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105 湖の悲劇

キッツいシーンです。ごめんなさい。

遥か昔。


そこは小さな泉だった。清廉な水がこんこんと湧き出す泉。


急峻な不毛の岩山の(ふもと)に湧いた貴重な水場は、道をゆく旅人にとっては命の水といっても差し支えなかった。


時が経ち、いつしか水場に小さな(ほこら)が建てられ、人が集まり、やがて旅人に宿を提供する小さな宿場ができた。



宿場はやがて発展して小さな街に。

その頃、古い祠は小さな神殿へと姿を変えていた。水の精霊を祀る小さな神殿。


どうかこの命の水が涸れることなく、人々に恵みをもたらしますように――。




そして時は流れ。


捧げられた数多の祈りが『彼女』を作った。

慈悲深き水の化身――オンディーヌを。


清廉(せいれん)な祈りが形になった彼女は、街が発展し、交通の要衝(ようしょう)と呼ばれる頃には、さらにその存在を確かにした。小さかった泉は大きくなり、粗末だった神殿は白亜の宮殿が如く。街の人間は、皆神殿に通い、彼女に祈りを捧げた。彼女もまた、人々に水の恵みを与え――



共に在れる、ハズだった。



けれど…


彼女は知らなかった。人間が欲に弱い生き物だと。

祈りを捧げるからといって、かの生き物が決して清廉とは言い難いことを。



きっかけは、そう…

かの街の王を名乗っていた人間の娘が連れてきた一人の男。

王の娘に愛を囁くその男もまた、彼女の神殿を訪れて祈りを捧げていった。


しかし…平和な時はその男が来て以来、脆くも崩れ去った。


王の一族が次々に謎めいた落命を遂げ、挙げ句その街に敵の大軍が攻めてきた。唯一生き延びた王の娘は、すぐさま軍を編成し迎え撃った。


街の北で合戦の砂煙が巻き上がる。


けれど、それは敵の策謀だった。街の守備軍を引きつけている間に、敵は護りの薄くなった市壁を突破し、街の中に雪崩れ込んだ。戦える男を外に出した街には、戦えない女子供ばかりが残っていた。


雪崩れ込んだ軍勢は、略奪と殺戮(さつりく)に明け暮れた。逃げ遅れた者は無残に殺され、石畳は血に染まり、家々には火が放たれた。



嗚呼!どうか我らに死を!

(はずかし)められるよりは死を与えたまえ!!



神殿まで逃げ延びた者は、彼女に願った。王の娘もまた。



あの男は敵の間者であった!

アレに堕ちた我も愚かであったが、あの男だけは(ゆる)せぬ!

願わくば敵ごと、あの男ごと奈落の底に葬りたまえ!!

我らの魂を捧ぐ!

願いを聞き届けたまえ!!



彼女は願いを受け入れた。


地が鳴動し、巨大な裂け目が現れた。

王の娘を先頭に、人々は次々に真っ黒な裂け目に身を投げ――


やがて裂け目は街を、戦死した王の玉座に我が物顔で座る男ごと、その口に呑み込んだ。




そして、人間はいなくなった。




今や湖となった泉は、もはや清廉な地ではなくなった。


身投げした女たちをその内に抱き、呪いの睡蓮を浮かべる『悪食の沼』になり果てた。

かの泉の周りは、瘴気に惹かれたのか、禍々しい魔草が繁る暗い森に姿を変え、いつしか『魔の森』と人々から恐れられるようになった。


◆◆◆


「せぇーのっ!」


ブルーノ様達と無人の民家の床板を剥がし、軽く下の土を掘り返すと、中から木箱の蓋が姿を現した。確か、この箱には魔石を隠してあったはず。


「ギャッ」


悲鳴に振り向くと、従者さんが血に染まった指で泣きそうになっていた。床板のささくれで切ったのかな。


「井戸があるんで、洗いましょう」

とりあえず彼を連れて、井戸まで移動する。


「大丈夫ですよ。すぐ血も止まりますって」

安心させるように彼に笑いかけて、水を汲み上げた時。


「おい、サイラス。そいつは…」

一緒に来たモルゲン兵が険しい顔でこちらに駆けてくる。


「?」


まあ、とりあえず彼の手当てが先かな。血が渇きかけた指先を水で洗って、手持ちの傷薬を塗って…


「おい、なんか来るぞ!」


原野に近い民家から、作業をしていた別のモルゲン兵――ハンスさんが飛び出してきて、私は急いで膝にぶら下げた短刀を抜き、原野に目をやった。


「兵士?」


こちらに駆けてくるのは、騎馬隊のようだ。でも、見慣れた敵の軍隊とは纏う鎧が違う。


「まさか、援軍!?」


私の元にすぐさまブルーノ様も走ってきた。


「この鎧は…ネーザルか?!」


「援軍なんですか?ブルーノ様?」


私の問いにブルーノ様は戸惑いながらも肯いた。

やった!ついに援軍が来たんだ!


「おおーい!!」

近づいてくる騎馬に私は大声で手を振った。


(味方のフリをして少年を捕らえろ)


と、背後の従者が暗号で彼らに指示を出しているとは想像もせず。


◆◆◆


嗚呼……何故呼びかけに応えないのか、我が(つま)よ。


我はおまえを王にするため、蘇生させ、力を貸したのに。


人間とは、穢れた生き物だ。


だから、我の穢れを被るに調度いい。


おまえがこの穢れを受けてくれるのなら、我は以前の清廉な存在に……




その存在すら、今は危うい。


あの小僧の言葉は、腹立たしいことに当を得ていた。我が力は無尽蔵ではない。


元々『祈り』から我は生まれたのだ。『祈り』が力の源だった。



嗚呼……応えよ。契約者にして我が夫よ。


◆◆◆


騎馬隊がニマム村に到着した。


ブルーノ様は、すぐさまリーダーと思しき兵士の元へ行き、何やら話している。私の後ろには、怪我の手当を終えた従者さんが無表情に騎馬隊を見上げている。そこへ、モルゲン兵たちも駆けてきて、


次の瞬間


ドオオン、と地が鳴動した。


覚えのある冷気が辺りを満たす。これは…!



湖?!



そして、間髪を入れず地が割れ、びっしりと牙の並んだ奈落がいくつも、その口を開けた。


「なっ…!みんな逃げろっ!!」


ギシギシと音を立てて、水車小屋がひしゃげて地に吞まれていく。他の民家も同様だ。木が裂け、爆ぜる音と砂埃を上げて倒壊してゆく。


「おいっ!湖、やめろぉ!!」


叫んでも、奈落の口は止まらない。あっという間に騎馬隊が、馬ごと奈落に喰われた。耳を塞ぎ目を覆いたくなるような阿鼻叫喚――馬の悲鳴のような嘶きが長く尾を引き、


「うわあぁぁ!!」


「ウェズリーさん!」


口に吞まれる従者さんに必死に手を伸ばし…包帯を巻いた彼の手が私の左手を掴みかけたものの、鱗を隠すために巻いていた包帯に掠っただけで、真っ黒な裂け目、鋭い歯が並んだ奈落に彼の身体は落ちて。思わず目をギュッと瞑った。身の毛のよだつような断末魔が耳に…


なんでっ…!なんでっ!


視界の端に見えたのは、モルゲン兵の鎧と、荷車。


「ハンスさん!マシューさん!!」

叫べど現状は変わらない。彼らも…


くそっ!湖が止まらない!!


湖に訴えてもダメだ。

一人でも助けないと…!


私は身を翻した。


ブルーノ様!!



数メートル先で、彼は必死に口のバケモノから逃げていた。けれど、私が辿り着く前に波打つ地面に足を取られた。


「ブルーノ様!!」


今度こそ彼の腕を掴んだ。心臓が馬鹿みたいに胸骨の内側で暴れている。助けなきゃ…助けなきゃ…!一人でも助けないと、私は…ッ!


「捕まって下さい!!今、引き上げます!」


右手だけでは支えきれない。私は、左手も彼へ伸ばした。さっき従者さんが包帯を引きちぎってしまったため、肘まで黒い鱗に被われた左手を。


「ッ!放せ!この、バケモノッ!」


シュッと鋭利な先端が左手を掠めて。


「あ…」


ブルーノ様の手には、血のついた短刀があって。私を睨む彼の顔には、明白な怯えと嫌悪があって。



手が離れた。


地が波打ち、家も人もすべてを食い尽くす――最後の一人も。兄のように慕っていた方を呑み込んで…


「うわああああ!!!」


慟哭(どうこく)は、地鳴りの轟音に掻き消された。

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