなかった。
片っ端から聞き込みもしたけれど、みんな悲しげに首を振るばかりだった。
『もういいお年だったから……』と、不穏な言葉まで聞こえてきて、僕は叫びながら駆け出した。
もう会えない。
そのことを理解して、その晩また枕を涙で濡らした。
――この時、僕は幼いながらに決意した。
もう二度と相手を傷つける発言はしない、と。
婆やは最後にそのことを僕に気づかせてくれた。
◇◇◇
二人目は、中年の侍女だった。名をパトラといった。
無駄のない動きでテキパキと仕事をこなす彼女は、どこか婆やに似ていた。僕は婆やを失った心の隙間を埋めるように、パトラに懐いていった。
そのうち、彼女は僕の専属侍女になり、身の回りの世話を担ってくれるようになった。
僕は毎日パトラに感謝の言葉を伝えた。その時感じたこと、思ったことはすぐに伝えるようにした。
いつ気持ちを伝えることができなくなるかもわからないから。別れは不意に訪れる。僕はそのことをよく知っていた。だから伝えたいことがあれば、伝えたいと感じたその時に伝える。
大抵は感謝の気持ちなので、パトラは毎回恥ずかしそうに微笑みながらもとても嬉しそうに頷いてくれた。
笑った時の目尻の皺が婆やにそっくりで、胸が締め付けられて切なくなった。
十歳になったある日、パトラが廊下の隅で苦しげに胸を押さえて蹲っているところを見つけた。
僕は慌てて駆け寄って、パトラの背中をさすった。昔婆やがそうしてくれたように。
パトラはハッとした顔で僕の顔を見ると、瞳を揺らして泣きそうな顔で微笑んだ。
「ありがとうございます。アドニス殿下。あなたはとても優しく成長してくださいましたね。これで私も安心です」
「な……」
――どうして。
そんな、僕の前からいなくなるような言い方をするんだ。
「な、何を言っている? 僕にはパトラが必要だ! 病気、なのか? そうだ、医者を呼ぼう」
「いえ、大丈夫ですよ。ちょっとした……持病です。少し休めば楽になります」
慌てて医務室に向かおうとする僕を、パトラはゆるゆる首を振って優しく制する。その手はとても冷たい。顔も青白くてどう見ても大丈夫ではなかろうに。
そんなに頼りないのだろうか。まだ子供だから?
僕はグッと唇を噛み締めた。
「パトラ。その……今夜は添い寝をしてくれないか? 子供じみていると思われても構わない」
「殿下……ありがとうございます」
その日、僕はパトラにぎゅっと抱き付いて眠った。
パトラが消えてしまわないように、僕の前から消えないように、存在を確かめるように手を握った。
「アドニス殿下、パトラは幸せですよ」
パトラは嬉しそうに微笑みながら、トントンと僕の背を優しく叩いてくれた。とても安心して、心地よくて、僕はすぐに夢の世界へと堕ちていった。
翌朝目が覚めると、一緒に寝たはずのパトラがいなくなっていた。
つい昨夜まで、パトラの温もりを感じていたというのに――パトラが寝ていた場所に触れるも、既にシーツは冷たくなっていた。
なんで。どうして。
パトラも僕の前からいなくなってしまったの?
僕の脳裏に婆やとパトラの笑顔が浮かぶ。
悲しくて、悔しくて、僕は大声を出して泣いた。
パトラにもたくさんのことを教わった。
気持ちを真っ直ぐに伝える大切さ。
相手への思いやりや感謝の気持ちを大事にすること。
他にもたくさんたくさん教えてもらった。
年頃の僕は、自分の気持ちに素直になって、相手に心の内を伝えることに抵抗があった。
でも、パトラがいたおかげで、そんな抵抗感もなくなって、僕は家族や友人、使用人にも分け隔てなく接するようになった。
もちろん感謝の気持ちも忘れない。
相手が誰であれ、「ありがとう」を伝える。
もはや頭で考えるよりも先に、自然と口から溢れるようになっていた。
僕の言葉を受け取ってくれた人はみんな笑顔になった。
それだけで、なんだかとても心が晴れやかになる。
そんな僕を両親も温かく見守ってくれている。
婆やとパトラのおかげで、僕は実直に育つことができた。もう「ありがとう」は伝えられないので、そんな時は天を仰いで二人の顔を思い浮かべる。
叶うなら、もう一度二人に会いたい――
◇◇◇
そして十五歳の時――僕は運命の出会いをした。
彼女の名前はカリーナ・ランジェロ。
侯爵家のご令嬢である。
幼少期は田舎の領地で過ごしていたらしく、社交デビューに際して都に上がってきたのだとか。
彼女との出会いは、王立学園の入園祝賀パーティであった。
キラキラと美しい銀髪を靡かせて、凛と佇む姿はどこか儚げで、でも圧倒的な存在感を誇る彼女に僕は一目惚れをした。
顔が熱くて堪らなかった。きっと真っ赤に染まっていたことだろう。ドキドキと鼓動がうるさくて、震える声でダンスを申し込んだ。格好悪いけど、この時の僕の手も緊張しすぎて震えていた。
そんな僕の様子に目を瞠った彼女は、フッと花のように笑って僕の手に白磁のように綺麗な手を重ねてくれた。それだけで舞い上がってしまいそうなほどの幸せを感じた。
初めて会ったのに、ずっとずっと昔から知っているような不思議な感覚に浮かれながら僕はダンスに興じた。
そろそろ婚約者を決める年頃なので、王立学園に通う間に婚約者候補を探すようにと言われていた僕は、迷うことなくカリーナを婚約者に望んだ。
けれど、何故か両親は渋い顔をして、侯爵家からも快諾の返事は届かなかった。
諦めきれなかった僕は、何度も手紙と花を贈った。
僕の熱烈なアプローチに折れた彼女は、少しずつ二人で会ってくれるようになった。
カリーナは聡明で淑やかで、同年代の他の令嬢よりも随分と大人びて見えた。
けれど、どこか達観しているような、自分の未来を悟っているような、そんな遠い目をすることがあって、儚くてどこかに消えてしまいそうで、僕は彼女を繋ぎ止めることに必死になっていた。
そんなある日のこと。
王宮の庭園にカリーナを招待した僕は、ガゼボでお茶を飲んでいる際に、思い切ってこう切り出した。
「君も、僕の前からいなくなってしまうのかい?」
「――え?」
静かに尋ねた僕に、驚き目を瞬くカリーナ。
その瞳が激しく揺れ動いた。
動揺する彼女の手を取り、僕は真っ直ぐに琥珀色の瞳を見つめた。そういえば、婆やも、パトラも、みんな美しい琥珀色の瞳を有していた。
「聞いてくれるかい? 僕の大切な人たちの話を――」
僕は幼少期からの話をカリーナに語って聞かせた。
大切な、婆やとパトラの思い出を。
彼女は何も言わずに静かに耳を傾けてくれている。
「――僕はもう、大切な人を失いたくない。君まで失ったら、僕はもう立ち直れない。どうか君だけは僕の前からいなくならないでくれ」
「アドニス様……」
困ったように眉を下げるカリーナ。
彼女はフッと瞳に影を落として、一筋の涙を流した。
「……お約束は、できません。私は、あなたと同じ刻を歩むことはできないのです」
「どうしてだ」
「言えません。言えないのです。ですが、これだけは――私はずっと、ずっとずっとあなたを、あなただけを想い続けております。それだけはどうか、忘れないでください」
カリーナは、初めて僕の気持ちに応えてくれた。
心躍るほどに嬉しいことのはずなのに、まるでこれが最後だというような彼女の言いようにひどく動揺してしまう。
気がつけば、今にも消えてしまいそうな彼女を捉えるように、その細くて艶やかな手を握っていた。
「嫌だ! 絶対に離すものか。僕はもう、誰も失いたくはない」
「っ、アドニス様……」
「僕は君を愛している。出会って間もないが、どうしようもなく君に惹かれている。心が求めているのだ、君だと。君だけが欲しいんだと。カリーナ、君を失ったら僕はこの先生きていけないほどに」
「そ、んな……そんなことおっしゃらないで」
真剣な僕の言葉に、カリーナは激しく瞳を揺らす。
戸惑いと、喜びと、後悔と、期待。
様々な感情がない混ぜになっているような、複雑な色が瞳に滲む。
僅かな期待を胸に、僕は縋るようにカリーナに問うた。
「君も、同じ気持ちでいてくれるのだろう?」
「…………はい」
「ならば、二人で共に過ごす道を考えないか? 何か言えない事情があるのだろう? 僕にもその業を背負わせてはくれないか」
そっとカリーナを抱きしめると、彼女の肩は細かに震えていた。「愛している」と耳元で囁くと、ピクリと肩を震わせて、ぎゅっと僕の胸に縋り付いてくれる。
何がここまで彼女を追い詰めているのだろう。
僕にもその肩の荷を共に背負わせてほしい。
もう大切な人を失いたくない。
カリーナを愛しているんだ。
そっと身体を離してカリーナの肩に手を置く。
彼女は僕の胸元でギュッと拳を握ったまま、下を向いている。
「カリーナ」
彼女を呼ぶ声が掠れてしまう。
けれど、その一言にはどれだけ彼女を想っているのか、その想いが乗っていた。
そして、カリーナにもそのことは伝わったようで、ゆっくりと涙に濡れた顔を上げてくれた。
「愛している」
「アドニス様……」
そっと彼女の涙を拭い、顔を寄せていく。
長いまつ毛が伏せられたことを確認してから、僕もゆっくりと目を閉じた。
重なった唇は涙に濡れて冷たかった。
存在を確かめるように、ゆっくりと唇を重ねる。
「私も、愛しています。ずっと、ずっと昔から――」
唇が離れ、囁くように彼女が告げた時、彼女の胸から眩い光が溢れた。
「カリーナ!?」
絶対にいかせない。離すものか。
その一心で光に包まれるカリーナを抱き寄せる。
パァァッと目を開けられないほどの光の渦の中、僕の中にカリーナの記憶が映像となって流れ込んできた。
不貞腐れて目に涙を溜める僕をあやす姿。
幼い僕を抱いて、嗄れた声で子守唄を歌う姿。
老婆の姿を前にして泣き崩れるカリーナの両親の姿。
今より少し大人びた僕たちが幸せそうにダンスを踊る姿。
真っ黒な雷が城に落ち、突然現れた禍々しくうねる漆黒の髪を靡かせる魔女。
魔女から僕を庇って真っ黒な魔法の光に包まれるカリーナ。
崩れ落ちる僕と老婆に姿を変えたカリーナを前に、高笑いをする魔女。
老婆となったカリーナを中心に目に止まらぬ速さで周囲の時間が遡っていき――
やがて光は収束し、カリーナは目を大きく見開いたまま、信じられないとでも言うように自分自身の顔や胸をペタペタと触っている。
「あ……嘘。呪いが、解けてる?」
「カリーナ、今の映像は……そうか。君がそうだったのか」
信じられないことだが、どうしてかその事実は僕の胸にスッと入り込んできた。
――カリーナが婆やであり、パトラだったのだ。
「まさか、そんなことが……ああ、会いたかった。ずっと礼を言いたかった。今度こそ、カリーナ、君をもう二度と離さない」
「アドニス様……私も、ずっと、ずっとお慕いしておりました。こうしてまたお隣にいることができて幸せです」
この後、カリーナからことの次第を聞いた。
なんでもカリーナは、僕との婚約披露パーティーの場で招かれざる魔女から呪いを受けたのだという。
醜い老婆に姿を変えられ、肉体の時を逆行する呪いらしい。
呪われたカリーナは過去に飛ばされ、愛する者――僕と違う時を生きる苦しみを味わった。
異なる時間の流れに身を置きながら、日々成長していく僕のそばにいることは、どれだけ辛いことだったのだろう。
僕と関わらずに生きる選択もできただろうに、それでもカリーナは少しでも僕と共に過ごすことを選んでくれた。
逆行前の僕は、今の僕より自信に溢れ、少し傲慢なところもあったのだとか。
きっと、婆ややパトラと過ごした時間がなければ、その時の僕と同じように、周囲が王子である自分に尽くすのは当然だと、感謝の気持ちすら述べられない男のままだっただろう。
後に専門機関で調べたところ、カリーナが受けた魔女の呪いは、逆行前よりも硬く強い愛で結ばれた時に解呪されるものだったらしい。
呪いの痕跡は精巧に隠匿され、解呪されてようやく判明した事実である。
つまり、カリーナは呪いを解くために僕に近づいたわけではないというわけだ。
だが結果として、カリーナが僕のそばに姿を現してくれた勇気が、彼女を解呪に導いたのだろう。
これからの僕にできることは、生涯をかけてカリーナを愛し、守り抜くことだ。
僕は大切な人を失う苦しみを知っている。
だが、僕はもう誰も失わない。
生涯をかけてカリーナを守ると誓う。
「カリーナ、愛しているよ。もう二度と、僕の前から姿を消さないでおくれ」
「はい。私の心はいつもあなたと共に」
僕とカリーナは手を取り合い、微笑み合った。
優しい風が僕たちの間を遊ぶように吹き抜けていく。
ようやく僕たちの時間が重なり、動き出したのだ。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
本日なろう投稿3周年となりました。
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