忘れえぬオサナナジミ 2/5
翌日、矢淵は木鳩とやけに目があった。そのたびに、笑いを誘うようなことをしてくる。そのせいか授業に身が入らない。教師にさされた時でさえ、まったくわからず狼狽してしまうほどだった。
「まあ、お前も色々大変だろう。気にせず、段々と調子を戻していけばいい」
英語の教師はそう言って彼を慰めたが、矢淵にしてみればむしゃくしゃする発言であった。彼が自分を心配してくれているのはわかるのだが、いつまでも凹みっぱなしの不幸な少年扱いされていることが癪に障った。
「いえ! 単にぼうっとしていただけです。もう一度質問を言ってもらっていいですか」
バカ真面目に矢淵がそう言うと、教室が少々ざわめく。気を遣ってやってるんだから素直に受け取っておけよ、そんな有象無象の気持ちが矢淵には如実に感じ取れる。
教師はたるんだ頬をひげでも伸ばすように触る。顔には出さないが、借りてきた猫をどうやってあやすか考えているような、そんな気分であったのだろう。
「おい准。わかんなかったからってムキになるなって」
隣の席の金本がわざと大きな声をかけておどける。准はそれにもむかっとした。彼は准と幼稚園からの付き合いで、親友である。だからわかる。こいつはまったく、自分が目立とうとすることばかり考えるピエロなのだ。
「准だってさぁ、たまにはボケッと、ベランダ際の観葉植物みてぇになりたいときだってあるんですよ。それに、俺はちゃんと質問を聞いてましたよ。このWillって単語をどう考えるかを先生は聞きたいんでしょう?」
教師は「お」と声にだして驚いた。確かに、助動詞のWillの使い方の問題だったからだ。
「へえ、やるじゃないか金本。お前がそんなに俺の授業を熱心に聞いていたとはなぁ。ほら、答えてみろ」
教師はうってかわって上機嫌になる。デキが悪いやつを褒めたくなってしまうのが、人情というやつだ。
「あーっとぉ……。それにしてもWillってのが曲者だなぁ。ところで、こいつは前の文章で何をしたヤツでしたっけ。卵の焼き方を聞いてきてたヤツでしたっけ」
「着眼点は合ってるが……Willは人名じゃないぞ金本。……次のやつ! 篠山!」
くすくすという笑い声が教室の幾つかから漏れ出す。険悪な空気は青天の彼方にでも吹っ飛んでしまったようだ。どっかと腰を下ろした金本は、おかしいなぁと聞こえるように呟き頭をかく。
渋々と座った矢淵は、ふと木鳩の方を見る。彼女は矢淵の視線に気づくと、にんまりと笑う。矢淵は教科書で顔を隠した。調子が狂う。やはり彼女のような女性は苦手だ。
終いにはあの髪色までもが鼻につく。自由が校訓の私立高校といえど、あまりに派手な髪色だ。染めるにしてもあれは行きすぎだろ、と矢淵は睨みつけた。
「おいおいおいおいおいィ……木鳩となんかあったのか?」
めざとくそれに気づいた金本がひそひそと話しかけてくる。その声色、まさしく面白がっていると形容せざるをえない。直近で恥をかいたにも関わらず、すぐこれである。
「うるさいね、ちょっと昨日喋っただけだよ」
「喋った! おいおいおいおいおいィ……どんな甘い会話を交わしたてったんだ、え、なぁおい」
「彼女はうちの店子なんだよ。昨日それでちょっと会話しただけだ」
「たなこ?」
「俺のアパートの住人ってことだよ」
「はーっ。そりゃおまえ、ずいぶんと役得じゃないか。俺にも紹介してくれよ。木鳩さんってほら、今人気のVtuberのコトリさんっていうのに似てるじゃん? 俺さあ、ファンでさあ」
金本は現在そのVtuberとやらにドハマリしているらしく、ことあるごとに名前をだす。最近は特に多く、なんにでもコトリさんっぽい! と金本がいうのに辟易していた。
「よくそんなこと言えるな。さっき自分の間抜け加減を晒したばっかりだっていうのに」
「おっと! こら手厳しい。ガハハハ」
はあ、とため息を付いて矢淵は黒板に集中した。彼女の方を見なければ、目があうこともない、という算段だった。はたして、それは成功した。もともと真面目なたちであったのも幸いし、すぐに授業についていくことができた。
それから放課後まで勉学に勤しんだ彼は、さっさと帰ってやることをやってしまおうと思った。アパートの蛍光灯が切れかかっているのを思い出したのだ。住人に迷惑を掛けることなど大家失格である。
夕日で照らされる朱色の教室で、蛍光灯を取り替えるためのはしごはどこにしまっていたっけな、と考えながら鞄に教材を詰め込んでいく。
そこに影が差す。
彼が顔をあげると、今日の視線誘導の主が立っていた。制服の紺色のスカートから伸びる程よい肉付きの太ももが、黒タイツとの切れ間で絶対領域を作っている。夕日で見事な輪郭を浮き立たせたそれを、隣で金本が遠慮なく注視していた。
「さすがにもうちょっと遠慮してほしいなぁ金本くん」
ぴし、と金本にデコピンすると、彼女は矢淵の机に腰掛ける。金本にしては珍しくおどけることもなく「へいへい、大家ってのはいいもんだなあ」と言って教室から出ていってしまった。
「君についてきてほしいところがあるんだけど……」
「なんだ? 話ならアパートでもできるだろ。僕はこれからアパートの蛍光灯を変えなきゃいけないんだ」
机に座られたことに若干腹を立てながら、すげなく彼は言う。
「えぇー。それって私より大事なことかなぁ?」
彼女は矢淵の手を取ると、ぐい、と自分の方に引き寄せる。教室の空気が固まった。誰もが固唾を呑んでこの即興劇のような大人なシーンの行き先を見定めようとした。それもそうだ、木鳩は大方の女子に比べてかわいい。そして彼女が一人暮らしで、しかも矢淵と同じアパートに暮らしていることなどほとんどのクラスメイトは知らないのだ。
男子も女子も、耳だけに全エネルギーを集中させて聴力を拡大させようとしていた。ちなみに金本は帰ったように見せかけて、教室の入口から出歯亀している。
「やめろよ。美智留がいないからって僕をからかうのは」
休んでいなければ、幼馴染の美智留が公然とこの場に割り込んでくることは用意に想像がつく。その間隙をついたからかいなのだ。
「別にからかってるわけじゃないよ。昨日のことを謝りたくって。美智留ちゃんに渡してほしいものがあるから、ついてきてほしいんだけど」
「……本当に?」
「本当だってば」
「わかった。どれくらい時間がかかる?」
矢淵はスマホを取り出して聞く。時刻は4時に差し掛かっていて、買い物をしたい彼は時間が惜しかった。画面には買い物リストが並んでいる。
「んーわかんない。でもすぐ終わらせるようにするから」
「わかった」
『帰りが遅くなるかもしれないけど、何かあればすぐに行くから遠慮しないで』
と美智留に送信する。
「ずいぶん美智留ちゃんの尻に敷かれてるんだねー」
スマホを覗きこんで、嫌味っぽく言う。
「風邪引いてるからな。あいつも身寄りがないし」
「……ふーん。まぁいいけど。ついてきてくれる?」
教室からでていく二人を、金本は訝しげに見送る。それからぽつりと、こうつぶやいた。
「美智留って女もアパートに住んでんのかな」
木鳩が連れて行ったのは、いわゆるタモクと言われているところだった。何のことはない、音楽室や理科室、図書室、情報室、会議室などが集められた一階。その上に体育館が作られたちょっとばかり珍しい建物で、多目的な用途に使われる。ゆえにタモクだ。
といってもここに、特に一階に学生が来ることは滅多にない。せいぜい情報室のパソコンを使いたい人だけだろう。図書室は蔵書が更新されていないやる気のなさから、立ち寄る人間はいない。地域の古本屋の方が、まだ読みやすい本が揃っている始末で、奥付がどいつもこいつも昭和から始まる情報の墓場だ。司書もいないことがそれに拍車をかけているのだろう。
その図書室のドアに鍵を差し込むと、がららと引き戸をあける。こんなところで何を渡すというのか、と疑問に思いつつ矢淵は中に入り込む。彼がここに立ち入るのは、入学当初のガイダンス以外では初めてのことだった。
中は意外と綺麗だった。開け放たれたカーテンが、広い窓から夕日を取り込んで淋しげな表情を作っている。床に埃は落ちておらず、誰かがマメに掃除していることが伺える。しかしそれは本には及んでおらず、あくまで事務的な仕事としてされている掃除なのだろう、と彼に印象づけた。
一冊のずれもなく並んだ辞書や歴史書は、はたから見た分には綺麗だが、上には綿埃が積もっている。おまけに西日が直撃するこの部屋では、あっという間に本が日焼けするのだろう、セピア色に変色しているものが多い。
昔はそれなりに使うつもりだったのだろう、本棚は立派だ。木で作られたそれは、取り出しやすいように下の段には傾斜がついている。だが、当初の思惑と異なり、現在ではどれもこれもが触れられた形跡すら無い。そんな卒塔婆のようなものが何重も並んだ広い部屋を、ずんずんと木鳩は進んでいく。
時間という船に乗りそこねたような部屋で、彼女だけが浮ついたピンク色の髪を揺らして、矢淵の前を歩いていくのである。シュールだ。曲がって浮ついた木のタイルは、本と同じくらい古いだろう。
その奥にドアがあった。意外と広い図書室も、ここから先は入れない。ドアには『禁帯出資料庫』と、古く禍々しさを感じてしまいそうな書体で書かれている。彼女は鞄の中から一冊の本を取り出すと、本棚の一角にそれを収める。タイトルのない、白い皮で装丁された本だ。
「それ、なんて本?」
矢淵は純粋に好奇心から聞く。
「ないしょ」
木鳩は思いだせないことをごまかすように、そっけなく言う。直後、鍵が開く重苦しい音がした。矢淵はごくりとつばを飲む。この芝居がかった仕掛けはなんだ、と木鳩に聞きたかった。だが彼女は「こういうの、ドキドキしちゃう?」と逆に問いかけを放って、小さく笑うだけだ。
端っこが錆びたドアハンドルに手をかける。金属がきしむ、高温と低音をミックスした音と共にドアが開く。分厚いドアだった。よく見ると、蝶番も矢淵の顔よりも大きかった。それくらい重いドアなのだろう。
そこには階段が続いていた。コンクリートで作られた階段はやけに急で、やはり造りに古さを感じる。
「ここさー、かなり昔からあるんだって。この校舎が建てられる前は、軍隊の資料庫だったらしいよ」
「そんなまさか」
一人通るのがやっとの階段を降りながら、脅かすように彼女が言う。背後で勝手にドアがしまり、矢淵は思わず身をすくめた。
どん詰まりには、また右から左に『入室無用』とつっけんどんに書かれたドアがある。彼女の言うことに納得がいった気がした。よく見てみれば、周囲の作りもまるっきり変わってしまったようで、いままでの校舎が白いコンクリートだったのに対し、どこか暗いものに変わっていた。照明には未だに白熱電球が使われ、傘には針金の網目がついている。ああ、そういえばこれは第二次大戦の写真で見たことがあるな、と矢淵はぼんやりと思う。