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灰田くんと八人の切願  作者: 千咲
4/20

#04 灰田くんVS椿くん1

 月曜日。

 試合当日の昼休み。


「頼む金本! 今日の放課後、付き合ってくれないか?」


 俺は自分のクラスで金本に頼み込んでいた。


「え? いや……まぁ良いけど……何すんの?」


 俺は今日の放課後の試合、他の三カ所の試合を見に行ってくれと頼むつもりでいた。他の三カ所の試合を誰かに見て貰えば、事前にどんな武器を使うのか知ることができる。

 だが、俺はどこまで話すべきな悩んだ。

 ミオンのことを伝えても信じてもらえないかもしれない。


「あぁ……ええと今日の十六時半までで良いんだけどな……」


 俺は何というべき考えた。

 すると金本が告げる。


「十六時半……もしかしてミオン様の言ってる試合の件?」


 俺は目が点になった。


「え……と……ミオン……様?」

「ん……ミオン様がどうかしたのか?」


 金本は訳が分からないといった様子だ。

 これは……まさか……。


「お、俺の試合のことも知ってるのか?」

「……? ミオン様に選ばれた八人が、毎週、月曜と木曜に試合を行うんだろ? 灰田もその選ばれた八人の一人だろ?」


 これは……間違いない。

 ミオンを様つけして呼んでいるのが良い証拠だ。

 ミオンだ。

 そういうことか……御堂の質問に心配しなくて良いと言っていたのは……こういうことだったのか。

 この中学校の全校生徒の意識を、認識を変えやがった。

 どうやったのか知らないが、今、この学校では俺たち八人の試合は公然の事実だ。

 俺はミオンの力に改めて恐怖した。

 金本はそんな俺の様子を心配そうに見ている。


「おい……大丈夫か?」

「あ……あぁ、大丈夫大丈夫……つ、ついでに聞くけど……戦いに勝った一人は願いを叶えてもらえるんだよな」


 金本は何を聞いているんだろう、という顔だ。


「あぁ」

「八人がそれぞれ何を願ってるとかも知ってるのか……?」

「いや、知らないけど……」


 俺はほっとした。願いは知られてない。

 俺は慌てて取り繕う。


「俺、今日、試合でさ。それで金本に他の試合会場に行って欲しいんだよ。どんな試合だったか見てきて、俺に報告して欲しいんだ……なんて」

「ふうん……うーん、まぁ良いか。灰田には囲碁将棋部の件で借りもあるし」


 金本は笑顔でそう言う。


「すまん……助かる! それで残り二試合の会場のことなんだけど……」

「あぁ、それは良いよ。俺が適当にメンバー見繕うからさ」

「ありがとう」


 俺は胸を撫でおろす。

 ひとまず、これで他の試合の様子が分かる。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 その日の放課後。

 俺は教室を出て体育館を目指す。

 体育館と言えば、この時間は部活で使っているはずだが……。


(たぶんミオンが人避けをしているのだろうなぁ……)


 体育館が近つくにつれ、俺は緊張してきた。


「ふう……」


 深呼吸して落ち着く。

 よし……いこう。

 体育館の入口まで来ると、入口のドアは閉まっていた。

 なんかドアの向こうから人の話し声が聞こえる。

 俺は何だろうと思って、ドアを開ける。


「な……!?」


 体育館の中は人でごった返していた。

 そのほとんどはジャージ姿の生徒たちだった。

 中にはニ~三人の教師もいる。

 部活中の生徒たちだ……今日は休みにするとか、やりようはあったろうに。

 どうやらミオンは見学ありで試合をやりたいようだ。


「……い……おーい!」


 体育館の奥から俺を呼ぶ声が聞こえる。

 見ると人垣は体育館の中央を避け、その周囲に展開している。

 俺は声のした方へ進む。


「すみません、ちょっと通して――」


 人込みを縫うように進む。


「――おう、頑張れよ!」

「――椿のやつをぶっ飛ばしてくれよ!」

「――お前が勝つ方に賭けたからな!」


 途中でジャージ姿の学生たちにポンポン頭を叩かれる。

 なんか賭けがどうとか聞こえた気が。

 やがて人込みを抜け、体育館の中央に出ると、広くスペースが広がっていた。


「おーい! こっちこっち!」


 体育館の中央にミオンは居た。

 普段と変わらぬ、お姫様のようなヒラヒラした格好だ。


(なんだか体育館でその恰好をしているとコスプレみたいだな……)


 俺はミオンの方へと歩いていく。

 ミオンは笑顔で俺を迎えてくれた。


「コスプレで悪かったね」

「…………」


 そういや心の中を読めるんだった。

 俺は冷や汗をかいて、話を変える。


「いやー、今日は良い天気だなぁ! 絶好の試合日和だ!」


 窓の方を見る。

 外は曇り空だった。


「曇りだね」

「…………」


 俺はしばし固まった後、最敬礼で謝った。


「……ごめんなさい」

「よろしい」


 ミオンは笑顔を向ける。

 俺は椿の姿を探す。


「椿は?」

「まだだよ。まぁ試合まで、まだ十分位あるし、そのうち来るんじゃないかな?」


 椿のやつは授業にもよく遅刻してくるし、ギリギリまで来ないつもりか。

 俺はふと、この場にミオンが居ることに疑問を持つ。


「ミオンがこの場に居るってことは、他の試合会場は誰が仕切ってるんだ?」

「ん? 私が仕切ってるよ」

「え?」

「私が四人に分身して、四つの会場に居るんだよ」


 信じられないことを平然と言う。

 いや今更か……。


「そ、そうか……」


 俺は力なく相鎚を打つ。

 それから八分後、椿が姿を現れる。


「――てめぇ、椿この野郎!」

「――てめぇなんか負けちまえ!」

「――てめぇが負ける方に賭けたぞ!」


 ジャージ姿の生徒の野次が飛ぶ。

 俺の時のように椿の頭を叩きながらなら見上げたものだったが……。

 椿を避けるように、人垣は割れており、野次はその人垣から飛んでいた。


(こ、こいつら……)


 俺は野次に呆れながら、椿の方を見る。

 椿も俺を見て声を掛けてくる。


「よお」


 椿は体育館の中央に歩いてくる。


「賭けの内容、忘れてないよな」


 俺は椿に尋ねる。


「あぁ」


 ミオンは興味深そうに話を聞いていた。

 俺と椿の方に交互に見て、ふんふんとうなずく。

 また心の中を読んでいるのか。


「なるほど……面白いね。それじゃ、その賭け、私が立会人になろう」


 ミオンは右手を突き出して、それからきゅっと握りしめる。

 俺は心の中で何かに掴まれたような感覚を受ける。

 椿も同様の様子だ。


「これでよし。賭けの内容は厳守される」


 ミオンは心底愉しそうな様子だ。


「さて……それじゃ、そろそろ試合を始めようか」


 ミオンはそう言うと、俺たち二人の顔を見る。

 俺は深く深呼吸した。

 右手を突き出して、心衣領域を武器の形に展開する。

 黒い空間の歪みが現れ、俺の右手の中で長い棒状へとその形を変えていく。

 棒の先端部分まで展開すると、そこで大きく膨らむ。

 やがて俺の心衣領域はその姿を完全に現した。

 それは巨大なハンマーだった。

 棒状の柄部分は長さにして二メートル近く、先端の打突部分は直径一メートルはありそうな円柱形の代物だった。

 俺は右手でハンマーを持って、柄の下の部分を床にドスンとつける。


「ふん」


 椿も心衣領域を展開する。

 椿の心衣領域は四つに分かれて、両手両足を覆う。

 やがてそれらの心衣領域は、獣のような爪状に形を変えた。

 両手の爪はまるで短剣のように鋭く、両足の爪は床をガッシリと掴んでいる。


「ふふ、互いに準備完了だね。それじゃ――」


 ミオンは俺たちの心衣領域を見て、大きく息を吸い込み。

 そして――試合は始まった。


「試合開始!」


 同時。

 俺と椿の姿が消える。


「――二人とも消えたぞ!」

「――なんだ、どうなってる!?」


 やっぱり肉体強化系か! 両足の爪からそんな気はしてた。

 俺のハンマーは三つ能力を持たせていて、その内の一つに所持者の肉体強化があった。それで先手を取ろうとしたが、椿も肉体強化を付与していたようだ。

 まぁいい。どっちも肉体強化を付与しているなら条件は五分だ。椿がどんなに速く動こうと捉えて……。


「……い!?」


 俺よりも速い――!?

 俺の周りを高速で俊敏に動く椿。

 俺は捉えきれなくなってきた椿の動きに翻弄される。

 そんな俺を椿の右爪が襲う。


「くっ!?」


 俺は咄嗟にハンマーの柄で受ける。

 衝撃が手に残る、重い一撃だ。

 俺は反撃しようとハンマーを振り下ろ――すの止めた。椿の姿が消えたからだ。

 一撃を加えた椿は再び俺の周囲を移動する。

 速すぎて狙いが付かない!?


「どう思いますか? ミオン様」

「ふむ、そうだね」


 いつの間にか体育館の端、人垣を分けて長机が設置されている。

 そこに座っているミオン。隣には女子生徒も座っている。

 ミオンはまるで解説役のように告げる。


「両者とも心衣領域を使って肉体強化を施しているね。しかし灰田くんに比べ、椿くんの方が肉体強化の点では優れている」

「ほう、それは何故でしょうか?」


 女子生徒が合いの手を入れる。

 ミオンは指を振る。


「椿くんの心衣領域は肉体強化の一点張りだからだよ。それに対して灰田くんは肉体強化の他にも能力を付与している。その差が如実に出ているね」

「なるほど!」

「まぁ肉体強化の重要性は見ての通りだよ」

「二人とも姿が見えませんが――」


 女子生徒の声を遮りミオンは続ける。


「ここで差がつくと、それだけで不利になるからね。今回の八人も半数以上の生徒が肉体強化を採用しているくらいだよ」

「なるほど!」


 相鎚を打つ女子生徒。

 ミオンはどこから出したのか、煎餅をパリっと食べる。


(あ、い、つ、ら……解説役のつもりかよ! こっちは死に物狂いだってのに!)


 俺は意気揚々と解説をしている長机の二人の方を横目で睨んだ。

 その隙をついて椿の爪が迫る。

 俺は柄で受ける。反撃する間もなく椿の姿が消える。

 椿は一撃離脱を徹底していた。

 逆に連続で攻め込まれ方が俺は辛かったが、そうしないのは……。


(俺の能力を警戒しているのか……)


 椿は俺の能力を知らない。

 肉体強化でこれだけ差が出ているということは、他に能力を振り分けているということだ。その能力が分からない内は慎重になっているのだろう。

 だが、相手の姿も見えないこの状況では他の二つの能力も……。

 いや……そうだ――使える。


「てぇえい!」


 俺はハンマーを振り上げて、力の限り振り下ろした。

 何も無いところで。

 ハンマーは勢い良く体育館の床を撃つ。

 次の瞬間、叩いた床がまるで生き物のように隆起した。

 床だったものは見る見る隆起していき、やがて一本の樹のように巨大になった。

 樹には枝のように無数の針が伸びている。まるで剣山のようだ。


「ふう……」


 俺のハンマーの三つの能力の二つ目。

 叩いたものの形を自在に変える力だ。

 周りの生徒たちから歓声がわく。


「もういっちょ」


 俺は走りだすと、また違う場所でハンマーを振り下ろす。

 そこでも同じように剣山を作り出す。


「たぁ!」


 俺は次々と床を叩いていき、体育館の中を剣山だらけに変えていく。

 体育館は今や剣山のジャングルだ。


「ほお……考えたね」


 解説席のミオンが呟く。


「と言いますと?」


 女子生徒が聞き返す。


「これは最高速度で負けている灰田くんが仕掛けた障害物だよ。これだけ剣山まみれになっちゃあ椿くんも全力で走り回れない。少しでも速度差を埋めようとしてうった手だろうね」

「なるほど!」


 ミオンの解説に、女子生徒が相鎚を打つ。

 俺は椿を探して走り出す。

 この剣山のおかげで、さっきみたいに俺の周りを走り回れないだろう?

 今度こそ……捉える!


「それがてめぇの能力か」


 椿の声が聞こえる。


(どこだ……!?)


 やがて俺は声のした方、体育館の上の方を見あげて、椿を見つける。


「な……!?」


 椿は……壁に張り付いていた。いや、張り付いているといか……両足だけで、両足の爪だけで、壁に立っていた――壁と九十度になるように。

 椿の両足の爪は体育館の壁をがっしりと掴み、椿の全体重を軽々と支えている。


「じゃあ俺には勝てねえよ」


 椿は壁を蹴って走り出し、その姿を消した。

 椿は体育館の壁を縦横無尽に走っている。

 見る見る速度が上がっていくのが風切り音で分かる。

 俺は走るの止め、その場で全方位を警戒した。


(くそ……これじゃ剣山の意味がない……!)


 やがて風切り音が変わる。

 俺は剣山の合間、視界の端に、こちらに向かって飛んでくる椿を捉える。

 椿は俺の背後から右爪で攻撃してくる。


「くっ……」


 俺は後ろを向くと同時に柄の柄で椿の右爪を受けた。

 だが、椿はすぐに左爪で連撃を放つ。

 椿の左爪が俺の右腹をえぐる。


「……!?」


 俺は痛みに耐えながらハンマーを振り下ろそうと――また、椿の姿が消える。


「くそっ……」


 俺は傷の様子を見る。

 かなり深く抉られていた。

 鮮血で制服が紅く染まる。流れ落ちた血がぽたぽたと床に流れる。

 この出血はマズイ……あと十数分もすれば失血で気を失うだろう。


「続けるか?」


 どこからか椿の声が響く。


「当然」


 俺は姿の見えない椿に即答した。

 俺の腹の傷からは、血が床に流れ続けている。


「じゃ、続行だ」


 椿の声がそう言うと同時。

 再び体育館の壁を縦横無尽に走る音が聞こえる。


(くそ……)


 俺は内心で毒つく。

 椿はどこから来るかは検討もつかない。

 体育館の壁を走り速度を上げ、そのままこちらに向かって跳躍しているのだ。

 俺は再び風切り音で椿の接近を察知する。


(今度は左か――!)


 椿は左方向から弾丸のような速度で俺の目前に迫っていた。

 俺は咄嗟に椿の右爪を柄で受ける。

 続いてくる連撃の左爪を後ろに飛んで躱す。

 が、椿はぴったりとくっついて跳躍してくる。

 そのまま左右の爪で連撃を繰り出してくる。

 やがて俺は柄で受けきれなくなり、椿の右爪を胸に受ける。

 幸いにして傷は浅いが、すぐに次がくる。


「……!?」


 俺の頭に衝撃が走り、吹き飛ばされる。

 ややあって椿の右足で蹴り飛ばされたのだと理解する。

 勢いよく飛ばされた俺は、体育準備室のドアをぶち破り、そのまま室内まで吹き飛ばされた。


「……ぐ」


 俺は体育準備室の一番奥、マットの上に吹き飛ばされたようだ。

 右腹から血が滲む。

 痛みでまともに動けない。

 俺は悔しさで歯ぎしりする。

 勝つと決めたのにこのざまかよ。

 俺の中に悔しさが噴き出てくる。


(……くそ……くそ……くそ)


 両手を握り締める。

 マットに思い切り拳を打ち付ける。


(ちっくっしょおおおおお!)


 俺は歯を食いしばる


(こんなんで……)


 椿はゆっくりと体育準備室の方へと歩いてくる。


(負けた……わけじゃねえぞ)


 痛みに耐えて立ち上がる。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 それは昔の話。

 今から八年くらい昔。

 まだ俺が小学一年生の頃の話だ。

 その頃、母は病院に入院していた。


「ねえ、母さん。いつ退院するの?」


 俺がそう尋ねると、母は困ったように数秒考える。


「そうねえ……あんたが良いお兄ちゃんになったらね」

「じゃあ……良いお兄ちゃんになるよ」


 俺は笑顔でそう答えた。

 俺は一つ下の妹の面倒をよく見るようになった。

 近所の悪ガキに妹が泣かされていたら、駆け付けてやり返してやった。


「それでね、あいつら妹を泣かしてたから、やっつけてやったんだ」


 俺は絆創膏だらけの顔で、笑って母に報告した。

 母は笑顔で喜んでくれた。

 俺は嬉しくなって、もっと良いお兄ちゃんになろうと思った。

 母が入院していて滞っていた家事も積極的に覚えた。

 料理、洗濯、掃除に覚えることはたくさんあった。


「それでね、佐代子に晩ごはんを作ってあげたんだ。毎日レトルトだと可哀そうだろう」


 俺は絆創膏だらけの手で母に報告した。

 母は笑顔でそっと俺の絆創膏だらけの手をとった。


「うん、偉いね……お兄ちゃんしてるね」


 俺はパアッと笑顔になった。


「じゃあさ……退院できる?」

「うーん……そうだねぇ」


 母は困ったような顔ではぐらかした。

 母を困らせたくなかった俺はそれ以上、聞けなかった。

 考えた結果……俺は良いお兄ちゃんを続けることにした。

 母が退院できると信じていたからだ。

 俺がもっと良いお兄ちゃんになればきっと――。


「……あら……来てたの?」


 病院で俺を迎える母は衰弱していた。

 痩せ細った体は以前とは別人のようだ。

 俺は自分の瞳に移ったものが信じられなかった。

 母はこんなにも細身だったか。こんなにも青白かったか。

 まるで生気が体から抜けてしまったようだ。


「……お、俺」


 喉がかすれて、うまく声が出ない。

 俺はつばを飲み込み、慌てて続きを話す。


「俺……良いお兄ちゃんになったよ」


母は笑顔で――それが笑顔だと気付くのが遅れたことがショックだった――笑って答える。


「うん……」


 掠れ声で母が答える。まるで母さんじゃないみたいな声だ。

 俺は震える声で続ける。


「い、妹をいじめてる奴が居たら、やっつけてやった……」

「うん……」

「料理も頑張って覚えたよ……」

「うん……」

「洗濯も掃除も……」

「うん……」

「だから……」


 だから退院できるよね、そう続けようとして……先が言えなかった。

 答えを聞くのが怖かったのだ。何か開けてはいけないものを開けるようで、怖かったのだ。

 俺は先を言えずにうつむいた。


「ねえ……」


 うつむく俺に母が話しかける。

 俺は重たいもの持ちあげるように顔を上げた。


「お母さんね……あんたが良いお兄ちゃんでいてくれて……」


 母は俺の方をじっと見ていた。


「とっても……嬉しかった」


 その言葉が耳に入ると、何か熱いものがこみ上げてきた。

 胸の中が何だか分からない感情でいっぱいになった。


「あんたが妹の面倒を見てくれるなら……お母さんも安心できるよ」

「お…おれ……」


 俺の声は涙声になっていた。気が付くと頬を涙が濡らしていた。

 俺は慌てて両手で涙をぬぐう。


「ねえ……これからも良いお兄ちゃんで居てくれるかい?」

「…………うん」


 俺の答えを聞いて、母は安心したように笑顔になる。


「それなら良かった……お母さんも安心だよ」


 母はまるで自分が居なくなった後のことを心配しているよだった。

 俺は涙でふやけた視界と、熱いものがこみ上げてる胸の中とでいっぱいいっぱいだった。

 その五日後……母が亡くなった。

 母の死に泣きじゃくる妹を見ながら、俺は自分がしっかりしなければという思いがわいてくる。

 俺は今まで以上に良いお兄ちゃんであろうと心に決めた。

 その三年後、妹が入退院を繰り返すようになる。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私は死なないから」


 最初の頃こそ、そう言って笑っていた妹。

 妹まで死ぬなんてことがあるだろうか……いいや考えすぎだ。

 俺は一抹の不安を抱えながらも、妹の世話に奔走した。

 父親は母の死後、仕事に打ち込むようになって、あまり顔を出せない。

 俺がしっかり面倒を見てあげなくちゃ。


「佐代子には、兄ちゃんがついてる。だから大丈夫だよ」


 俺は妹の面倒をみた。お土産を頼まれれば勝ってきた。

 着替えが必要なら家から持ってきた。

 学校の勉強が遅れているのを気にしてそうな時は一緒になって勉強した。

 あまり頻繁に顔を出すので、看護師さんにもすっかり顔を覚えられた。


 それから数年が経ったが、妹の病気は一向に良くならなかった。

 入退院の期間はだんだんと短くなっていき、やがては入院しっぱなしになった。

 最初は元気だった妹もだんだんと様子が変わってきた。

 俺の前では元気だったが、看護師さんや医者の前では……無表情に……無反応になるのだ。

 そして先日、医者から妹の余命が――あと半年であるが告げられた。


「…………」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の耳に耳鳴りのような音が響いた。

 医者が続けて何か話していたが、一切聞こえなかった。

 気付くと俺は交差点に立っていた。

 いつの間にか病院から帰宅する途中だったらしい。


「…………」


 このまま道路に飛び込めば、妹と一緒に天国へ行けるのだろうか。

 そんなバカみたいな想像が頭をよぎる。

 だけど今の俺は、その想像がバカだとは思えなかった。


「お兄ちゃん、しっかりしなよ」


 見舞いに行った先で妹にどやされた。

 俺の前では元気に振る舞うのか。


「いつまでもそうやってくよくよしてないで!」


 好きな本も最近では読まなくなったのを知っている。


「元気だして、ほら!」


 俺のいないところでは、元気がなくなるのを知っている。


「――なんで」


 たまらずに俺は聞いた。


「なんで……あと半年だって……お前……俺は、もっと……」


 色々な感情が入り混じり、順序もなく口から飛び出した。

 聞いてる側からすれば、意味が分からないだろう。


「俺は……ちゃんと」


 良いお兄ちゃんだったか……そう聞こうとして聞けなかった。


「ほらほら、しっかりしてよね。そんなんじゃ彼女も出来ないよ」


 妹の言葉が遠くに聞こえる。

 どうして妹が死ななくてはならないのだろう。

 もしも神様が居るなら妹を救ってほしい。

 俺のできることなら何でもするから……何でも。

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