86 事態の急変と不思議な夢
王宮の回廊を慌ただしく人が行き来している。
「花が!花が足りません!」
「花だと?何を馬鹿な。この緊急事態に女のワガママなど捨て置け!」
焦った様子で喚く侍女と、たまたま通りかかって、侍女を窘める官吏。
「違うわ!王太子殿下のご命令なのよ!来月予定のパーティーを繰り上げて開くって」
「パーティーだ?!今、南部で反乱が起きているんだぞ?!」
官吏の顔が驚きに、次いで怒りに染まる。この緊急事態に、あの若造は何を考えているのか。彼が心中でとはいえ不敬に塗れた言葉を吐いたのは仕方がないだろう。
「そんなこと言われたって知らないわよ!私は命令されたの!」
ああ、花もないし音楽家も手配がまだなのよ!と、侍女は嘆いている。
……王宮は未だ混乱の中にあった。
その同じ王宮の王太子宮で。
ライオネルは、苛々を隠しもせずに来客を迎えていた。
「南部はまだ捨て置いて構わぬ。何度同じ事を言わせるのだ!」
ライオネルは考えたのだ。
遠く離れた南部で反乱が起きた。しかし、すぐに鎮圧に赴くべきなのだろうか、と。そもそも南部の民が蜂起したとはいえ、遠く離れた王都に団結して向かって来るのか。答は否やだ。蜂起したのは領民――烏合の衆であり、反乱と色めき立っているが、王家への反乱と決めつけるのは早計だ。牢に入れた南部出身貴族への反乱と考えるのが妥当ではないのか。
要は、ライオネルは南部へ鎮圧へなど行きたくなかった。それだけだ。
「そもそも、鎮圧に行けば来月のパーティーまでに帰って来られぬだろう。パーティーには、帝国の公爵令息も招いている。その席に王太子たる俺がいないとは、たかだか一地方の反乱ごときに手こずっていると示すようなものだ。とんだ面汚しとは思わぬか」
これがライオネルの言い分であった。
そんな王太子を、来客――王妃派の重鎮は内心で「このバカ王子!」と罵っていた。
南部には国の財源たる鉱山があるのだぞ!
あそこから産出される銀が、王都を養っていると言ってもいいくらいなのだ。それを奪われているというのに、パーティーがどうのこうのとは、このバカの頭には脳ミソの代わりに藁でも詰まっているのか。
ライオネルは、政治に関心が薄く、短気で耳に心地よい言葉を囁く者を好む――要は典型的な『バカ王子』で、傀儡として担ぐにもってこいな王族だ。
但し。
ライオネルは『バカ王子』は『バカ王子』でも、考える『バカ王子』である。
まさか南部に行きたくないからと、子供も呆れる屁理屈をこねてくるとは…
呆れ果てる重鎮だったが、彼は予想だにしなかった。『バカ王子』が言い訳にしたパーティー――『真夏の夜の夢』が、ペレアスの歴史に名を残すものとなるとは。
◆◆◆
「ライオネル様ったら、なかなか面白いことを考えるわね!『バカ王子』だと思ってたけど、見直しちゃった!」
そんな『バカ王子』を高く評価する奇特な娘が一人。王太子宮に与えられた自室のベッドに腰かけ、楽しそうにパタパタと動かして、ノエルは笑み崩れた。
紅い宝石――『賢者の石』で作り出したバケモノは失敗だった。学園に送りこんだ一匹はあり得ない魔力を持った少年に殺され、王宮内に放ったもう一匹は、王妃の光魔法で瞬殺されたという。結果、バケモノによる死者はメイドがたった一人。せめてその一人が、メイドではなく貴族であればよかったのに――
「過ぎたことを考えても仕方がないわね。ああ!もうっ、ライオネル様ったら本当にセンスあるんだから!」
小躍りでもしそうな弾んだ声音で、少女は『バカ王子』を褒めちぎった。
『バカ王子』が王都で国中の貴族を集めた大規模なパーティーを開く――警備の都合上、主力部隊が遠く南部へ出立できるわけがない。
「それに…」
ふと暗い声でノエルは呟いた。
「素敵な見世物になりそう!」
◆◆◆
シミ一つない木目の天井を、私はぼんやりと見上げていた。
頭を冷やそうと、自室――男子寮のアルの部屋に続く召使い部屋――に来たら、タイミング悪くグレンさんと鉢合わせし、左手のケガがバレて手当てされて尋問されてベッドに放り込まれて……今に至る。
左手は、案の定骨折していたらしい。包帯でがっちり固定され、さらに半ば無理矢理飲まされた鎮痛薬で頭がボーッとする。
ケガの影響だろう。耳元で柔らかな女の声が囁いているような、悲しげに歌っているような…何重にもぼやけて聞こえるそれはレクイエムか、耳鳴りか…。私はそっと目を閉じた。
次に目を開けたら、無人の回廊にいた。
冷たい石の列柱が立ち並ぶ灰色の回廊――見上げたら、天井はなくて、代わりに、まるで満天の星を散りばめたような不思議な闇がどこまでも広がっていた。
「…?」
知らない場所だ。コツン、コツン、と私の靴音だけが静寂な空間に響く。歩けども歩けども、人の姿も気配も感じなかった。
ああ…私、夢を見ているのかな。
でも夢なら、もっと楽しい映像を見せてくれたっていいのに。
そうなことを思ったら、夢だからか唐突に列柱の回廊が途切れた。その先が光が溢れるように明るくて、思わず私は足を速めた。
「わあ…」
さっきの殺風景な灰色の空間とはまるで印象の違う光景――
白亜の宮殿のテラスに私はいて。
目の前には満天の星空のもと、磨き抜かれた鏡のように凪いだ大きな湖がある。その中程には、緑の小島があって、薄紅の睡蓮や紫紺のグラジオラスが咲いている。彼方の湖岸には枝垂れ柳が、まるで釣り糸を垂れるかのように頭を垂れ、水面にその姿を映している。
ふと、その周りで白い飛沫が煌めくのが見えた。湖面は鏡のように凪いでいるのに、小さな水飛沫がまるで遊ぶように水面で跳ね踊っている。不思議で、幻想的な光景……
聞いて!お聞きなさい!
私の父はさざめく水を榛の木の若木で打ち鎮め
妹たちは腕に泡を纏わせて
睡蓮やグラジオラス咲く瑞々しい緑の島を優しく撫でたり
釣り糸を垂れる長いお髭の老いぼれ柳をからかっているの
誰かが耳元で歌うように囁いて。
どうかその指に私の指輪を嵌めて
私の夫になって
どうか共に宮殿にいらして
湖を統べる王になってくださいな
声と共に、私の左手が掬い上げられた。細い白魚のような手が、その薬指に銀のリングをそっと嵌める。薄闇の中でも強く燦めく紅い宝石を戴いたリングを。
「……え?」
左手が……
アナタガオウニ
真っ黒な鱗に被われて……
ワタシノカワリニ
指は長く鋭い爪に……
ケガレヲカブッテ
左手から肩、胸、そして全身を侵す……
「うわあああ!!!」
叫び声を上げて、私は飛び起きた。全身汗びっしょりで、心臓が奔っている。なんて夢だよ…。




