死にたい青年と悪食神
*アルファポリスさんにも掲載しています。
夏の茹だるような暑さの中、開けられた校舎の窓からは涼やかな海風が吹き抜ける。授業終了のチャイムが鳴ると、静まり返った廊下には、途端に夏仕様のブレザーの制服に身を包んだ生徒達で活気あふれた。
短いスカートの裾を翻しながら女子生徒達が囁く。
「ねぇ!今日も黒木君かっこよかったね!」
「だよねだよね!でも、やっぱりまだ学校に慣れないのかな?今日も一人だったよね」
「やっぱり東京から来たんだもん。こんな田舎じゃねぇ……」
「でも、あの一匹狼な感じがまたいいよね!」
わかるー!と黄色い声を弾ませながら、彼女達はこの高校に来た季節外れの転校生の噂話をしていた。
「かっこいいし、黒髪サラサラだし、背だってうちの高校で一番高いし……?もう完璧〜‼︎」
その輪の中の一人がそう言うと、もう一人が首を傾げた。
「でもさ、背の高さだったら地味崎の方が高くない?」
「あ、たしかに〜って………、ないない!」
「理科専の神崎先生でしょ?確かに黒髪で背も高いけど、あれはないわ〜」
「だって、地味だし。いつもヨレヨレの白衣きとるし。そもそも、ボサボサの髪と眼鏡で顔わからんし」
「地味崎の顔見た人おるん?」
「なんか、みると呪われるらしいよ〜」
「うわ、何それ。別に見たいとも思わんけど」
だよねー!と声を揃えながら、彼女達は下駄箱で靴を履き替えさっさと校舎を後にする。
皆、明日から始まる夏休みに浮かれていた。
ただ、一人の生徒を除いてはー……。
*
立ち入り禁止の看板が掛かっているドアをくぐれば、そこは青空が広がる錆びれた屋上だった。真夏の太陽がコンクリートをジリジリと焼き付け、まるで地獄の釜の中にいるかのようだ。未だに馴れない潮の生臭い香りに吐き気がする。
まるで目玉焼きでも焼けそうなほど暑くなった銀色の柵から下を覗けば、浮かれきった生徒達でごった返す校庭と正門が見えた。生徒指導の教師が竹刀を持ちながら「気をつけて帰れよー!宿題ちゃんとやれよー!」なんて騒いでいる。
どいつもこいつも、無駄に甲高い声で喋りやがって、こんなに離れているのに耳障りだった。
夏の茹だるような暑さの中、俺は決意した。
そうだ、
死のう、
……と。
そう思いつけば行動は簡単だ。
銀色の柵を握り、身を乗り出す。熱が容赦なく掌を焼いたが、そんなことはどうでも良かった。
だが、予想外だったのは、右足を柵に掛けて力を込めた時だった。
「君、死ぬの?」
嗄れた男の声に、背後から問われた。
ここは、立ち入り禁止の屋上で誰も居ない筈なのに。
足を下げ、ゆっくり振り返るとそれはドアの前に立っていた。
ヨレヨレの白い白衣。
ひょろりとした長身を丸めた猫背。
パーマがかったボサボサの髪に瓶底眼鏡。
夏の空の下には似つかわしくない死人のように青白い肌。
地味崎ー………。
誰かがそう呼んでいた。
馬鹿にして。揶揄って。
でも、それすら咎められない気弱な教師。
「はい、死にます。でも先生には関係ないでしょう?」
それ以上の返答はこの教師には不必要だと考え、再度足を掛け直す。全く、時間を無駄にしてしまった。
だが更に予想外だったのは、普段は授業中でさえもモゴモゴと何を喋っているのか分からない教師が、流暢に返答してきた事だった。
「いいえ、関係あります。一年A組、黒木奏くん」
名前を呼ばれたことに、少し驚き動きが止まる。まさか、こいつに覚えられているとは思わなかった。
「なんですか、教師だから止めるんですか?」
「いいえ」
「校舎内で自殺者がでたら困るから止めるんですか?」
「いいえ」
「自殺の理由でも聞きますか?」
「いいえ」
「じゃあ、何ですか!?」
何を言っても通り一遍な返答に此方が痺れを切らし振り返った。すると、彼はいつの間に距離を詰めたのか、もう俺の目の前にいた。気配もなく突然現れた目の前の長身にひゅっと喉が鳴った。猫背な背中をより丸めて覗き込まれる。ボサボサの長い前髪によって、照りつける太陽は視界から遮られた。
頬がヒタリと冷たい感触に包まれる。
それは、地味崎の長い指だった。
青白い肌とは対照的な、血色の良い真っ赤な唇が囁いた。
「その死に方は、美しくない」
覗き込む瓶底眼鏡が重力によって少しずれ落ちる。前髪と眼鏡の隙間から覗いたのは血のように赫い瞳だった。
「っな、目、あかっ……」
震える声で呟けば、彼は首を傾げて笑った。
「おっと、危ない。ご馳走を前に油断して術が解けたか」
ジュルリと啜る涎の音に、背筋に悪寒が走った。気がつけば長い指先は首に回されていて息が詰まる。片手で首をゆっくりと締めてくる目の前の男を見ながら言った。
「や、やめっ………」
「おや?コンクリートに五臓六腑をぶちまけて死ぬのは良いのに、首を絞められて死ぬのは嫌なの?」
「く、苦しっ、はなせ………っ!」
「なに、問題ないよ。人間は気道を閉塞すれば三十秒で意識が朦朧とし一分で意識を失う。その後も僕がしっかりと絞め続けてあげるから、君は安心して死ぬといい」
全然安心できないことを言われながら、人間の力とはとても思えない強さで首を握りこまれる。気道が完全に塞がれ息ができない。次第に手足が痺れ、意識が朦朧とした。
「あと、少しだよ………」
低い声で、そう耳元で囁かれた時だった。
自分の足に、何かが纏わりついた。
**
舌打ちが聞こえた。
気がつけば、俺はコンクリートに尻餅をつき酸素を取り込もうと咳き込んでいた。潰されかけた喉が焼けるように痛み熱をもつ。霞む視界の中、なんとか顔を上げれば、腕を伸ばし首を絞めていた体制のままの男が此方を見下ろしていた。
「あぁ……、面倒くさい」
苛つくような声とは裏腹に、赤い唇は楽しげに吊り上げられている。
「君、寄せ付けちゃう体質?」
その言葉に、己の体を見れば纏わりついてきた正体がようやく分かる。
それは、転校初日から俺の命を狙っている奴だった。
そう認識した途端に、足元のコンクリートから無数の腕が生え出した。太い腕が何本もギリギリと身体中に絡みつき、容赦なく絞めてくる。すると、目の前のコンクリートからは人間の頭が生えてきた。それは、髪も眉も抜け落ちて、女か男かも分からないような人間の形をしただけの化け物。奴は、白目を剥きながら上半身を露出させ、此方に向かってゆっくりと大きく口を開けた。生臭い腐敗臭と共に、濁声が告げた。
『きょぉぉおうこそぉぉぉぉ、
たべてあげるよぉぉおおおおおお〜』
"今日こそ、食べてあげるよ"
その言葉を理解した時、俺は、絶叫した。
「い"や"だぁあああああああっ!!!!!」
全身の震えが止まらない。
傷ついた喉が、汚い濁音気味の言葉を発する。
力の限り絡みつく腕を振り払おうとするが、無様な芋虫のようにもがく事しかできなかった。俺は、力の限り手を伸ばした。それは、もはや藁にも縋る思いだった。
震える指先は、化け物の向こう側に佇む男に向けられた。
「ぜんぜぇ、だずげでっ………っ」
その声は掠れてしまったが、確かに届いた。
だが、彼は興味なさそうに肩をすくめただけだった。
「どうして?死にたかったんでしょ?良かったじゃない。今なら死ねそうだよ」
そう言いながら、にっこりと微笑まれて絶望した。
違う。違うんだ。
「ぢがゔ……」
良くない。全然良くない。
「だ、ず、け、て……」
だって、だって、
「……ぉ、れ、は………」
"こいつら"から逃げる為に死のうとしたんだ。
先生は、尚も微笑みながら此方を見ていた。
歯並びの悪い尖った歯が、頭皮に食い込んでゆく。激痛と共に、裂けた皮膚から血が噴き出した。俺の体から次第に力が抜けると、目の前の化け物は嬉しそうに喉を鳴らす。
生ぬるい己の血が目に染みた瞬間、霞む視界の片隅で、潮風に吹かれて白衣が揺れた。
「ご、ろ、して……!」
気づけば、俺は叫んでいた。
「ごろじて!あん、たが、おれを殺していいがらっ!」
やめろ、
それだけは言ってはいけない。
……なんてことを言ってくれる理性は、とうにカケラも頭に残っていなかった。
「だからっ!」
「だから?」
「だからっ!!」
嗄れた声の楽しそうに問いに、力一杯答える。
「だから……、助けてっ…………!!!」
それは、一瞬の出来事だった。
目の前の化け物の体が、横に吹き飛んだ。
奴の後頭部は脳髄を撒き散らしながらコンクリートの上に飛び散り、雨のように生温い血が降り注ぐ。
先生は、残った体に細い腕を突っ込んで内臓を引き摺り出した。そして、それを躊躇わずに己の口に突っ込んだ。
鮮血が滴り、その細い顎に滴る。
ジャル……、ジュルルル………、グチュ。
まるで、ご馳走様に喰らいつくかの様に丁寧に血を舐めしゃぶる音がした。晴天の青空の下で、標本のように並びの良い白い歯が、肉を噛みちぎる。激しく、バリバリと骨ごと噛み砕き咀嚼する音が軽快に響き渡った。
「ふっ、はぁ。こんな雑魚の魂でも、まぁまぁだな」
血の海の中で、喘ぐように呟かれた。
俺は、目の前の光景から目が離せなかった。
胃液が迫り上がってくる感覚に胸を抑えようとすると、途端に全身に激痛が走った。
「……ぐ、ぁあっ」
唐突に込み上げた胃液を吐き出す前に、体中が締め付けられたのだ。どうやら、俺の体に巻きついていた腕が、最後まで足掻こうとしているらしい。
「ぃ、やめ……ろ………っ」
手で引き剥がそうとしても、びくともしない。
けれど、骨までもが軋む音がした時、その腕は目の前の男によって呆気なく引き剥がされた。潰れそうになっていた肺が、一気に空気で膨らみ咽せた。苦しくて蹲る俺の頭上で、先生は猫背な背をしゃんと立たせた。何をするのかと見れば、上を向いて大きく口を開ける。そこへ、引き剥がした腕の指を引きちぎって放り投げた。
ぱくんっ、ごくん。
馬鹿みたいに可愛らしい音を繰り返す。見上げた先にある血色の悪い頬は、血に濡れながら高揚していた。
醜い体から噴き出す血が、俺を頭のてっぺんから爪先まで真っ赤に染め上げる。先生の顔も、白衣も血に染まった。
だが、そんなことも気にならない程に、俺は目の前の光景から目が離せなかった。
永遠に続かと思われた咀嚼音は、やがて止まる。
それは、先生が化け物を全て平らげ終えた合図だった。
「ご馳走様でした」
呟きと共に、血に濡れた手と手を合わせて合掌している。
先程までは、嫌に行儀悪く喰っていたくせに、終わりを告げるその姿は嫌に行儀が良くて、なんだか笑えた。
***
いつの間にか血に染まった屋上は、元の錆びれた姿に戻っていた。俺の体についていた血も、目の前の教師に塗れていた血も、塵のように潮風に舞い上がり空気に溶けて消えた。
蹲ったまま呆けていると、頭上から声がした。
「さて、約束は守ってもらおうか」
見上げると、瓶底眼鏡が此方を向いていた。
よろよろと立ち上がり、自分よりも背の高い男の顔を見返す。こんな状況なのに、誰かに見下ろされるのは久しぶりだな……なんていう現実を逃避する思考が巡る。
痛む喉に鞭を打って、答えた。
「はい、守りますよ。どうぞご自由に」
「やけに潔いね。その心は?」
首を傾げながらそう問われる。答えを思案して、一度沈黙するが、答えなんて簡単で、滑るように口から漏れた。
「どうせ、食べられるなら」
「……なら?」
「歯並びの良い方がいい」
沈黙の中に、息を呑む音がした。
だが、それは一瞬で大きな高笑いに変わる。
「ふっ、はははははははははっ!!!!」
校庭にまで届きそうな笑い声が響き渡る。
地味崎と日頃呼ばれている彼の、そんなに大きな声は聞いたことがなかった。またしても予想外の出来事に、呆気にとられたまま目の前の教師を見つめるしかない。
彼は、立ったまま長身を丸め、腹を抱えて笑っていた。
ひとしきり笑いこけ、呼吸が落ち着いてきた頃、ゆっくりとその顔は上げられた。
右手の長い指先が、瓶底眼鏡を外してゆく。そして、左手は、ボサボサの前髪を後ろへかき上げる。
今度は、此方が息を呑む番だった。
すっと通った鼻筋に、凛々しく形の良い眉毛。
全てのパーツが行儀良く並べられたその顔はどこか中性的で、人間離れする程に整っていた。長い睫毛に縁取られた瞼がゆっくりと開かれる。その向こうには、夜空を映したかのような青褐色の瞳が瞬いていた。
地味崎、と呼ばれていた教師はもういない。
目の前にいるのは、恐ろしく美しい得体の知れない男だった。彼は、白衣のポケットに手を突っ込みながら、ステップを踏むかのように此方に顔を寄せ囁いた。
「僕はね、神様なんだ。魂を喰らう保食神。だから、生きたままの君を喰うことはできないんだ」
赤い唇が、吊り上がる。その言葉に、俺は躊躇いもなくネクタイを緩めて首を差し出した。
「じゃあ、さっさと先程の続きをどうぞ」
「やだ、黒木くんったら、男前!」
揶揄うように口笛を一吹きする相手に苛つく。何か言ってやろうかと口を開こうとすると、その手は首に伸ばされた。
首筋を、冷たい指先がなぞる。
さっきまでいた化け物の血の方が、よっぽど温かかった。
「合格だ。気が変わった」
「はっ?」
「君は、いい感じに狂ってるね。そんな君に、有難い神の信託を与えよう」
青褐色の澄んだ瞳が俺を捉えた。
「汝、その命を我に捧げんことを生涯誓うか」
「は?」
仰々しく囁かれた言葉の意味を理解する前に「こら、返事」と小声で叱られる。
「汝、その命を我に捧げんことを生涯誓うか」
「はい、えっと、誓います」
「その言葉、ここに魂の契約として印す」
そう囁かれた瞬間、瞳は澄んだ青から、全てを燃え尽くす業火のような深紅に染まった。
「……は?ぐ、ぁっ!」
そして、言葉の意味を理解するよりも先に、指先でなぞられていた首筋に突如として歯が立てられた。
「っ、ゔぁああああああああっ!!!!!」
次の瞬間、全身の血が沸騰するかのような熱が身体中を駆け巡る。脳が痺れ、目の前に閃光が走り火花が散った。頬を触る彼の黒髪は瞬く間に白銀へと色を変えてゆく。尚も歯は、容赦なく首筋へと食い込んだ。
それは、永遠のような耐え難い苦痛だった。
だが、不意に終わりは訪れた。呆気なく歯を離さたかと思うと、俺は立っていられずにその場に膝をついてへたり込んだ。長い舌が、唇の端についた血をべろりと舐め上げる。
「契約完了だ」
遠くで、間抜けなチャイムが響き渡った。
****
「と、言うわけで。黒木くんは今から餌です!」
「………は?」
茹だるような熱さの中、屋上では相変わらず長身の男二人が膝を突き合わせて座っていた。
「だぁかぁらぁ〜!僕の食事を誘き寄せる餌ね!海老で鯛を釣る的な?」
「俺は海老かよ」
「言葉の綾だって〜っ!」
容赦なく、裂傷が残る後頭部をバンバンと叩かれる。もはや、失血しすぎて気を失いそうだった。
目の前の男は、実に愉快そうに笑顔で言った。
「どうやら、君は生に執着した生き汚い亡者の魂に狙われやすい。だが、そんな魂達こそ、僕の糧だ。『君が襲われる・僕が喰べる・君は助かる・僕は満腹になる』ほら!みんなハッピー!最高でしょ?」
その言葉に、考えるより先に口が動いた。
「どうせ、俺のことも喰うんだろ?」
小さく呟いた言葉に、男は笑った。
「大丈夫だよ。僕は最高のデザートは、ちゃんと最後にとっておくタイプなんだ」
世界一大丈夫じゃない大丈夫に、もう俺の意識はブラックアウト寸前だった。
「なんで」
寄せばいいのに、言葉が零れた。
「なんで、俺なんだよ………」
震える拳は、もう握る力すら湧かない。
すると、目の前の男は空へと両手を突き出し言った。
「僕はね!醜くて、汚くて、哀れで、歪んでる、最低で、最高に狂った魂が大好きなんだっ!!!!」
それは、晴天に似つかわしい最高に爽やかに狂った満面の笑みだった。思わず、ある言葉が頭に浮かんだ。
「あんた、神なのに。とんだ、悪食だな」
そう言えば、目の前の神は更に笑った。
「その通り!今後は、保食神から悪食神とでも名乗ろうか」
その言葉に、思わず俺も笑った。
不意に、目の前に手が差し出された。
気づけば神は立ち上がり、此方を見ていた。太陽の逆光により遮られ、その表情は見ることは叶わない。
彼は、静かに言った。
「君の命は僕のものだ。愚かな亡者達は勿論のこと、例え君自身であれど、その命を奪うことは許さない」
囁くような声は穏やかなのに、それは張り詰めるような殺気を孕んでいた。
それは、絶対に破ってはいけない魂の誓い。
息を呑み頷くと、途端に空気は和らいだ。
「けれど、誓いの名において君は僕が絶対に守ろう」
言葉と共に傾いた顔に、太陽の光が差し込む。
「生涯にわたり、神の加護を与えよう。その命、貰い受けるまで」
それは、神に相応しい神々しい顔だった。
差し出された手に、己の手を伸ばす。
「これから、よろしく。黒木くん」
「これから、よろしく。神崎先生」
来たる日が訪れるまで、己の命を代償に。
こうして、この日、俺は神の手を取ったのだった。
*****
「ところで、黒木くん。保健室に行こうか」
「あぁ……、助かる。もう死にそうだ」
「それから、これからのことを一緒に考えよう。まずは、僕が職員会議に遅れた理由から!」
「…………は?」
どうやら、俺達の行く末は前途多難だ。
to be continued……?
お読み頂きありがとうございました!