153 誤算
イカレ女はとりあえず放置することにした。…さじを投げた、とも言う。
「そのうち、投獄のち火刑にでもなるでしょう。私の出る幕ではありませんね」
まずは『おつかい』を片付けてしまおう、そう『ロザリー』は決心した。もともとそのために出張ってきたのだ。仕事しましょう。
「さて。《暗黒転…」
「隙ありーっ！」
闇魔法で転移しようとした矢先、顔を狙ったサイラスの拳をすれすれで避ける。
「…ッと。お行儀が悪い子ですねぇ」
間髪を入れず繰り出された回し蹴りを、軽く仰け反って躱して『ロザリー』は嘆息した。さすが魔物化しただけある。もう回復したのか。
「大人しくして下さい。《蝕》」
放った黒いドロドロは、
「《凍結》！」
サイラスの魔法ですべてカチカチに凍って無効化された。どうやら、呪いが解けたことで水魔法も使えるようになったらしい。…面倒だ。
「おまえ、ロイをどうした！」
サイラスが叫んだ。
…ああ、それで突っかかってくるのですか。
答える代わりに『ロザリー』はニヤリと嗤った。サイラスの表情が険しくなる。
（いいですねぇ…。怒り、憎しみ…やはり貴女は魔王様の見込んだ逸材です）
「消滅しました」
にっこり笑う。さあ…怒って、憎んで…
「おまえぇ！！！」
全身を竜の鱗で覆い、サイラスが『ロザリー』に駆ける。その手には竜の鋭い鉤爪。首筋に振り下ろされたそれを、咄嗟に長剣の鞘で受けた刹那、横っ腹を狙った蹴りが繰り出され、『ロザリー』は受け身を取りつつ、地を転がった。
紫水晶と空色が睨みあう。
「ふふ…少年の肉体ゆえでしょうか。貴女とやりあってみたくなりました」
嗚呼…なんという高揚でしょう。魔王様に差し上げるため傷つけないように、と思ってましたが、甘美な誘惑に抗えません！
「貴女の鱗と私の剣、どちらが硬いでしょうか…」
金属の擦れる音……『ロザリー』がゆっくりと抜剣する。構えはさすが『ロイ』――隙がない。瞳が紫水晶でなければ、本気モードの彼だ。予告なしの矢のような刺撃――
「《竜鱗の鎧》！」
それを、サイラスはバックステップで身体を捻り受け流す。刃と漆黒の鱗が擦れて、火花を散らす。その突き出した腕を黒い鉤爪がガシリと掴んだ。刺撃の勢いを利用したボディへの膝蹴り――それを、
「《闇の弾丸》」
魔力を凝縮した弾丸をサイラスの頭目がけて撃ち出し、無理矢理引き剥がす。
（嗚呼…少年の記憶を頼りに戦っていますが、まだまだ甘いですねぇ）
生前の『ロイ』の実力には遠く及ばないと、『ロザリー』は心中で苦笑した。
闇の弾丸を、サイラスは硬化した両腕で防ぐ。鈍い打撃音。顔を守るように立てた前腕の向こう、闘志を漲らせた空色がこちらを睨む。目を眩ませるように闇を靄のように散華させ、間髪を入れずの横薙ぎの一閃は――
「《氷壁》」
しなやかな肉体を両断する手応えはなく、氷の塊にめり込んだ。だが、遅い。盾にするには薄い氷壁を力ずくで斬り砕く。氷の向こうに見える薄らとした黒い鱗――近い。『ロザリー』の唇が獲物を屠る愉悦に歪み…
「《破砕雷》！」
「ッ！」
地を砕く雷撃が四方から『ロザリー』に迫ってきた。咄嗟に真上に跳ぶ、そこに。
「くたばれ！！」
唯一の逃げ道は罠だ。間近にサイラスが迫り。清廉な魔力を湛えた氷の剣の斬撃――心臓を的確に狙う。
躱せない…！
紫水晶が動揺に見開かれる――
心臓はダメだ！！貸せ！！
キン！
火花が踊り、斬撃の軌道が上に逸れる――
「ぐっ！」
肩を切り裂かれ、血飛沫が舞う。
「ッ！…生身の身体はこれだから…ッ」
血を失い、頭の芯が揺らぐ――忌々しいかぎりだ。血を溢れさせ痛みを訴える肩を押さえ、『ロザリー』は舌打ちした。…だが、致し方あるまい。腱こそ斬られていないものの、これ以上の戦闘は『ロザリー』が圧倒的に不利だ。そこに、
「言い残すことはある？」
サイラスが氷の剣をピタリと『ロザリー』の心臓に突きつけた。
◆◆◆
『ロイ』の屍を操るクソ野郎を追い詰めた。
あのイカレ女にしていた話からして、コイツは『ロザリー』とかいう悪魔らしい。奴の心臓に剣を突きつけて、私は不貞不貞しくこちらを睨む悪魔を見下ろした。
待ってて、ロイ。もうすぐ、君からこの汚いクソ野郎を駆除してあげるから――
「まだまだだな、サイラス」
「え…？ッ！」
心臓に突きつけた剣の腹を拳で素早く横に逸らし、『ロザリー』が前に出る。さっきより動きが速い！
「殺されるわけにはいかない」
静かに呟く『ロザリー』の脇腹を氷の刃が掠め、血が流れるが、物ともしない。
「わっ！」
足を払われ地に倒れる。腹に『ロザリー』の膝がめり込み、剣を取り落とした両の手を、頭の上で拘束された。
「ガッ！……ンにゃろー」
上半身の筋力を総動員した頭突きを『ロザリー』は軽く躱し、私の首を掴んで地に叩きつけた。延髄への強い衝撃に頭と身体が痺れる。
「クッ…ハッ…」
ギリギリと首が絞まる。身を捩るも、圧倒的な力の差が私を地に縫いつけ、抵抗を許さない。クッソ……このまま、じゃ、落ち…る…！
「悪いな。寝てろ」
鋭い紫水晶の瞳の映像を最後に、私は意識を失った。
◆◆◆
背を無数の氷の鏃に射られ、倒れた少年は、しかし辛うじて生きていた。そこに、鈴を振るような愛らしい声が近づいてきて言った。
「ふふ…いいモノを手に入れたわ！コレに悪魔を喚び出してあの女に嗾けたら…」
きっと面白いことになるわね！
愛らしい声音とは裏腹に、その娘は悍ましいことを口にした。
ダメ…だ……アナベル様を…
だが、少年に抗う力は残されていない。愛らしい声が呪言を紡ぐ――
「闇に巣くいし悪魔よ、我が召喚に応えよ…」
開かぬ瞼の向こうが紅いのは、闇魔法の陣があるからか――
「我が下僕に…」
ダイショウヲ…
地の底から人ならぬモノの答唱が聞こえる。
「かの少…」
俺の心臓をやる！！俺に従え！！
咄嗟に、少年はその答唱に残った意志で叫び返した。
ギョイ…
守れ…アナベル様だけは…
答は、ない。背筋が冷えるような薄ら嗤いを最後に、少年の意識は途絶えた。
