プロローグ
春も近い冬明けの午後、シンメトリー(左右対称)に刈り込まれた中庭は普段の静かさとはかけ離れた物々しさに満ちていた。
「どこへ行った!? まだ近くにいるはずだ探せ!」
荒々しい長靴の音が響き渡り、怒号が耳をつく。小鳥がさえずり、ヴィーナスが祝福するはずの美しい庭園はマルスが支配する戦場に様変わりしていた。
「こりゃあ俺の運も尽きたかな……」
領土を失い、仲間を失い、そして俺の命すら失おうとしている。俺はすでに精神的にも肉体的にも限界だった。
「そんなことはありませんぜ隊長! まだ反撃の機会はありますぜ」
背後から蓮っ葉な物言いの、お世辞にも整ったとはいえない風貌の男は俺を勇気づけるように言った。
「確かに奇襲はされやしたが、最後の切り札が残されてますから」
切り札?この進退きわまった状況で何があるんだ?
疑問が表情にでていたのだろう、部下は「切り札は隊長がいるからに決まってるでしょ!」と笑った。
俺を見る眼差し……この男なら何があっても信頼できる、この絶望的な状況をひっくり返してくれる、と期待に満ちた意思を感じる。
やめてくれ、そんな目で俺を見ないでくれ!
俺には重すぎる!
オレは内心の葛藤に胸をかきむしりたくなった。
しかし、指揮官としての義務から弱気な面をみせられないと思い直し、振り返った時には……部下の脳天には矢が突き刺さっていた。
「おいっ!しっかりしろ!」
どう見ても即死だった。反射的に声をあげてしまったが、すでに敵に囲まれている。とっくに位置はバレてるだろうから問題ないか。
「ようやく見つけたぜぇ、こそこそ逃げ回りやがってよぉ。ネズミの方がまだ可愛らしいぜ」
若い男の声。よく鍛えられた鋼のような肉体に、ギラギラしている瞳。野獣を連想させる風貌だがどことなく品がある。獣は獣でも、百獣の王であるこいつは……
「テオ!」
ローマのパトリキウス(貴族)にして最大の脅威、東ゴートの王、そして俺の親友だった……テオドリックその人だった。
「なんでこんなことをした!血を流す必要なんてなかったはずだ!」
俺は疲労困憊だったが、最後にどうしても聞いておきたかった。
「んん~?そりゃ和睦の事を言ってんのか?」
「そうだ!お前が裏切りなんてしなければ、今頃は平和的に解決できたのに」
そうだ、勝敗は戦う前から既に決まっていた。片や成り上がりの傭兵隊長、片や強国の若き獅子。それに加えて数々の裏切り、対立。頼みの綱のパトロン様は握手しながら、反対の手にはナイフを隠し持ってるとなれば、いくら俺が戦術的に勝っていたしても、その前の段階で負けてしまっていた。
「あんまり俺の事をなめてんじゃねえぞ、これが時間稼ぎだってのは明らかじゃねえか。この機会を逃したらお前は力を蓄えて再起するだろ?俺じゃなくても襲ってたわ」
(チッ、バレバレか)
「それでも!それでも……俺はお前とあの頃みたいに語り会えたらと思ったんだ」
テオが苦々しく表情を歪ませる。奴の言うとおり、この会談自体は偽りのものだ。時間稼ぎだったのは否めない。しかし同時に昔みたいに語りあえたらと思ったのも本当だ。
「パックスロマーナ(ローマの平和)って奴か?お前、とことんローマに染まっちまいやがって、毒されすぎなんだよぉ!」
「毒されたんじゃない!俺がローマを利用しているんだ。奴らの流儀でこの国を奪って、壊してやるんだ。ただそれだけだ!」
……そうさ。俺はあの時に決めたんだ。この醜く歪んだ世界を壊してやるって!
「……ところでよ、この庭園、いい趣味してるじゃねえか。俺もあんまり詳しくねえが、ギリシャ風か」
テオの態度が急に変わった?不味いな、本格的にすりつぶしてくる気か。
「白い薔薇か、綺麗だがいくらなんでもお前、かぶれすぎだろ。こんなもん育ててる暇があったら豚でも飼ってるほうが役に立つぜ」
「……さい」
「あん?」
「うるさいって言ってんだよ!」
瞬間的に頭に血が昇った。
俺はあの人が気に入っていたこの庭を馬鹿にされて、テオに突っかかり顔面をぶん殴った。
そのまま2、3発入れた所で反撃を食らって離れた。
「……てえなぁ、そんな根性があるなら最初から見せやがれってんだ。白けた、おいっ!」
ベッと、口に溜まった血を吐くと、テオは片手を挙げ、周囲にいた兵が詰め寄ってきた。
逃げ場は……ない。完璧に詰んでる。
「お前との付き合いは悪くなかったぜ、名残惜しいが俺もやることがたくさんあるからな」
少しでも抗おうと、距離を詰めようとするが、流石に2度目は警戒されていた。
テオが後ろに下がると、代わりに一般兵の槍衾が突き出された。
腰に差した剣で数本は薙ぎ払ったが、オレの奮闘もそこまでだった。
兵士の槍が四方八方から繰り出され、あっさりとオレの身体を貫いた。
「じゃあな、オドアケル」
オドアケル……、ああ、なんて忌々しい、そしてなんて輝かしい!
俺は、俺は!
胸に秘めた思いを吐き出そうとして、最後に口から出たのは呪詛ではなく、血の塊で。
身体から生えた槍の穂先からは血が滴り、庭園に咲く薔薇を赤く染めた。
オレは虚ろな意識で、白薔薇が赤くなっていくのを見つめていた。
「ああ、なんだ、赤い、の、も悪くないな……」
なんて思いながら薔薇に手を伸ばしかけて、オレの意識は暗転した。
――この日、ミネルヴァ庭園の白薔薇は血で染まった。
ーーーーーー
十年以上前、日本の学生であった僕は帰宅途中、気づいたらこの世界にいた。
わけがわからなかった。
生きるのに必死だった。
我武者羅に目の前の事をこなし、気づいたら偉くなっていた。
これはそんなボクの後悔と復讐の物語。
白薔薇……純潔
ミネルヴァ……月の女神