9.強襲
頭部を失った体は、自分が死んだことすら気づかない様子で立っていた。しかし、糸が切れたマリオネットのように、突然力を失い、倒れた。
タロウは、何が起きたのか理解できなかった。ジンが死んだ。視覚情報として脳に取り込まれたが、脳の処理が追い付かない。
「てめぇぇぇ!」
アキトの叫びで、タロウは我に返る。ジンが殺されたこと、そして、恐ろしいモンスターが現れたことをようやく理解した。ヤバい敵が現れた。雰囲気だけでわかる。自分がどうこうできる相手ではない。『死』の文字が頭に浮かんだ。
「許さねぇ、よくもジンを殺したなぁ!」
アキトは憤怒の表情で右手を突き出した。その手には、紫色の宝石がある。そして、宝石が黒いオーラを放ち、アキトがそのオーラに包まれる。
何かが起ころうとしている。タロウは、固唾をのんで見守ることしかできなかった。
アキトが、タロウを見て、にやりと笑った。
「タロウ、俺は力を感じるぜぇ。これで、ジンの仇を討ってやるんだ」
タロウはアキトに返事しようとした。が、口が渇いて、うまく言葉にできなかった。
アキトはクマに視線を戻す。そして、呪文を唱えた。
「“燃えろ!”」
爆ぜるような音がして、豪速の火球がクマに向かって放たれた。火球はクマに直撃し、体が火に包まれる。と同時に、発射の勢いでアキトは後方に吹き飛び、石像にぶつかった。
「大丈夫ですか!?」
タロウは慌てて駆け寄る。アキトは腹を抑えながらも、自信に満ちた表情で答える。
「見たか、タロウ。俺、魔法を使ったぞ!」
「はい。見てました! どうして、急に」
「それはだな――」
と言いかけたところで、気配を感じ、タロウは振り返る。クマが2人を見据えていた。火球によるダメージなど無かったかのようだ。
「嘘だろ……」とタロウ。
「へぇ」とアキトは口角を上げる。「おもしれぇ。倒しがいがあるじゃねぇか!」
そう言って、アキトは右手を突き出す。が、その顔に焦りの色が広がった。
「無い……」
タロウは、宝石が無いことに気づき、急いで辺りを見回す。見つけた。数メートル離れたところに転がっていた。その宝石が無いと、アキトは魔法が使えないと瞬時に判断し、タロウは、急いで宝石に向かって走った。
「タロウ!」
「わかってます!」
タロウは宝石に飛びついて、内野よろしくアキトに投げ渡そうとした。が、振り返った瞬間、タロウは愕然とした。クマの拳が石像ごとアキトの腹を貫いていた。アキトは魚みたいに口をパクパクさせ、言葉を失っている。
タロウは投げようとしたフォームのまま固まって動けなかった。また一人、目の前で殺された。
クマが手を引き抜く。そして、鋭い光を宿した瞳でタロウを睨んだ。タロウは動けなかった。蛇に睨まれた蛙の気分。
クマの手がかすかに動いた。
(死ぬ)
タロウは腕を十字にして体を縮め、想像を絶する痛みに備えた。――が、いつまで経っても、痛みはない。自分が死んでいることにすら気づかないのか。しかし、宝石の固い感触が、リアルであることを告げる。
タロウは恐る恐る目を開ける。クマが消えていた。
「あれ? え?」
混乱するタロウ。何が起きているのか、全くわからない。呻くアキトを見て、慌てて駆け寄る。
「アキトさん!」
「へへっ」とアキトは笑う。腹部を抑える手は血だらけで、血だまりができ始めていた。
「急いで処置しないと」
「処置って、お前、何をするんだ?」
「とりあえず、止血して」
「へへっ。止血してどうこうなる傷でもねぇよ」
「でも」
「いいんだ、タロウ。俺は今、最高に、幸せ、だからよぉ」
「幸せ、ですか?」
「ああ。俺は、ようやく、魔法が使えた。だから、この幸せな気持ちのまま、死なせてくれ」
アキトは笑っていた。その顔は、確かに死を恐れている人間のそれではなかった。
「なりたかった冒険者になれて、使いたかった魔法が使えて、これ以上、望むもんはねぇ」
「アキトさん……」
「ただ、この最期は、あまりにも痛すぎる。幸せな気持ちも、ふっとんで、しまいそうだ。だから、お願いがある。俺に、あの本を読ませてくれねぇか。あれで、俺は笑顔になれるんだ」
「本? 笑顔……」
タロウは、以前、アキトに見せてもらった本のことを思い出し、アキトのリュックの中から分厚い革の本を取り出した。
「すまねぇ、開いてくれ」
タロウは、言われた通り、アキトのそばに本を置いて、ページをめくった。アキトは「へへっ」と笑いながら、その本に目を通す。薄暗くて読めているのかわからない。それでも、アキトは楽しそうに笑い、震える手でページをめくった。
「タロウ、すまねぇ。付き合わせちまって」
「いえ、そんな、アキトさんのせいではないです。俺が勝手についてきただけですから」
「へへっ、タロウ、へっ、辛かったら、へへっ、こいつを読へ、へへへへっ、へっと、おまへも、へへへへ、へはっ、はははっ、ひゃははははっ、ひゃはははははは」
タロウは息をのむ。アキトが狂ったように笑いだした。いや、狂いだした。アキトは腹を抑え、とにかく笑っていた。面白いことなんてないはずなのに、腹から血がこぼれることも恐れず、笑い続け、洞内にアキトの狂騒が響く。
タロウは、変わりゆくアキトの姿を見ていることができず、その場に座って、耳を抑えた。雷を怖がる子供のように、暗闇の中でじっと耐えた。
――そして、再び目を開けたとき、目の前には、動かなくなった、アキトの姿があった。
「アキトさん」
声をかけてみる。しかし、返事はない。アキトがどうなったかは確認するまでもない。
タロウはため息を吐くと、立ち上がって、ジンのもとに向かう。ジンの安否も確認するまでもなかった。引きちぎられた頭部と対面する勇気はなかったから、その体だけ持って、アキトの隣に並べた。何となく、そうすべきだと思った。
石像の足元に寝転がる2人。タロウは少し離れたところに座って、2人を眺めた。
アキトとジンが死んだ。タロウにとって恩人でもある2人が死んだのに、タロウは取り乱すことなく、2人を見ていた。なぜ、こんなにも冷静なのだろう。タロウは少し考えて、答えがわかった。それは多分、最初からこうなること、つまり、みんな死んでしまうことがわかっていたからだ。
(じゃあ、何で来たんだよ)
タロウは自問する。答えはすぐに出た。
(死にたかったんだよな)
一人で死ぬ勇気はない。だから、仲の良い2人と一緒に死のうと思って、ここに来た。アキトとジンには申し訳ないが、最初から宝が見つかるとは思っていなかった。集団自殺者的発想でついてきただけだった。
(最低だな、俺)
自殺のために2人を利用した。そんなクズ人間だからこそ、死んだ方が良い。だから、死んだことすら気づかないくらいあっさり死にたかった。この場所ならそれが起こり得る。しかし皮肉なことに、最後まで生き残ったのは、タロウだった。
(やっぱり。希望なんてもつもんじゃないね)
どれだけ願ったところで、夢や希望は叶ったりしない。抱くだけ時間の無駄であることを学んだ人生だった。
(それにしても、どうして、あのクマは俺を襲わなかったんだ?)
タロウは右手の硬い感触を確かめる。思い当たるものといえば、この宝石くらいだ。この宝石を捨てれば、あのクマに襲われる。しかし、アキトの最期を見て、手放す勇気は起きなかった。死ぬなら一瞬が良い。
(けど、これからどうする?)
一人でこのダンジョンを攻略する自信はないが、この場所にとどまっていたところで、餓死するだけだ。苦しみながら死にたくはない。それなら、宝石を手放して、クマに襲われる方がマシだ。
そのとき、アキトの本のことを思い出した。アキトのそばにあって、開かれたままの革の本。読者が発狂すると言われているその本を読んで、確かにアキトはおかしくなった。
(……読んでみるか)
自我を失うことができるということは、『死』に対する恐怖心も失うことを意味する。それは幸せなことなのかもしれない。
タロウは本を拾って、冒頭から文章を目で追った。知らない言語で書かれていて、内容はわからない。だから、小難しい論文や文学を読んでいる感覚にはならない。とにかく、文字という視覚情報を頭の中に流した。
全然、発狂する気配が無い。脳は、視覚情報を適切に処理しているように感じる。それでも、いつか発狂し、自我を忘れるようになることを信じ、ページをめくり続けた。
ふと気づいたら、白い空間に立っていた。
「どこだ、ここ?」
ついに、発狂の境地に至ったか? そんな風に思った瞬間、人の気配を感じて、振り返る。
老人が立っていた。仙人めいた服を着て、ヤギ髭を生やした男だった。老人は、タロウを見て、にやりと笑った。
「我が名はアルケミア。お主に、生命誕生の神秘を教えてやろう」