am4:00の女について。
スマートフォンの画面に指を触れると、ロック画面が表示される。am4:00過ぎであった。夜明けである。
夜中にぱっちりと目が覚めて、出し抜けに起き出して、イヤホンから曲を流しながら、おもむろにチューニングを合わせ、僕がカーペンターズのClose to youを練習しはじめてから1時間あまりが経とうとしていた。
少し伸びをすると、足先にビールの空き缶が触れる。すっかり温くなって、空虚な音を響かせるそれを、僕は無造作にゴミ袋に投げた。
立ち上がる。外はまだ暗い。そして、ほんの少しだけ温い。ビールの空き缶のように。
歯を磨く為に洗面台に向かった、夜更かしをして益々冴えない男の顔が鏡に映った。僕のことだった。
中学一年の頃に父が買って僕に買い与えた日本製のレスポールタイプのギターとは、今日までずっと一緒だった。最近リアピックアップの調子が著しく悪い。
別に誰に披露する機会があるギターじゃないけれど、しかし、ギターは僕の人生に置ける大事な相棒であり、大切な趣味のひとつである。出費は少し痛いけれど、次の休みに楽器屋に行こうと考えながら、僕は歯を磨いた。
女は、突然現れた。
歯を磨いてリビング兼、僕のささやかなギタースタジオに戻った時、彼女は既に僕が先程までもたれかかっていたソファに座っていた。
僕も缶ビールを2本飲んで、些か酔っ払ってはいる。
しかし残念ながら、ある種必然のごとく、彼女は幻覚では無かった。
僕は女性関係に関してはある程度パーソナルなにがしがぶっ壊れているクズなので、突如現れた初対面の女にずかずかと歩み寄り、彼女に触れてみたのだ。
酔っ払っていると言い訳をすれば良かったし、不法侵入はあちらの方である、極めてデリケートで、いささか現実離れしたこのシチュエーションでも、いくつかこちらに分があると言えなくもない状況ではあったが、しかし僕はそういう強みを保険に掛けて彼女に触れたのでは無かったし、彼女の方は無表情でこちらに向き直り、「はじめまして」と僕に挨拶をした。
犯罪者、不審者、或いは幽霊である、という説が一番有力そうである、そんな突拍子も無い展開ではあるものの、僕の心は不思議と落ち着いていた。そういった語り口まで含めて、昨今の怪談なんかとそっくりで少しだけ胡散臭い。でも、現れてしまえばなんてことない。僕はそう考えていた。
正体不明は、正体不明だから怖いのだ。
だから僕も、あまり人と接しないので馴染みの無い挨拶ながら、「はじめまして」と、返した。
何をするでも無く、彼女はただ黙っていた。こういった場合、突如現れた彼女が話を向けるべきなのであろうか、或いは、男性として僕が会話のリードを持つのが正しいのであろうか。正解は分からずじまいで、我々は沈黙を保った。
空は一向に明るくなる気配を見せなかったが、時間はちゃんと刻まれている。am4:50過ぎをスマートフォンのロック画面が示していた。僕はビールを勧めてみたが、彼女は断った。
僕はこの不審人物を通報しようとは考えていなかった。社会人として極めて残念な状況判断ではあるが、そんなことは今更であった。どだい僕に社会人とか、管理者とかいった役割は向いていないのだ。そんなことは分かったうえで、しかし生きる為に僕は役割をこなしている。そのことについて深く考えるのももう止めたし、この女についてもこれからどうするのか、くらいにしか考えていなかった。
僕があまり生産的ではない思考を浮かべながら彼女を眺めていると、女は僕の方を向いた。今更ながら女は、少しだけ僕より年が下なのではないかと思った。それまで、と言ってもこの10分あまり、女について何も考えていなかったのだ。
女は無言で立ち上がり、僕に迫ってきた。
この時点で初めて、もしかしたら僕は隠し持った凶器か、或いは何かしらの手段で、危害を加えられるのかもしれないな、と少しだけ考えた。しかし、逃げ出す気にもならなかったし、それならそれで良いとまで考えた。つくづく社会人として失格な判断能力である。せめて酔っ払っているからとアルコールのせいにしたい。
しかし、或いは、やはり、彼女は僕を殺したりはしなかった。
代わりに跪いて、座る僕に目線を合わせて、顔を近づけ、フレンチでは無い方のキスをした。
流石にスムーズに応じる事はできなかった。ドラマほどドラマチックに驚いてやることはできなかったが、僕はけっこう呆気に取られた。少し息を吸うと、微かに甘い匂いがした。まぁ、そりゃそうだよなと変に納得して、やはり自分は混乱しているのだろうと考えながら、キスを受けた。
女はひとしきり僕に口付けをした後、静かに離れた。
僕を眺めて、一言
「私は、幽霊ではないよ」
と、言った。
僕が何か返す前に、少し微笑んで彼女は去った。
僕が立ちあがる前に清掃も出来ていないから砂利と埃まみれのベランダに出て、後を追いかける頃にはもういなかった。
初めて外が少し明るくなっていることを知ったが、それ以外はもう、既にいつもの明け方だった。
幽霊ではないのなら、やはり不審者…例えば精神に疾患を持っていて深夜徘徊をするような人間であるのだろうか。しかし、やはり、それでも、恐怖感といった感情は湧かなかった。
夜が終わった。
眠ることなど出来そうもないが、夕方から仕事である。
アンプのスイッチを切って、ギターをしまった。
布団に潜り込む頃には、僕は少しだけこの世界に満足していた。
こんな夜を、僕は心の何処かで待ち望んでいたのだ。
謎の女について心当たりはまったく無いものの、もう少し生きていける気持ちになって、僕は瞳を閉じた。
はじめまして。
実はこの話は40%くらい実話を元にして書いています。
たとえば、明け方の4時までずっとカーペンターズの遥かなる影を弾いていたこととか。