選ばれし者
近衛社長と倉林、そして俺は洞窟の中に敷かれた茣蓙の上に正座させられていた。八重がプレゼン・スクリーンの前に立つ。
「さて、人間の記憶というのは曖昧なものです。皆さん、ひとつ実験してみましょう。先日、私たちが恐ろしい目に遭った観光ホテルの隣の家の屋根の色は何色でしたか?はい、近衛社長」
「あ、赤だったかな」
「違います、倉林さん」
「緑っぽかったような・・・」
「違います。やっぱり、全然覚えていませんねぇ。念の為、森田さん」
正直、結構覚えている。北に移動するに伴い、屋根の色が黒とか多くなっていたのに興味を覚えていた。隣の家の屋根も黒かったと記憶している。
「黒でした」
「残念、違います。チャーコール・ブラックでした。皆さん、記憶の曖昧さを実感できましたか?」
黒じゃねぇか。しかし、突っ込める雰囲気ではない。小学校で教師の期待するように間違った答えを言わないと、教師の覚えが著しく悪くなることがある。ここは何も言わないのが吉と見た。
八重がスライドに近衛社長の写真を映し出した。
「今日は皆さんの不明瞭な記憶を整理したいと思って、このセミナーを開講しました。決して、皆さんの記憶を改ざんしようとしているのではありません。整理して欲しいのです」
確か『白い巨塔』とかのリメイク版で、医療過誤専門の悪徳弁護士が使っていた言葉だ。こりゃ抵抗するだけ無駄だろう。
「近衛社長、あなたはこの私、八重と夫婦になるためにはどんな困難も乗り越えて見せると言いました」
「い、いゃぁ~、そこまで言ったかなぁ。慌ててたから自信ないけど~」
「はい。あなたの記憶は曖昧ですね。整理してください」
満足そうに話の展開を見守りながら、葛葉が倉林を横目で睨んで言った。
「運命の絆ってあるのよね。倉林さんは私が運命の人だって気付いていたのよね?なんか大事なものを思い出したのよね?」
倉林が恍けて応じる。
「き・・・、君の名は。」
キレたヤンキーの姉ちゃんみたいに怖い目で葛葉が振り返り、辺りの狐火が激しく燃え上がる。倉林が慌てて言い添える。
「葛葉って呼び捨てでもいいの?もっと甘えた雰囲気でも良いかと思って。『クーちゃん』とか。でも、葛葉って呼び捨ても良いかな?」
葛葉が不気味な笑みを浮かべる。
「葛葉って呼び捨てに決まってんでしょ。私はあなたのもの。・・・あんたは私のものよ」
「・・・だ、だよねぇ」
結局、俺達三人はあることないこと詰め込まれたプロポーズをしたように記憶を整理させられてしまった。オーバー・ウェイト気味の老人にとって、正座ほど厳しい拷問はない。長時間の取り調べの後に得られた自白が重視されるこの国の裁判制度は、やはり間違っていると心から思った。
◇
深夜の駐車場で老人と呼ばれる年齢に片足を突っ込んだような親父がシャドウ・ボクシングのように突き蹴りを繰り返す。
戦わなければならない何かを想定したような動きだが、何と戦おうとしているのかわからない。もっと電灯に近い、明るいところでやれば良かろうに、男は自分を鍛える姿を恥じるように、電灯の照らす灯りの外れでひたすら拳を振るう。
ただ、より速く、より強く、自分の身体をひたすら痛めつけるように。何かの罪を背負ったが如く、ひたすら老体に鞭を打つように動き続ける。
男が廻し蹴りを放つと同時に膝をついて蹲る。膝を痛めたのか。玉藻が真言を込めて野孤に命ずる。
『何をしておる。治癒の呪文を唱えよ』
しかし、野孤達は動かなかった。男がひとりヨロヨロと立ち上がり、膝の動きを確認している。
まだ大丈夫と判断したのであろうか、男が再び宙に打ち込みを始めた。
男の痛みに心を震わせた玉藻がもう一度真言を唱えようとしたとき、後ろから威厳を伴う天帝の声が響く。
『野孤達は漢の魂に心を捕らえられたのじゃ。叱ってはならぬ』
暗闇の中に天帝の影が浮かぶ。哀しげな表情を浮かべて。
『玉藻、主に詫びねばならぬことがある』
玉藻は男のことを言っているのだと直感で感じ取り身構えた。
「あの男は妾のもの。天帝と言えど、あの男を妾から取り上げると言うなら容赦せぬ」
玉藻の周りに狐火が燃え盛る。
『取り上げなどせぬ。ただ、あの男の魂は、お前が求める権爺の魂ではない』
天帝の話によれば、昔、邪悪な勢力が魂の輪廻を妨害したことがあったという。権爺の魂はその妨害工作で消滅するところだったらしい。
しかし、権爺の魂は消滅する危機の寸前で、狼の勇者の魂と交わって再生することが出来たという。
大切な何かを守りたいという心が共鳴したらしい。そして生まれたのが森田だった。
歴戦の野孤の魂と、狼の勇者の魂が交じり合わば、さぞかし優秀な魂が生まれるものかと思われた。
しかし、1+1が2にならないのが世の常。生まれ出た森田は平凡極まりない男だった。
何をやっても人並み以上にならぬ森田。しかし、及ばぬ力に何度打ちのめされても、森田は諦めなかった。
ひたすら不器用に武道と学問を究めようと努力し続けた。
男として最も煌めく20代、30代の人生を、森田は人一倍努力したにも関わらず、二流の男として生きていかざるを得なかった。
努力が実り始めたのは40代中頃、誰も見向きもしない中年になってからだった。
そして今、50代に入った森田は、誰にも認められることなく、力を失いながら人生の終盤を孤独に生きている。
仮に森田の精を玉藻が宿したところで、安倍晴明のような華々しい人生を歩む子が生まれ落ちるとは思えない。
むしろ、貧乏クジばかり引く冴えない男に終わる可能性が高い。
『玉藻、お前は十分に苦労した。お前が失望に満ちた森田との人生を生きていくのを見過ごすことはできない』
天帝は玉藻に森田を捨てよと言った。玉藻の周囲に狐火が燃え盛る。
「馬鹿言ってんじゃないわよ。良い漢ってそういうもんでしょ。あの漢は妾のもの。
仮に狼の眷属が戦いを挑んで来るならば、妾は全てを犠牲にしてでも戦って見せる。それが良い女ってもんでしょ!」
狼の一族と事を構えようとも引き下がらぬという玉藻の意志を聞いて、野孤の一族が鬨の声を上げる。
(あちゃー、フラグが立っちまった)
天帝は何も言わずに心の中で、近い将来の狼と妖狐の決戦を静かに憂いた。
◇
喫茶店『アルトカイール』のカウンター内には、葛葉がエプロンを着て入り込み、甲斐甲斐しく手伝っていた。
倉林は既に状況を達観しており、ひたすらコーヒー豆を挽いている。
突然、葛葉が険しい顔をしながら鼻を鳴らす。
「狼臭い。狼のビッチがこの近くに寄ってきた。あんたら、抜かるんじゃないよ!」
レディースのヘッドのように、葛葉が玉藻と八重に檄を飛ばす。
程なく店のドアが鐘の音とともに空いた。やや濃い顔立ちだが美しい女子高生風の少女が中を覗く。
ただでさえ敵に回ったら厄介な狼の眷属。しかも、女子高生風とはさすがの葛葉も顔が恐怖で強張った。
「あのぅ・・・、森田さんっていう方はいらっしゃいますか?」
玉藻が毛を逆立てて唸る。葛葉と八重は宿敵『女子高生』の狙いが森田だと聞いて胸を撫で下ろした。
森田は、・・・毛を逆立てさせる玉藻を見て静かに笑った。
本当に俺の冒険はまだ続くようだ。
やっぱり期限内の推敲は難しいですね。
書きたかったことは、もっといっぱいあったんですが・・。
駄文にお付き合い下さりありがとうございました。