9:ご慈悲もないのにご寵愛とは笑っちゃうよね
説得の結果を言うのであれば、アルストは惨敗であった。
同行の件に関しては、魅了にかからないという意味では気を遣わなくて良いという点のごり押し。
移送後は単独で良いかと食い下がれば、気に入らないという回答が来た。
完全なる押し問答。
そして、アルストはイルディアの機嫌を完全に損ねる訳にはいかない。
もともと分が悪い。
明け方になって女神の寝所を後にしたアルストは、扉へと繋がる廊下を進みながら盛大な溜め息を吐いた。
腹に溜まり続けた溜め息のせいで、息が出来ない心地ですらあった。
「あ、あっ、アルストさんっ」
廊下を越えて扉を開くと、見張りをしていた神官が声をかけてきた。
まだ十代の若い神官だ。
早朝の見張り番となればまだ下位だろうが、女神の寝所へ繋がる道を任されているのであれば、優秀ではあるのだろう。
しかし、アルストには下位の神官へ向ける興味など皆無であった。
「何でしょう?」
既に疲労困憊のアルストは、さっさと部屋に戻りたかった。
無駄な時間を過ごしてしまった徒労感が果てしない。
若い神官の好奇心を満たしてやる気など、さらさらなかった──が。
アルストは模範を演じて生きてきた。
この若い神官から向けられるであろう馬鹿馬鹿しい問いにも、多少は答えてやろうと思ったのだ。
「め、女神様は……」
「ええ。奥にいらっしゃいます。あまり騒がしくしないように」
「もっ、もちろんですっ……それで、あの……もしかして……」
アルストは思わず眉を寄せそうになった。
だが、寸前のところで表情の変化を回避する。
若い神官は、言いにくそうに相方を見た。
壁に背を寄せたまま、姿勢を崩さずに立っている見張りの相方からの援護はない。
しかし、そちらの神官も興味があるだろうことくらい、アルストには伝わっていた。
「……その、もしかして、ご、ごちょうあいを?」
殴ってやろうか。
アルストは一瞬ばかり拳に力を入れたが、すぐに力を抜いた。
そして、努めて冷静さを装いながら緩やかに首を振る。
「……名前は?」
「は、はいっ、ロアン・イルグと申しますっ」
(……名前は覚えたぞ、クソガキ)
アルストは、何とか笑みを浮かべてみせた。
傍目には、穏やかそうな、怒りとは無縁のように見えたことだろう。
しかし、内心では大暴れであった。
「……ロアン・イルグ。自身の役目を思い出し、弁えなさい。
ここは女神の寝所前──そのような、はしたないことを考えて良い場所ではありません。
もし指導が必要とあれば、また指導院に戻るようお達しが出る場合もあるでしょう。
好奇心は大いに結構ですが、女神様にそのような不埒な気を向けてはなりません」
ゆっくりと言葉をつむぎながら、アルストはイルディアの姿を思い浮かべていた。
この若い神官は、魅了に掛けられた集団の中にはいなかった。
ならば、見てもいないというのに、このような有様だということか。
これでは、まるで娼婦ではないか。
あるいは、傾国の毒婦だろうか。
(いいや、待て待て。待て、落ち着け)
ナチュラルに女として扱っている自分に、アルストは少し落ち込んだ。
あわあわと震えている若い神官──ロアンは、ひどく狼狽していた。
神官として働き始めてから指導院に戻るなど、あってはならないことだった。
それは大変不名誉で、大抵の場合は神官に戻る道は断たれると聞く。
主席で指導院を卒業したアルストを前に、ロアンは言葉も出ない。
ロアンには、彼が単なる脅しでそのような事を言うとは思えないのだ。
「……此度は不問に。今後、同様のことを繰り返さないようにしなさい」
アルストは頭痛を覚えながら、見張り役の神官達に背を向けた。
まさか、対面していなくとも効果を発揮するのだろうか。
それとも、彼らが若いせいだろうか。
あまりにも神官として、そして神聖な場にそぐわない話題に頭が痛い気がした。
(勘弁してくれよ)
アルストは、寝台に寝転がっていたイルディアを思い浮かべて、またも盛大な溜め息をついた。