ベランダ。そして、ビター・ミルキーウェイ
人生は出会いの連続である、とはよく言われた言葉ではあるが、中でも人生を決定づけるような出会いを、人は『運命的な出会い』と表現する。
運命的な出会いとは概して素晴らしいものであり、人は皆、運命的な出会いを求めずにはいられない。
しかし、運命的な出会いというものは、既に幸せを享受している者には決して訪れることはない。満ち足りた生活はある種の盲目的倒錯を生み、出会いもまた軽んじられる存在の一つとなる。出会いを軽視する者は、出会いに感動することもないだろう。
逆に出会いに価値を見出だす者、つまり人生に何かしらの不満や絶望を抱いている者にとって出会いの一つ一つは自身の現状を変えうる好機であり、心を揺さぶるものだ。
人生を大きく好転させてくれた出会いを、人は運命の出会いとして脳裏に刻む。
後の記憶に残るほどの出会いとは、むしろ己の不幸を呪いながらも抗い続ける者に与えられる救いなのかもしれない。
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十八の春。俺は滑り止めとして入学資格を持っていた大学に通うため、親元を離れることになった。
新しく住む町は都会とも田舎とも言いがたい中途半端な印象を受けた。その中途半端さが、自身のコンプレックスを刺激する。数ヵ月前まで想い描いていた、鮮やかな新生活には相応しくない風貌の町を歩く自分が凄くみっともなく感じた。
大学での活動が始まっても、心に重くのしかかる嫌な感じが拭われることはなかった。心を許せるような居場所がなかったことが一番の原因だと思う。友人や恋人、サークル。そういった今の自分にとって一番必要な存在をこの望まない環境でゼロから揃えなければならないという事実が俺には耐えられなかった。新入生同士の絡みで会話することもあったが、どこか噛み合わない感覚を抱えながらのトークで、ストレスだけが溜まっていった。次第に入学当初につるんでいた彼らとも疎遠になっていった。
元々趣味だった天体観測ができるサークルを探したが、残念ながらそういったコミュニティは見つからなかった。やはりここに俺は来るべきではなかった、と大学の環境に見切りをつけてからは授業に出席する目的でキャンパスに出向く時以外はずっと下宿先のアパートの一室に籠っていた。昼間は適当に見繕ってきた小説を読み、夜になると望遠鏡をベランダに出してレンズを覗いていた。本当は観測に適したアパートの屋上を使いたかったのだが、どうやら使用を禁止しているらしく屋上に繋がる扉には鍵がかかっていた。とはいえ、この町にやってくるまではそこそこの都会に居たために、ここから見える宙と星は今まで見ていたそれとは大違いで、このベランダから宙を眺めている時だけが、心が休まる時間だった。
その日もいつもと同じように宙を見ようと、ベランダの掃き出し窓に手をかけた。窓を開けた途端、匂い慣れない煙のような香りが鼻の奥を刺激する。
(……タバコか)
どうやら隣人がベランダで煙草を吸っているらしい。実のところ、個人的には煙草があまり好きではない。あの、ツーンと鼻を刺す匂いがどうも苦手だ。これからのことを考えると、このタイミングで今後はベランダでの喫煙を控えてもらうよう掛け合ってみるべきではないだろうか。こういった場面に出くわすのは初めてで、見知らぬ他人に注意しに行くのは気乗りしないが、これから4年もの間我慢し続けるよりはマシだろう。そう結論付けると抱えていた望遠鏡を持ち直し、下履きを履いて外に出る。
「こんば…」
挨拶をしながら隣のベランダを覗くと、そこには煙草を片手に、手摺にもたれる女性が一人、キョトンとした顔で立っていた。彼女はタンクトップにホットパンツという出で立ちだった。スラッとした肢体を持ち、腰まであると思われる黒髪が肩から零れ落ちている。
…こんなに綺麗な人でも煙草、吸うんだ。それが彼女に対して抱いた第一印象だった。想定外の相貌に一瞬頭が真っ白になり、言いかけていた挨拶の言葉が空中分解しかけたが、
「…んわ」
気合いで言葉を紡ぐことに成功する。
「まだ春なのに暑いですね」
動揺を隠すために咄嗟に思いついた言葉を口にした。しかしその後すぐに、煙草を止めさせる目的で話しかけた筈が、何故か世間話を始めようとしてしまった自分に気づいて心の中で舌打ちする。
彼女は少し考えるような素振りを見せながら、おっとりとした声で応える。
「こんばんは。そうだね。最近いきなり暑くなったね。あなた、新しく入ってきた学生さん?」
「そうなんです。自分、月始めに隣に越してきた近藤ハヤトっていいます。これからよろしくお願いします」
彼女は俺の挨拶代わりの言葉からなにか可笑しさを感じ取ったのか、ニヤニヤしながら
「ハヤトくんね。私は江夏マイっていうの。こちらこそよろしくぅ」
と、どこかおどけた調子で自己紹介を済ませた。
それから手に持っていた煙草を口に運ぼうとして、罰が悪そうな顔をこちらに向ける。
「もしかして、ハヤト君ってタバコ苦手だったりするのかな?」
勿論、答えはYESだった。が、その時突然頭に浮かぶ、彼女に嫌われたくないという意志によって、本心とは裏腹の言葉が口をつく。
「…いえ、得意も苦手もないです。まだ未成年なので吸ったことはないんですけど」
「そっかあー!良かったあ!私、この時間になるとこれが吸いたくなる時ちょくちょくあってさー。お隣さんが嫌煙家だと困るな~って、思ってたんだよねー」
うんうん、と彼女は嬉しそうに頷きながら、煙草を口に咥える。そして数秒後、フゥーッ…とついばむように尖らせた口から白い煙が吐き出された。煙が部屋の明かりに照らされて宙に登っていくのが見えた。
このまま棒立ちのままでいるのもおかしいと思い、望遠鏡のセッティングを始めると声がかかる。
「天体観測が趣味なの?洒落てるね」
「そんなんじゃないですよ、僕なんか全然にわかです」
そんなやり取りをしながら遠く微かに見えるアンテナでファインダー合わせを済ませる。
「この季節は何が見えるの?さそり座とか?」
「さそり座は夏の星座ですよ、小学校で習いませんでした?」
「んー、随分前のことだから忘れちゃった♪」
「…春に見える星座は乙女座とか、しし座が有名ですね。夏の大三角ってあるじゃないですか、あれの春バージョンが今のシーズン見え頃なんですよ」
ファインダーを利用して、いつもの手順で導入を行う。レンズを覗くと青白く輝く宝石のような光が見えた。運用している望遠鏡が安物のために星が特別良く見えるというものではないが、レンズを通して星を見る瞬間に感じる、美しさを独り占めしているかのような充足感に少しの間酔いしれる。
毎日の、こうして星を眺めている瞬間だけは、心の隅に巣食う大学生活へのやるせない気持ちから解放されることができた。日が沈んで、床に就くまでのほとんどの時間はベランダにいる。柵で囲われ、アスファルトが敷かれただけの我が家のベランダは外界との交流を断ちつつも、一方的に外界を観測できるという意味でとても安心できる居場所だった。そしてこの、心を守る最後の砦だけは絶対に失いたくないという意地が、自らをベランダに縛りつけていた。しかし、この生活をあと4年も続けることに不安もあった。今のところ天候に恵まれているのでこの習慣を続けられているが、今後曇りや雨で観測ができない日は勿論出てくるだろう。一日二日なら耐えられるかもしれないが、それ以上となるとヘタっていく精神がどうなってしまうか、検討もつかない。それに、もし仮にこの先自分が天体観測に飽きてしまうことがあったとしたら…?
「ねぇ、何みてるの?」
マイさんから、突然声がかかった。すぐ隣に気配を感じ、顔をあげる。丁度マイさんが足をかけた手摺から身を投げ出したのが見えた。呆然としているこちらをよそに、シュタッっという効果音が聞こえそうな軽やかな着地を決めるマイさん。
「…」
「だから、何みてるのって」
あまりの驚きに、変な声が出そうになるのを抑えるので精一杯だった。質問には答えず、掠れた声でマイさんがこちら側にいる訳を問う。
「もしかして、手すりを伝ってきました…?」
「? …そうだけど?」
マイさんは首を小さく傾げた。何にそこまで驚いているのか検討もつかない、そんな顔をしている。こちらの肝を一方的に冷やしてきた行いに全く反省の色を見せない。そのことに少し苛立つ。
「そうだけど?じゃないでしょう!?ここ5階ですよ!何かあったら大変じゃないですか!」
「大丈夫だよ。私、身のこなしには自信あるの♪」
「…そういう問題じゃないんだけどなぁ」
彼女の規格外な言動を目の当たりにして、唖然や怒りを通り越し、最早呆れてしまう。
そういえば、ここまで何を考えているのかわからない人に初めて出会った気がする。世にいう天然ってやつなんだろうか。ふと、先程された質問を思いだし、失礼にならないよう返答をする。
「…いま観てるのはさっき話した春の大三角を作る星の一つ、スピカです。マイさんも覗いてみますか?」
「うん!」
マイさんと場所を交代し、レンズを覗くよう促す。彼女がレンズの高さに合わせるために前屈みになると同時に髪がハラリと肩から流水のように垂れた。
「え~!すっごいキレイ!!真珠みたいにキラキラしてるね…」
マイさんが黄色い声をあげる。どうやら感動に足るものだったらしい。他人に自分の好きなものを認めてもらったという事実に俺は少し気分を良くする。
「マイさん、いいセンスしてますね。スピカは別名真珠星って呼ばれてるんですよ」
「ん~、ロマンチックだね…」
マイさんが目を輝かせてレンズを覗き込んでいるその姿をみて、心がソワソワしだすのを感じ、思わず目を背けた。
数分後、「キレイだったあ」という声と共に彼女は顔をあげた。
彼女の姿を改めて見て、ふと、学校以外の場所で初めてこの町の人と喋っていることに気づいた。
「あの、ここに越してきた時に思ったんですけど、この町って本当になにもないですよね」
「そう?ハヤト君が知らないだけで色々あるよ、コンビニとかガソリンスタンドとか… そうだ、ハヤト君って本好き?この町にはね、結構大きな市民図書館もあるんだよ」
「…いや、全然町のアピールになってませんよ、それ。図書館はともかく、コンビニとガソリンスタンドなんてどこにでもあるじゃないですか…」
「えー、ガソリンスタンドって重要なんだよ。田舎だとガソリン入れるために家から何十キロ先のスタンドまで行かないといけないこともあるんだから。ところで、ハヤト君はこの町のことあんまり好きそうじゃなさそうだね」
「そうですね、僕はここに来たくて来たわけじゃないので」
「行ってる大学、来たいところじゃなかったんだ」
「はい。…今の大学は滑り止めでたまたま受かってたんです。本命が駄目だったんで、こっちの大学へ入学することに決めました」
話していて、あの悪夢のような日のことを思い出す。破裂しそうなほどに強く鼓動する心臓。周囲から突き刺さる奇異な視線。泥水を吸って、びしょ濡れになった靴とズボン。脳裏にこびりついた記憶の残滓があの時と同じように体を冷たくしていく。
マイさんは俺の言葉を聞いて、頷いた。
「そっか、それは凄くしんどかったんだよね。…ハヤト君は今でも苦しいんだよね」
俺の日々の苦痛を見通したかのような優しい言葉を投げかけられて、少しドキリとする。しかし、すぐにこの辛さを彼女には理解できるはずがないという謎の自信が彼女からの優しさを突っぱねる。
「いや、よくある話ですよ。マイさんは僕と同じような経験でもあるんですか」
「私は大学受験に失敗した経験がないから、ハヤト君の気持ちはちょっとわからないかも。でも今のハヤト君の辛そうな顔見てると、どこか放っておけない気持ちになる。その痛みを私にも教えてほしい、一緒に背負ってあげたい、って思うんだよね」
彼女の言葉を聞いて、手を顔に当てる。自分では気づかなかったが、確かに自分の顔がいつもに比べて歪んでいた。初めて会った男の機微な変化を読み取った、彼女の観察眼に驚く。しかし、それよりも彼女の慈愛に満ちた言葉には驚きを通り越してうさん臭さを感じていた。先ほど自己紹介したばかりの相手に対して一緒に痛みを背負ってあげたい、なんてとてもじゃないが心から言える訳がない。マイさんはきっと適当に話を合わせてくれているんだろう、そうに違いない。そんな猜疑心がこれ以上自身を傷つけないよう、心に蓋をしようとするが、心の底に芽吹いた彼女を信じたいという想いがそれを邪魔する。表情を隠すために伏せていた顔を少し上げて、おそるおそる彼女の顔を見た。
彼女の目が、まっすぐに俺を見つめていた。その真摯さと優しさのこもった瞳が、さっきの言葉が本心であることを俺に気づかせるのに時間はかからなかった。冷え固まっていた心が、その優しさに触れて融け始めていくのを感じた。
俺は親にも話してこなかった、今まで抱え込んできた自分の想いを少しずつ口にしていった。
「…人一倍頑張ってきたんですよ。もちろん、受験生がみんな頑張ってるのはわかっています。でも、自分の行ってきた身を削るような努力に僕は自信を持っていました」
彼女は時折相づちを打ちながら、真剣に俺の話に耳を傾けている。
「…でも入試当日。僕、熱出しちゃったんですよ。もちろん、熱を理由に入学試験を辞退するわけにはいかなくて、体を引きずって会場に向かいました。」
「その日は雪が降っていて、凄く寒かったのを覚えています。道中、体を冷やさないようにするので必死でした」
「ところで、悪いことってわりと連続して起こるんですよね。途中に乗った電車内で鞄を漁ったときに、それが自分が持ってくるべきものとは違うことに気づきました。熱に浮かされた頭で支度したせいで、鞄を取り違えてしまったんです」
「僕は慌てて来た道を引き返しました。今にも倒れそうな体に鞭を打って、家と駅を無我夢中で往復しました。」
「そしてなんとか試験開始時刻ギリギリに間に合う電車に駆け込んだ時、頭が割れそうなほど痛くて、意識がとびそうになるまで悪化していた自分の体調で受験の失敗を悟りました。おまけに走っている最中、雪が融けてできた水溜まりに足を突っ込んだせいで身体中泥だらけで、車内にいる人達からの目線が凄く辛くて。電車に揺られながらずっと思ってました、俺何やってるんだろうって」
「その後、自分が不合格であることを知ったとき、受験に失敗した悔しさを感じるというよりは運命の理不尽さに対して無気力さを覚えていました。家族や先生方には浪人することを勧められたんですけど、来年自分が合格している姿を思い描けなくて、断りました。またあんな惨めな思いをするのは嫌だし、受かる保証なんてどこにもありませんし」
そこで、俺は話を切る。
「多分、これはよくあることなんですよ。受験に成功するはずの学力を持った人間が、運悪く受験に失敗するなんてことは。僕が今でも過去のトラウマに囚われているのはただ僕の心が弱いだけですけど、こればっかりは時間が解決するのを待つしかないと個人的には思ってます」
ハヤトくんにはそんなことがあったんだ、とマイさんは小さく何度も頷いた。
「私もハヤトくんの言うとおり、大抵のことは時間が解決してくれると思う。でもハヤトくん、本当は今すぐにでも感じてる辛さから解放されたいんだよね?」
「それは、そうですけど…」
俺の呟くように口をついて出た言葉を聞いたマイさんは、俺の肩に手を置いて小さく微笑みを浮かべた。
「ハヤトくんはきっと優しい子だから、自分を責めちゃうんだよね。辛いことがあったら人に打ち明けてもいいんだよ。そんなに一人で背負い込まなくていいんだよ」
俺に向けた彼女の、その一言一言が俺の耳を通って胸に届く。確かな温もりを持ったそれは、空いた孔から俺の心臓に沁みていった。心臓が脈動する度に温もりが体内を循環し、冷えた身体は熱を取り戻していく。
こんなにも、他人に親身にしてもらった経験は今までなくて、今ある感情の吐き出し方がわからなかった。感情の高ぶりと共に伝う熱が目の辺りまで届く気配を感じる。ここで涙を見せたら、きっとマイさんに迷惑をかけるだろうと思って、必死に堪えようとした。しかしそんな俺の強張る顔を見て、辛かったら辛いって言っていいんだよ、泣きたいときは泣いたっていいんだよ、と言いながら抱き締めてくれるマイさんの肌の温もりが、俺の感情を塞き止めていた心のストッパーを優しく外した。胸の中から溢れる温かいものが臓器を満たし、逆流してくる。それは涙となって身体の外にこぼれ出した。
ぼ、僕は、今まで必死にがんばってぎたんですよ…。
うん。
でも、うまぐいかなくて、これからどうしたらいいかも、よぐわからなくて…
うん。
受験が、おわってがらは、ほんとうは、まいにちすごくづらかったけど、どうしようもないとおもっで、これいじょう父や母にはじんぱいかけれないし、だれもきもちわかってぐれなくて…
喋ってるうちに涙と嗚咽が止まらなくなった。感情が定まらず、言葉が続けられなくなる。それから数刻の間、俺は部屋の明かりに照らされたベランダで、マイさんに包まれながら泣いた。泣き止むまでずっと、彼女は俺の背中をさすってくれた。
ようやく気持ちの整理がついた頃、見知らぬお姉さんに抱きしめられている現状に気付く。彼女の女性的な体の柔らかさと煙草の香りに混じる甘い匂いに少しドギマギして、そっと彼女から離れた。
「すいません、変な所、お見せしてしまって」
「全然!…望遠鏡、またみに来ていいかな」
「もちろんいいですよ」
「っ、ありがと!」
俺の返事に満足したのか、マイさんは満面の笑みを浮かべ、そのままウチの玄関を通って自室へ帰っていった。
それからマイさんとの交流が始まり、ほぼ毎日のようにベランダでのお喋りが続いた。ベランダから仄かに香る煙草の煙が星見会の始まりの合図だった。
「おっ!、来たね。私が、話し相手が欲しいな…って思ってたところにやって来るとは、ハヤト君は気が利くな~」
その日も、隣のベランダには煙草を片手に黄昏ているマイさんの姿があった。丁度吸い終わったのか、彼女は側にあった、灰にまみれた空き缶に吸い殻を放り込む。
「それにしても毎日観測だなんて、君は本当に星空が好きなんだね」
「こんばんは、マイさん。…そうですね、星空って見慣れててもずっと綺麗に感じるというか、色褪せない美しさみたいなものがあって。それが忘れられなくて、毎日ついつい観測しちゃうみたいなところあります」
「わかる!星空っていつ見てもキレイだもんね」
マイさんは、同感!とばかりに大きく頷いた。そして俺の手元を一瞥して、浮かんだ疑問を口にする。
「そういえば、今日は望遠鏡を持ってないんだね」
俺は、彼女が自身の些細なところまで見ていてくれている、という事実に内心嬉しさを感じつつ、質問に答える。
「今日は、なんとなく星じゃなくて星座を見たい気分だったんで、望遠鏡は中に置いてきました。マイさんは、星座に興味はありませんか?」
俺のその一言に、マイさんはなにかを思い返すような表情をした。
「星座かぁ。そういえば昔プラネタリウムで星座の解説?みたいなの聞いたことあったなぁ。でも私、いつも途中で寝ちゃってたせいか、あんまり記憶に残ってないかも。導入とか、凄くワクワクして聴いてるのに、いつの間にか…って感じで。ナレーターさんの朗読が心地よすぎるのも問題だよね!」
「わかります。プラネタリウムって、凄く寝心地がいいんですよね…」
「そう!だから星座の解説、一度しっかり聴いてみたいって気持ちはあったりするかな。ねぇ、ハヤト君のオススメの星座のお話、聞かせてよ」
「オススメ、ですか…」
一瞬考えたのち、
「大熊座、とか」
いくつか知っている話の中から、彼女が楽しんでくれそうな神話をチョイスする。
「くま!」
彼女は声をあげると同時に、爪を立てた両手を顔の横まで持ち上げ、熊のポーズをした。しかし、勝手にやっておきながら心の内では恥ずかしかったのか、すぐに手を下ろしてしまう。そして照れ笑いを浮かべながら、いいねと言って親指を立てた。
「大熊座のお話、きかせて!」
「はい!えっと。まずは折角なんで大熊座、みつけましょうか。あのアンテナ塔を辿ったずっと上の方に、明るい星がたくさんあるのが見えますか?星を結ぶと、柄杓のような形になると思うんですけど…」
俺の言葉に従って星を辿るマイさんを待っていると、ベランダの下の方からスパイスの香りがしていることに気付いた。どうやら床下の部屋に住む住人の夕飯はカレーらしい。カレーなら簡単に作れるし、今度一度作ってみてもいいかもしれない、などと考え事をしていると、宙を見ていたマイさんがこちらに向き直った。
「うん、あるね」
「あれが北斗七星です」
俺のその一言を聞いた彼女は、どこからかフムフムという声が聞こえてきそうな顔つきで、
「あれが、あの有名な北斗七星なんだね。関係ないけど、北斗って聞くとさ…」
と、そこで一度言葉を切り、喉の調子を気にし出す。俺は不思議そうな顔で彼女の言葉を待っていると、彼女は渋めな顔を作って、
「お前は、もう死んでいる…」
と、ボソリと呟いた。
俺はいきなりの声真似に言葉を失う。
「どう!似てた!?」
マイさんは目を輝かせて、俺に感想を求めてきた。正直なところ、全くと言っていいほど似てなかったが、期待でキラキラとさせる彼女の瞳の前では、そんな残酷なことを言えるはずがなかった。
「…え、ええ!そっくりすぎて、本物かと思っちゃいましたよ!」
彼女は、でしょー?と言って、俺の忖度を真に受けて満足げな顔をしていた。マイさんは今回のような、唐突な天然ボケをかますことがまれによくある。その度に俺は気を使うハメになっていて、気苦労が絶えない。正直なところ面倒くさいとも思わなくもないが、まぁ、これもマイさんらしさなのかなと折り合いをつけている。
「某世紀末救世主ですよね。世代じゃないから、僕はあんまり詳しくないんですけど」
「まぁ、私もあんまり知らないんだけどね!」
何故かドヤ顔で無知を誇るマイさん。
「…」
折り合いをつけているとはいえ、面倒くさい時は面倒くさいと感じてしまうのが人間というものだった。
「…大熊座の話でしたね。実は北斗七星は大熊座の一部なんです。北斗七星は大熊の背中から尻尾に当たっていて、その周りに頭だったり手足だったりを担う星があって…」
俺の言葉を受けて、マイさんは目を凝らすように宙を眺める。
数分後、諦めたように視線をこちらに向けた。
「んー、私の目で熊を見つけるのはちょっと難しいみたい。ところで気になったことがあるんだけど、北斗七星が尻尾、なんだよね?…ちょっと長くない?熊の尻尾ってお饅頭みたいな見た目で凄く短いはず…」
「えっと、それは大熊座の神話が関係してるんです。神様が尻尾を掴んだ際に伸びちゃったんだとか」
「うーん?」
マイさんは首を傾げる。彼女の疑問を解消するためには、ここで一度大熊座の神話をザックリ説明した方が良いだろう。
「…じゃあ、ここからが神話の話です。実はあの熊は元は女性なんですよ。」
マイさんは俺の語りを聞くにあたって、楽な体勢をとろうと、手摺にもたれ掛かるような形で座り込んだ。彼女の頭だけが、手摺越しに見えている。
「ある時、彼女の美しさに惹かれた神々の王ゼウスが彼女に近づき、身籠らせてしまいました」
「い、いきなりの急展開だね!?」
彼女のうわずったような声を聞いて、こっちもちょっと動揺してしまう。
「ま、まぁ、神話ってこういうの多いんですよね。…彼女の主人アルテミスは、以前交わした処女の誓いを破ったことへの罰として、彼女を醜い熊の姿に変えました」
語っている途中に、ふとベランダの向こう側へ目を向けると、遠くのアパートの一室に小さく明かりがついたのが見えた。数秒後にはカーテンが閉ざされ、漏れでる微かな明かりだけが残る。
彼女は静かに俺の話に耳を傾けていた。
「彼女はその後にゼウスとの子を出産します。しかし、姿が熊のままでは育児ができないことに気づいて、子を置いて森に帰るしかありませんでした」
「時が経って、子はたくましく成長しました。ある時、彼はいつものように森へ狩に出かけると大熊に出会いました。姿を変えられた彼の母でした。成長した息子に会えたことに感激する母とは対照的に、その熊が母であることを知らない子は獲物目掛けて槍を構えます」
「その時、突然の旋風が二人を襲いました。この突風は、父であるゼウスによるものでした。陰ながら彼女たちの様子を見ていたゼウスは、母を殺させまいと子の姿を熊に変え、それから二人の尻尾を掴んで宙に放り投げました。こうして二人は星座となって親子一緒に暮らせるようになりました。めでたし、めでたし」
「悲しい、話だね」
俺の話をさっきまで静かに聞いていたマイさんが、ポツリと呟いた。
「…親子の二人が本当に望んでいたことって、星座になって二人で仲良く暮らせるようになることだったのかな。ゼウスやアルテミスによって選ばれた運命を歩まされて、それで…満足だったのかな」
「…そうですね」
俺には、彼女がこの神話に対して具体的にどのような感想を抱いているのか、わからなかった。ただ、彼女がこの話に対して、深く思うことがあるらしいことだけは、なんとなく察することができた。
マイさんは立ち上がり、星座の由来って面白いね、と言いながら背伸びをした。シャツが体に張り付き、伸びた生地によって圧迫された胸から腰辺りのシルエットが浮かび上がる。その姿を見て、初めて会ったときに感じた、彼女の柔らかさが脳裏に甦る。俺は慌てて、目をそらした。彼女はそんな俺の気も知らずに、笑って感謝の言葉を口にする。
「星座の話、面白かったー。ありがとうね」
「いえいえ」
俺はふと目に入った、掃き出し窓の向こうにかかってある時計で、結構な時間喋っていたことに気づく。
「…申し訳ないんですけど、僕はそろそろ部屋に戻ろうと思います。授業で出た宿題、あるんで」
マイさんは少し残念そうな声で、
「そっか。じゃあ、また今度。おやすみー!」
と、別れの挨拶をくれる。
「はい、おやすみなさい」
互いに手を振り合って、別れた。
部屋の掃き出し窓の開閉のあとに、カーテンがかかる。
二人がいなくなったベランダには、階下から聞こえる、晩餐を楽しむ親子の笑い声だけが残っていた。
その日はまだ六月とは思えない暑さで、外へ出ただけで汗ばんでしまうような熱気が町に満ちていた。夏が近いのか最近観測中蚊に噛まれることが多くなり、用意した蚊取り線香をベランダで焚く。煙草と線香の煙が夜空に交わるように融ける。俺との雑談が一区切りついたのを見計らって、マイさんが俺に質問を投げてきた。
「ねえ、ハヤトくんは彼女とかいないの?」
「何ですか、いきなり?」
動揺したのがバレないように少し口調きつめで相づちを打つ。
「だっていつもこうやって私とお喋りしてくれるし?夜に遊ぶ相手とかいないのかなーって」
「…恥ずかしい話、彼女どころか友達も居ません」
俺の告白を聞いたマイさんは、見るからに地雷を踏み抜いてしまったかのような青い顔でこちらに視線を向ける。
「…ごめんね」
「全然大丈夫ですよ、気にしていません」
「でもハヤトくんは良い子だから、友達の一人や二人くらいいると思ってた」
「大学デビューに失敗しちゃったんですよね。どこのコミュニティにも属さずにいたら、気づいたらボッチでした」
俺の言葉に対して、マイさんは手元の煙草を弄りながら、
「そっかあー、でも私も今はボッチだからボッチ仲間だね」
と少し嬉しそうに返した。
気さくで見た目も悪くない彼女に彼氏どころか、友人さえいないという事実に俺は少し驚く。
「そうなんですか、意外ですね。それこそマイさんなら職場に友達100人くらいいそうなのに」
「私結構マイペースな性格でさ、結構お仕事現場で迷惑かけちゃって顰蹙買っちゃうんだよね。他にも色々と…」
マイさんの持つ煙草の先から灰が落ちる。俺は返す言葉がなくて、月に照らされた、眼下に広がる町を眺めていた。なんとなく町外れにある、息を潜めたように小さく見える街灯に目がいった。
「マイさんはここにずっと住んでるんですか」
「うん、かれこれ8年は住んでるね。実は言いそびれてたんだけど、ハヤト君の大学のOBなんだ、私。ハヤトくんって◯◯大学だよね?」
「そうですそうです、へぇ…」
この町に来てから8年ってことは仮に現役で大学に入学してるとすれば、マイさんの今の年齢は26…。
「マイさんの大学生活はどんな感じでした?」
俺の質問を聞いたマイさんは、今までに見せたことのない笑顔で、
「んー、すっごい楽しかった。私演劇サークルに属してたんだけど、定期公演に向けて一生懸命頑張って練習する毎日だったな。しんどかったけど、サークルの人たちと一緒に作品を完成させる気持ちよさとか、公演に来てくれたお客さんから貰うメッセージに感動しちゃった経験とか忘れたくても忘れられない、宝物だね」
と、懐かしげに語った。
「演劇サークルなんてあるんですね。知らなかったな」
「ウチのサークルはスパルタ指導が行き届いているせいか、どの代も結構評判良いんだよ。もし興味あるなら、夏に定期公演があるから一緒に観に行こうよ」
マイさんからのお誘いに、心が独りでに踊り出すのを感じる。調子に乗って、気になったことを口にした。
「いいですね。ところで、マイさんが演劇サークルに入ったきっかけとかってなんですか?今も演劇とかやられないんですか?」
俺の言葉に、マイさんの動きが一瞬止まる。一時の沈黙の後、マイさんは苦笑いをして
「演劇を始めたのは自分じゃない何かになりたかったから、かな。今はお仕事が忙しくてちょっと、ね」
とだけ言って、煙草を咥えた。
その後はなんとなく喋り出しづらい雰囲気ができてしまい、一言二言喋ってマイさんとは別れた。
部屋に戻ると、つけっぱなしにしていたテレビから季節外れの台風のニュースが流れていた。
梅雨入りを迎えると、星見会の名目が失われ、マイさんと会う日が極端に減った。たまに晴れた日があってもマイさんがベランダに居ない日がほとんどで、そんな日は宙をただボーッと眺めることで心の隙間を埋めていた。雨の日が続いていたとある日に、自分の呼吸音だけが部屋に響いていることに気付いた。世界から切り離された部屋にただ一人でいるようなこの感覚は、マイさんと出会う前に毎日抱いていたものだった。このままでは惰性な日々を送っていた以前までの孤独な自分に戻ってしまうような、そんな気がした。次第にこの先いつまでマイさんと会えない日が続くのかを恐れるようになった。次の星見会では、ベランダ以外の場所で会えないか訊いてみるのもありかもしれない、とデートに誘うという決意を固めても、雨は一向に止む気配をみせなかった。そんなこんなで、この記録的な長雨が終わったのは七月七日の朝方だった。
夜の19時半頃、久しく嗅いでいなかった煙草の香りに気付く。慌てて望遠鏡を抱えてベランダに出た。
「お久しぶりです、マイさん」
「ん、久しぶり」
数週間ぶりに再会したマイさんはいつものように手摺に寄りかかって煙草を吸っていた。彼女が以前と変わらずに、そこにいるという事実が俺には何よりも嬉しかった。けれども心の隅では、常に纏っていた茶目っ気が身を潜め、今までにない面影でどこか遠くを見つめる彼女に嫌な予感を覚えずにはいられなかった。胸騒ぎを抑えて、この日にふさわしい話題を持ち出す。
「知ってますか、マイさん。今日は七夕なんですよ」
「ハヤトくん、それは私をバカにしすぎじゃないかな…。それぐらい幼稚園児でも知ってると思うよ!」
「いや、でもマイさん祝日とか全然把握してないし…」
「む、それはほら仕事の関係で祝日でもお仕事しないとだし…」
「あー、なんかすいません…」
久々に喋るマイさんとの他愛ない会話に喜びが抑えきれない。
「実はマイさんに相談したいことがあるんですけど、聞いてもらっていいですか?」
「あっ、私もハヤトくんに伝えたいことある」
「そうなんですか、じゃあマイさんからどうぞ」
「あのね。…私、この町から離れることになったの」
「え……」
あまりに突然の別れ話に思考が停止する。
「実はね。数週間前にお母さんから連絡があってね、私のお父さんもう限界みたいで介護が必要なんだって。私が付いてあげなきゃ生活できないって」
「…それは、大変ですね」
「そうなんだよね、だから職場の方にも退職届を出しちゃった。会社も私を厄介払いできると喜んだみたいで即日解雇。ちょっと寂しいね」
「…いつここを離れるんですか」
「明日だよ」
「……」
「だからハヤトくんとも会えるのも、今日で最後だね。この数ヵ月間は本当に楽しかった。大学時代に負けないくらい。ハヤトくん、ありがとうね♪」
言うべきことを言えてホッとした様子のマイさんとは真逆に、俺は猛烈な焦燥感にかられていた。嫌な汗が体から滲み出るのを感じる。理解できない、いや理解したくないマイさんの言葉が頭の中で反芻していた。何かに縋りたい一心で、彼女との繋がりを思い出す。
「…昔、演劇を観に行く約束しましたよね。あれは──」
「…ごめんね」
本当にごめん、と言葉を続けるマイさんの心底すまなそうな顔を見て何も言えなくなる。
「…」
「…」
二人の間に無言の間のようなものが生まれる。
このままではいけない、このまま別れてしまったら絶対後悔することになるということだけが分かっていた。そして俺が今言うべきことは何だろうかと必死に思考し、みつける。震える心を奮い立たせて、口を開く。
「…僕から一ついいですか」
「そうだったね、相談事があったんだよね。何だったのかな」
「本当は別の要件だったんですけど、気が変わりました」
「僕と、お付き合いをしてくれませんか」
「……」
先の言葉がトリガーとなって、マイさんへの感情が次々と溢れ出てくる。俺は溢れるそれを掬うようにして、マイさんに想いを伝えようとする。
「僕はこれからもマイさんと一緒にいたいんです。もっとお喋りしたいし、もっと…」
マイさんはすごく優しい顔をしていた。
「私のことを好きでいてくれるだなんて、凄く嬉しい」
「でもね、お付き合いはできないかな」
「…っ、どうして──」
「ハヤト君のことを大切に思ってるから、かな」
「……」
「…わかってくれるよね?」
「……」
「…最後に、星。二人で見たいな」
そう、マイさんが最後のお願いを俺にする。
目頭を抑え、涙を堪えて宙を仰ぎ見る。そこには、星々が幾万光年の時を経てつくりだした白き輝く大河があった。力を抜くと歪みそうになる口をきつく閉じながら、星をじっと眺めていると、いつしか宙に落ちていくような感覚を覚える。加速度的に星々に近づいていく過程で、星が放つ光は少しづつ伸び、光線となって自己を貫いた。光を浴びていくうちに、痛いくらいだった心のアツさが徐々に和らいでいく。宙から地球にいる自分を見つめ直すと、気づくことがあった。
彼女のことを一目見た時から好きだった。一目惚れだった。彼女と何度も会う度にもっともっと好きになっていた。いつしか天文観測と同じくらい、いや、それ以上の安らぎを彼女から得ていた。大学での授業中は夕刻が待ちきれなくてずっと彼女のことを考えていたし、ベランダでの会話を思い出すだけで大学生活への虚無感を忘れることができた。
でもそれは、今となっては彼女との思い出があったという事実でしかない。過去に彼女との交流があっただけの俺は、彼女自身のことをほとんどなにも知らなかった。好きな食べ物、余所行きの服装、家族関係、どんな辛さを抱えていたのか…。この恋慕は凄く身勝手で、一方的なものだった。そして、彼女との距離は出会った頃から1ミリも変わっていない。ベランダのこっち側と向こう側の境には、実は目には見えない大きな河が流れていて、俺はそれを越える努力をせず柵越しに彼女を見つめていただけだった…。
「…マイさん、最後にお願いを聞いてもらえますか」
「…いいよ」
「タバコを、一本頂けますか」
「…ん!吸い方、わかる?」
「ええ、ずっとマイさんが吸うのを、見ていたので」
柵の向こう側に手を伸ばし、煙草のパッケージとライターを受け取る。マイさんが吸っている煙草の銘柄はセブンスターだった。マイさんのことを何も知らない俺が、最後にマイさんの一番好きな煙草を知れたことが、とても嬉しかった。
煙草を口に咥えて、ライターで煙草の先に火を灯す。煙を吸い、吐く。初めて吸った煙草の味はとても苦かった。
俺が煙草を吸い終わったタイミングでマイさんが大袈裟ぎみに拍手をした。
「タバコデビューおめでと~!残りも全部あげちゃうね。タバコの似合うカッコいい大人になれるといいね」
「ありがとうございます。…いや、ありがとうございました」
「…こちらこそ今までありがとうね」
マイさんが顔を赤くしながら、ニッとはにかむ姿を見て、俺は今この瞬間に、このベランダで起きた全ての出来事が精算された、そんな気がした。もう、心に残る彼女へ伝えたい言葉は、今日の星見会を終わらせるいつもの挨拶だけだ。
「じゃあ… おやすみなさい。マイさん」
いつものように振る舞えてるかはわからない。でもマイさんは、今まで俺に元気をくれたのと同じあの笑顔で返事をくれた。
「うん。おやすみ!」
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マイさんとの出会い、あれから8年たった今日は偶然にも七月七日だった。
彼女と別れた後に、俺は演劇サークルに入会した。
マイさんが教えてくれていた情報と違わず毎日の練習は忙しく、肉体的にも精神的にも厳しいものだったが、そこで仲間と作る舞台の面白さを知る機会に恵まれ、残りの大学生活では演劇に没頭することになった。
あの充実した4年のキャンパスライフは間違いなく、マイさんによってもたらされたものだった。演劇をしていた時ふとした瞬間に考える、彼女と過ごした日々の中で俺は彼女に何ができたのだろうかという問いには、今でも答えはでない。
大学を卒業した現在は、縁のあった中小企業でしがないサラリーマンをやっている。毎日上司からぼろ雑巾のように扱われてこき使われているが、まぁうまくやれている方だと思う。
相も変わらず帰宅後にはベランダで天体観測をしていて、やはり俺にとっての癒しの時間になっている。例年通り、この日はいつもより早めに職場から引きあげてきた。女々しくて人にはとても教えられないが、実は毎年七夕になるとあの日もらった煙草(今では湿気て、まともに吸えたもんじゃない)をベランダで吸うのが習慣になっている。結局この歳になっても煙草の良さはわからなかったものの、ベランダで煙草を吸いながら見る七夕の宙はあまりに美しく感じてしまうという理由で続けている。
残された一本の煙草とライターを片手に、掃き出し窓からベランダに出る。煙草を咥えつつ、視線を上に向けるとあの日みた宙と変わらない美しい輝きがそこにあった。この先一年は見ることができないその景色をじっと目に焼き付ける。今年も織姫と彦星は再会できたのかな。年甲斐もないことを頭の片隅で考えながら最後のタバコに灯を着けた。