16:想定から勝手に抜け出すんじゃない
「……こんなことって、ありえない」
イルディアは、寝台の上で完全にへそを曲げていた。
「有り得ます」
対するアルストは寝台脇に立ち、手櫛で髪を整えていた。
「僕を跳ね除けるなんて、正気じゃないよ」
「男に組み敷かれる趣味はありません」
「上が良かったってこと?」
「ご冗談を」
首をかしげたイルディアに、アルストは鼻で笑ってみせた。
「そもそも貴方に手を出す不埒な輩がいるはずがありません」
魅了状態であった四十人余りの神官達ですら、イルディアに手を伸ばそうとはしなかった。
寵愛などと口にした若い下位神官であっても、それは同様だろう。
アルストは、神官という職業に幻想は抱いていなかったが、それなりの誇りは持っていた。
「神官だから?」
「ええ。……ええ、そうですとも。神官は己を律し、欲を制するものです」
だからこそ、イルディアの問いに向ける答えは模範的なものとなった。
欲望に忠実でいる者は、獣と大差がない。
理性を伴ってこその尊厳というものがある。
だが、イルディアは理解できないと言わんばかりだ。
「でも、ご飯は食べるし、夜はきちんと眠るでしょ?」
「はあ、それはそうですが……」
「食欲も睡眠欲も認めてるのに、どうして性欲はだめなの?」
あまりにも曇りのない目を向けられて、アルストは一瞬たじろいだ。
それを説明しろというのか。
欲望には種類がある。
必ずしも、生命の維持に必要ではない欲求も存在する。
だが、それをわざわざ欲望としてカテゴライズすることは稀だ。
概ね禁じられているのは──
「──待ってください。私がいつ貴方に性欲を向けました?」
「そういう話じゃないの?」
「違います」
アルストは片手で顔を覆った。
本気で言っているのか、からかっているのか。
アルストは、本心のうかがえない相手は、得意ではなかった。
そして、定型文で対処できない相手は久しぶりでもあった。
「アルストって、僕のことは綺麗だと思う?」
「思いますが?」
それが何だというのか。
アルストは、もう全く我慢などできずに眉を寄せた。
確かにアルストにとっても、イルディアは美しい。
見目麗しいなどと月並みな言葉では表現できないほど、容姿は端麗に思えた。
創り上げられた理想の姿というべきか。
人間が絵画や彫刻に閉じ込めたがる美が、そこにはあった。
「でも、魅了は効いてないよね」
「……あなたがそのように仰いましたが」
イルディアが何を言いたいのか。アルストはじっと言葉を待った。
「ということは、だよ?」
イルディアは少しもったいぶった。
何せ、イルディアにとっての彼は例外中の例外だった。
神官であることを差し引いて──その必要もないが──それでも尚、彼は特例だ。
制御がなければ強制的にかかるはずの、イルディアの"魅了"が利かない。
「アルストは、僕の魅了がなくても
僕のことが美しくて可愛くて魅力的で仕方がないってことだよね?」
「そこまでは申しておりません」
アルストはぴしゃりと否定しておいた。
(まったく、何を言い出すのかと思えば)
召喚者には作用しない──というわけではないのだろう。
もしそうであれば、そもそもイルディアが知らないはずもない。
アルストは怪訝そうにイルディアを見た。
だが、思案げにしていたイルディアは、視線に気づくなり笑みを浮かべるのだ。
「僕、例外とか大好きなんだよね。想定外って楽しいじゃない?」
「そうでしょうか」
「そうだよ。僕のイレギュラーは君なんだし、しばらく楽しめそうだなぁ」
「……」
寝台の上に寝転がって天蓋にじゃれつくイルディアに対し、アルストは静かに肩をすくめた。
(イレギュラーなど、最悪だ)
「それはそれは。良いことです」
私はあまり好みませんが──とは、さすがに言わなかった。