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深まる絆

今日はバイクで通勤することにしたのだが、何故か他の車が俺のバイクを優先するように道を譲ってくれる。信号も全て都合の良いように変わる。


どうも今日はかなり運勢が良いのではと考えながら、近衛不動産超常現象検証機関の前にバイクを止めた。


事務所に立ち寄りiPadを持ってアルトカイールに向かう。鐘の鳴るドアを開けると、倉林が俺をみて蒼褪めた。


「やっぱり森田さんも・・・」


喫茶店の中はいつもと雰囲気が違う。そういえば玲子がいない。近衛社長が煙草を吸いながら真面目な顔をしている。


「玲子は昼まで不動産屋の葛西婆さんのところで調べものをしてもらう予定だ。昼飯時には帰ってくるだろう。少し男同士で相談しようと思ってな」


近衛社長と倉林によれば、俺達は三人とも狐に魅入られているという。


まぁ、昨日のことで本当に妖狐かもしれないと思い始めているが、落ち着いて考えれば悪い話でもあるまい。


「仮に葛葉さん達が妖狐だったとして何が問題なんですか?妖狐だったとしても、いい女には違いないでしょう。獣耳少女とか気楽に考えりゃ・・・」


倉林が激高する。


「森田さんは問題のポイントがわかってない。相手は狐ですよ」


近衛社長が鋭い視線で睨みながら、言葉足らずの倉林を補足する。


「狐は情が深い。相思相愛なら尽くすタイプのいい女だろうが、遊びで付き合ってたら命がいくつあってもたらん。


あいつらは互いに束縛する愛を好む。自由は無くなると覚悟しなきゃならない。


まずはAVとかエロ本とかは全て処分されるだろう。風俗なんかもってのほか。街でちょっと他の女に色目を使っただけで、厳しい制裁がある。それでもいいのか」


喫茶店の中に戦慄が走り。一瞬、俺も息が止まった。しかし、三人同様ではなく、倉林だけが別格で危なかったんじゃなかったのか?


倉林がニヤリと笑い俺を見つめる。


「確かに昨日まではね。でも、今朝の森田さんからは、強烈な野弧の臭いがするんです。場合に寄っちゃ俺よりやばいかもしれない?」


「んっ、・・・加齢臭とかじゃなくて?出来るだけ頻繁にシャワー浴びるようにしてるんだが」


俺は慌てて自分のシャツの臭いを嗅ぐ。別に現実逃避してるわけじゃないぞ!!


倉林が呆れたように言った。


「霊的なもんです。加齢臭じゃありません。それよりアパートで情を交わしたりしてないでしょうね。狐は情が深いから、一度情を交わせば生涯逃れられません」


「馬鹿な。情なんて交わした覚えなんかねぇ。昨日は偶々玉藻を助けたことになったが、手も握ってねぇぞ」


俺が渋々昨夜の顛末を話すと、近衛社長が眉間に皺を寄せながら真剣に呟く。


「さすが森田ちゃん。手も握らずに妖狐を逝かせたか。俺が見込んだ通りだ」


「冗談抜きで肉体関係持つよりやばいことになってます。安倍保名も狩人に追われた白狐を助けたのが葛葉とのなりそめと言われてます」


俺は玉藻の顔とスタイルを思い浮かべた。結構、俺好みだ。妖狐とか面倒な話がなければ、求められて断る理由などない。


そもそも女が男に執着するのは、女の美しさが永遠ではないからだ。玉藻ほど美しければ、選ぶ男は選り取り見取りだろう。


適当に遊んでおけば、あっちから別の男に目移りしてくれるかもしれない。


しかし、好んでリスクを抱え込む必要もない。


「ヘヘヘッ、ここで『やめてくれ、俺は何もしちゃいない』とかいったらフラグが立つんだろ?


そうだ、『玉藻は俺好みのいい身体してやがる。同じバイク乗りだから上手くい堕とせそうだ。精々楽しませてもらうぜ』これでどうでぇ?


リバース・フラグだ。これで万にひとつも縁が結ばれることはあるめぇ」


興奮すると何故か俺は昔から『べらんめえ口調』になっちまう。しかし、その手があったかと倉林の顔が明るくなる。


「『葛葉とか言う女、良い身体してやがる。逃がす気はないぜ』こんなもんか?」


慌てて近衛社長もリバース・フラグを立てる。


「『八重はもう俺のものだ。誰にも渡さねぇ』と、こんなところか?」


野球部員のように円陣を組み脳筋な気合いを入れる。


「俺達ゃ絶っ対ぇ負けないぜー!」


「「「オウッ!!」」」


当面の方針が決まって各自飯を食い、煙草とコーヒーで優雅に寛いでいると、喫茶店の前に刀のエンジン音が響いた。


時計を見るともう昼時だ。玉藻が喫茶店に入ってくるより先に、葛葉と八重が玲子と一緒に喫茶店の扉を開ける。こちらは歩いてきたて玲子と道で会ったようだ。


アパートからなら徒歩よりバイクの方が時間がかかることもある。


「いろいろと相談したくて来てしまいましたわ。何か準備で手伝えることってないかしら」


葛葉が思慮深い大人の女の雰囲気でそう言ったが、その目は倉林しか見ていない。すたすたと歩いて倉林の真正面のカウンターに腰を下ろす。


一方、女子力の高い八重は、近衛社長を落とすには、まず玲子を落とすべきと看破したようだ。玲子に近付き東北の伝承と観光スポットを対比する作業を一緒にしないかと誘う。


「民俗学では一見低俗な土産物なんかにも意外な真実が隠れていることが多いの。全部を洗い上げることは出来なくても、玲子さんの目に留まった特産品とかを中心に調べていくのも存外効率的なのかもしれないと思うわ」


仕事の振りをしながら観光スポットや名物を存分に調べる大義名分ができて玲子は乗り気であった。玲子が落ちるのは時間の問題だろう。


玉藻はいつの間にかヘルメットを抱えて俺の近くに座っていた。なんとなく喫茶店内も剣呑な雰囲気だ。俺は上手く退散することを目論んだ。


「まあ、それなら皆さんでスケジュールなんかを見直していただければ、・・・僕は裏野ドリームランド周辺で聞き込みをしてみようと思います」


葛葉は満足そうに倉林にスケジュールを確認し始めた。倉林が俺を睨んでるような気がするが、気にしても仕方がないだろう。


近衛社長が隠してあった灰皿を持ち出し、煙草を吸い始めた。煙で狐を燻り出そうとしているのかもしれない。


俺が席を立とうとすると、玉藻が突然言った。


「私も裏野ドリームランドについていく。霊能力がある方だから、きっと役に立つ。バイクで来たから大丈夫」


慌てて俺は抵抗する。


「一緒に来てもらえるなら有難いが、お腹も空いているんじゃないか?マスターの作る料理を見逃す手も無いんじゃないか?マスターは料理の達人だ!」


「アパートでパンを食べた。次は夜で大丈夫」


あっさり提案を却下され、俺達三人はマン・ツー・マンでマークされることになった。不味い。



事務所に戻って万一のインタビューに備え、メッシュ・ジャケットの襟口に小型ボイスレコーダーをセットする。


ヘルメットを持って下に降りると、既に玉藻の刀が俺のバイクの後ろで待っている。行けるかと手で合図すると、玉藻はサムアップで答えた。


かなり急に加速するが、玉藻は流れるような動作でバイクを操りついてくる。昨日、玉藻が見せたバイクの腕を思い出せば、振り切るのは無茶な話だ。


本気になれば勿論振り切れるぞ。本当だ!俺の方がセンスはあるんだ。ただ、今朝はちょっとアキレス腱が痛かったから用心しただけだ。別に信じなくても構わないが、ちょっと念の為に言っておいただけだ。


裏野ドリームランドは駐車場に乗り入れ、辺りを見回すが警備員の詰め所のようなものは見当たらない。


玉藻が『どうするの?』と問いかけるような顔を向けてくる。


「敷地内に入ってみよう。誰か敷地の中にいる人がいたら、さりげなく話しかけてみるんだ。何かヒントになるようなことを知っているかもしれない」


玉藻は暫く宙を見つめるようにしていたが、直ぐに振り返りこっちに人影が見えたと指さした。



玉藻が真言で野弧達に語り掛ける。


『敷地内に誰かいないか調べよ』


野孤達が敷地内を飛び回る。


(白狐様、ひとり見つけました)


(ミラー・ハウスの前のベンチに老人が座っておりまする)


(他に人はおりませぬ。呪詛の残骸は気配として残っておりますが、何の呪詛であったかはわかりませぬ。ただ、害はないものかと)


『ご苦労。森田の身に災厄が降りかからぬよう、引き続き監視を強化してもらいたい』


(承知)


(承知仕った)


(玉藻様、いと弱き地縛霊が一体おりました。害はないと思いましたが、念の為、しばいて追い出しておきました)


次々と野孤が行動の成果を玉藻に報告する。因みに少女の地縛霊は昨夜のうちに野孤が老婆の夢枕に連れたって訪れた後に成仏させている。


見事、天寿を全うすれば、老婆も娘と極楽浄土で再び逢えるであろうと伝えると、老婆は涙を流しながら両手を合わせた。


感謝した老婆が朝一番で早起きの豆腐屋から油揚げを大量に購入し、稲荷神社に奉納してくれたから野孤はやる気満々だ。


哀れな娘の霊は既に成仏しているし、野孤達に手加減する理由はない。手当たり次第に地縛霊をしばいていく。


(なんだ、コラッ。おめえら誰に許可とって地縛霊やってんだ?)


哀れな地縛霊たちは次々と浄化されていった。


『ご苦労。無茶するでないぞ』


(((ハ、ハァッ)))


野孤達は元気に返事したが、理解したのは『ご苦労』の部分だけで、『無茶するでないぞ』は文法的にもちょっと難しいので、あっさりスルーした。


玉藻はにっこり笑って森田をミラー・ハウスまで案内する。途中にいた地縛霊たちにとっては、とんでもない災厄であった。


平和に過ごしていたのに、いきなり現れた野孤達に因縁を付けられ、住処を追い出されていく。


森田はさながら中国近海を牽制する米海軍第七艦隊のように、周囲を野孤達の駆逐艦に守られながら、平然と裏野ドリームランド敷地内を進んでいた。


中国の陰陽師がこの姿を見れば、武力に物を言わせた暴力だと非難することは間違いない。


裏野ドリームランド敷地内は地縛霊が浄化され、まるで聖地か教会の中のような神聖な空気に満ちていく。森田は不思議な感覚に戸惑った。


やがてミラー・ハウスの前のベンチに座る老人に目が留まるが、老人の周囲は暗い雰囲気が徐々に晴れていき、森田には老人が日向ぼっこをしているのどかな風景にみえる。


但し、それは森田には見えないだけで、引き続きその周囲では老人の負の感情に引き寄せられた地縛霊たちを野孤達がしばいていた。


(オラオラ、どういう了見だ?はぁ?ここには白狐様がデートにいらっしゃるんだ。お前のような三下の地縛霊が居ていい場所じゃねぇんだよ)


(はぁん?何ぃ?三途の川の渡し賃がねぇ?跳ねてみな。そう。今音がしたよな。そっちのポッケの中を見せてみろ。あんじゃねぇか、てめえ俺を舐めてんのかぁ?ボケッ)


(何じゃこりゃ?ポッケの中に金が入っていたのに気付かなかった?じゃあ、こりゃ落とし物だな?半分は見つけて届け出た俺のものだ。稲荷神社の賽銭ってことで良いな?心配すんな。三途の川の渡し賃なら十分残ってんじゃねえか)


昨日までは不良が許せないと憤っていた野孤たちとは思えない。その行動は正に不良そのものだった。


まぁ、多少の逸脱はあっても仕方あるまい。所詮は獣である。


玉藻もある程度は理解しているものの、野孤達が平気で『玉藻様のデート』とか、『玉藻様の男』だとか、連発するのは恥ずかしい。何故、恥ずかしいのかわからないが、顔が赤らんでくる。


真に不思議なことではあるが、女というものは周りがはやし立てるだけでその気になる生き物である。


白狐という超越した存在であるはずの玉藻も所詮は女、周囲で『玉藻様のデート』とか、『玉藻様の男』だとか言われて、すっかりその気になってきた。


『お前たち、気持ちは嬉しいが無理するでない。妾は自然に時が来るまで待てばよいと思っている』


玉藻が真言に乗せてメッセージを野孤達に送る。しかし、獣の野孤達には通用しない。


(これは姉さん、お見苦しいところをお見せしました。オラ、手前がのろのろ成仏しねぇから姉さんに見つかっちまったじゃねぇか。


三つ数える間に成仏しろ。ホラッ、三途の川の渡し賃はポッケから見つかっただろう?)


およそどんな土地でも地縛霊の一体や二体は必ず存在する。しかし、野孤達が全ての地縛霊を追い出してしまうものだから、裏野ドリームランドの廃墟は聖地並みの清浄さに包まれることになった。


森田の気付かないところで、光に包まれた幼児が老人に駆け寄る。


(おじいちゃーん。会いたかったよ。天帝様が心配して会いに来ることを許して下さったんだ)


天帝様は爺を心配したわけじゃあるまい。ヒートアップして聖地並みの清浄な空間を考えなしに作る、野孤の所業に懸念があっただけだろう。


「翔太、翔太なんだな・・・。会いたかった。どうして爺を置いて行ってしまったんだ」


老人の目から大粒の涙が零れ落ちる。


(ごめんよ、爺ちゃん。でも、天帝様が言うには僕の寿命だったんだ。悲しいことも乗り越えて天命を全うすれば、必ず大切な人にまた逢えるんだって。だから、爺ちゃんも頑張って生きてね)


静に涙を流す老人の手を玉藻が取って言った。


「翔太に逢えるように頑張って生きよう。翔太が待ってる」


小娘の玉藻が自愛深き聖母のように見えた。森田の心が何故か締め付けられる。この不器用な聖母をどこかで見たような気がする。


森田の目の前で老人が玉藻の手を握って泣き崩れた。


話を聞けば老人には翔太という遠縁の少年がいたらしい。高度成長期の集団就職で都会に出てきた老人は、若い頃をひたすら働き続けたために女房子供がいない。


時折、老人を頼って東京まで出てくる兄の孫にあたる翔太を実の孫のように可愛がっていたという。


実際、下町の近所の住人には、俺の孫だと翔太を紹介していた。


あの日、大揺れに揺れた下町のアパートで、慌ててテレビを付けたら、遥か昔に捨てた故郷の漁村が映し出された。


帰りたくても帰れない遠い昔を象徴する漁村。それが信じられないような津波に襲われている。


何かの特撮映画ではないかと疑ったが、それが老人の慣れ親しんだ町の姿だとテレビは伝える。


慌てて老人は電話を取って親戚の安否を確認しようとするが、回線が混雑して一向に繋がらない。


誰か俺の可愛い孫を助けてくれ。代わりに死ななければならないと言われれば、いつでも喜んで死ぬ。あんな津波に巻き込まれたら、あの子は万にひとつも助からない。


必死に祈っても誰も答えてはくれない。自衛隊の出動は見合されて、代わりに誰かとも想像つかない隣国の救助隊が現地に向かったとテレビでは報道されていた。


何とか日本語を話す自衛隊員に助けに行ってほしかった。海岸に行って、孫の名前を呼んで探してほしかった。


築地のトラックの運転手に、東北まで連れて行ってもらえないかと頼んだこともあったが、済まなそうな顔で高速道路が繋がっていないと言われるだけだ。


何が起こっているのかわからない。テレビでは道路は順調に復旧しているという。なら、なぜ誰も助けにいけない。


やがてガソリンが不足し、日用品が店頭から姿を消す。テレビでは東京の人間が買い占めするから、被災地に送る救援物資も不足していると女の国会議員が言っていた。


何も知らない老人は、近所の人たちに頭を下げて回った。


「お願いです。孫が被災地にいるんです。買い占めはしないで下さい」


誰もが老人を憐れんで、決して買い占めはしないと約束してくれた。それでも品不足は解消されない。


テレビでは東京の者たちが悪いと政治家が言う。何をすればよいのか、もうわからなくなった。


森田は老人の話を聞きながら思う。この国は病んでいる。自然災害に人間の力は無力に等しい。しかし、自然災害に苦しむ人々を傷付けたのは、間違いなく人間だった。


やがて老人は憑き物が落ちたように柔和な顔になり、精一杯生きなきゃねぇと言った。


森田と玉藻はアルトカイールに戻った。森田は沈みがちに社長と倉林に老人のことを報告する。


玉藻が老人の思念が道標となって呪詛を招き入れた可能性もあると付け加えた。倉林は寂しそうに、その可能性は大いにあるなと言った。


「ジムに行くから早めに帰ります」


落ち込みがちな森田に、玉藻が心配そうに話しかけてくる。


「この辺りスポーツ・ジム?」


「ああ、老人ばかりのスポーツ・ジムだ」


玉藻がそこに行きたいと言った。



俺が普段通うスポーツ・ジムは決して玉藻に勧められるののではなかった。


温泉とプールの他にエクササイズ・マシーンが並び、売り物は格闘技の動きを取り入れたエアロビクスのプログラムが売りの沿線を外れたジムだ。

ほんの3カ月前までは、見事な肉体美を誇る体育大を卒業したばかリの女性インストラクターが格闘技エアロビクスのプログラムを担当していた。


この女性インストラクターのタンクトップはやや緩く、調子に乗って動きを大きくすると横から生乳が見えることで知られている。


更に、汗をかくと透けて見えるというおまけ付きだ。


(まもなく格闘技を取り入れたエアロビクスのクラスが開催されます。参加される方は、体調によく注意し、決して無理のないようにしてください)


若い女性インストラクターが担当することになると、気合の入った爺たちが怪我をしないよう、ジム側が念の為に放送するのだった。


その館内放送があると爺たちのストレッチに突然気合が入る。アキレス腱を切らぬよう脹脛のストレッチは勿論、高く蹴った時に負担が来る膝裏や股関節も念入りに伸ばす。


レッスンルーム内の踊る場所は実力により決まる。センターは最も鋭く動ける若者が陣取る。AKBと同じだ。


動けない年寄りは後ろの方になるから、みな老眼鏡は外している。年寄りたちは猛禽のように遠くを見つめていた。


互いの顔はいまいち覚えていない。爺たちは老眼で近くは見えない。しかし、野生の本能で互いの実力はわかる。ポジションは存外簡単に決まる。


正面に向かってジャブ、クロス、アッパー。すかさず左を向いてもうひとつアッパー、正面を再び向くときにフックを鋭く打つ。


この時、水平に打つ腕の合間に生乳が見える。


正面を見続けることは許されない。『だるまさんが転んだ』と同様、各人が高いモラルをもって行動することが期待されている。


何故だかしらんが、爺たちはそのルールを忠実に守っていた。


因みに体育大学の生乳は要求水準が厳しい。生半可な動きをしていると先生が盛り上がらず、生乳は拝めないことは勿論、汗をかかなければ透けて見えることもない。


プログラムは半ば儀式化しており、俺達は美の女神に魂の踊りを捧げる妄信的信者であった。プログラムが終了するころには、全ての爺たちが燃え尽きて真っ白になる。



ここ暫くは体育大のおっぱい、・・・じゃなくて女性インストラクターがお休みしている。爺たちはそれでも忠犬ハチ公のように毎日ストレッチを続けて待っていた。


玉藻には念の為、あまり良い雰囲気ではないかもしれないと言っておいたが、それでも構わないと言う。


別に乱暴されるなどはないだろうし、もう子供というわけでもあるまい。


アパートに帰って着替えを用意し、玉藻と一緒にいつもより早くジムに行った。


受付の若い男性インストラクターは若く美しい玉藻を大喜びで迎えた。


会員証用の写真を取り、ロッカーなどの使い方の説明を受け終わると、もう直ぐプログラム開始の時間が迫っていた。


着替えて女性更衣室の前で玉藻を待っていると、真っ白なジム・ウェアを着た玉藻が出てくる。スポーツ・ブラのようなセパレーツのトップ、ヨガパンツのように身体に吸い付いたボトム。縫製された部分に細い黒い線がアクセントとして走っており、柔らかな身体の線を見事に強調している。


同時に館内放送が流れた。


(まもなく格闘技を取り入れたエアロビクスのクラスが開催されます。参加される方は、体調によく注意し、決して無理のないようにしてください)


どうやら女性インストラクターも久々に登場するらしい。突然現れた玉藻に目を奪われていた他の爺たちも、いよいよストレッチに気合が入り始める。


玉藻は自然とセンターに押しやられていった。やがて現れた美の女神は、玉藻の姿を認めると顔をこわばらせる。自らが司祭する美の儀式が乗っ取られる危機を感じたようだ。


それからプログラムが終了するまでの45分間は、神々の黄昏に匹敵する恐ろしい時間になった。


玉藻に対抗心を抱いた美の女神はいきなり飛ばし始め、全身を汗だくにして踊り狂う。


体力のない爺たちは息を切らし、既に限界を超えているのだが、美の女神のタンクトップが汗で透けて見え始めているために止めようにも止められない。


更に玉藻がその踊りに見事について行き、これもまた邪教の儀式を思わせるような妖艶な踊りであった。因みに玉藻のウェアも汗で全体的に透け始めている。


音楽は洋楽が中心だったはずが、いつの間にか力強い和太鼓のリズムに変わっており、照明が明滅し始め、時折野孤の影が壁や天井に映る。


老人たちは太鼓のリズムに合わせて身体が強制的に動かされているように感じた。猫又が人間たちを躍らせるように、野孤たちが玉藻を讃えるために老人を操っているらしい。


俺も普段より深く、強く、正拳や蹴りが繰り出されるのに戸惑った。


最後の曲が終わり、汗だくになった美の女神と玉藻を見て、老人たちは報われた苦しみに歓喜した。


ゆっくりと風呂で汗を流してくると良いと玉藻に伝えて男性更衣室に入ると、俺はVIP待遇で迎えられた。玉藻を連れてきた功労者として崇められているようだ。


「兄貴、お疲れ様です。ささっ、まずは温泉で汗を流してスッキリして行って下せえ」


老人から中年まで、下にも置かない歓待ぶりである。


「先程のお嬢さんはこれからも毎日いらっしゃる?ほう、来週から2週間は出張の予定がある。そりゃ、残念だ。


しかし、その後はまた来ていただけるんですよね。まぁ、今週中は明日もいらっしゃるかもしれねぇんですね」


口の上手い営業職の親父が湯船の中で情報を聞き出し、その周りを老人たちが囲む。皆、耳がダンボのようになっていた。



森田と玉藻がジムを後にすると、狐火がジムの屋上に灯った。野孤達が互いに労をねぎらう。


(いや、久しぶりに玉藻様の舞を見せていただき、年柄もなく張り切ってしまったわ)


(おなごの司祭と爺たちは大丈夫だったかのぉ。燃え上がってかなり無理に躍らせてしまったが)


(心配無用、我が肉体強化の術を施しておいたわ。ついでに今夜は治癒の術を施し、以前にもまして健康にしてくれるわ)


(良い考えじゃ。司祭の娘と爺どもがおらんと、儀式が執り行えなくなるからの。どれ、玉藻様の男は夢の中で更なる肉体強化と治癒を繰り返しておくか)


こうして強化された爺たちは、のちにシルバー・オウル(銀のふくろう)と呼ばれる自警団を結成した。睡眠障害のために街を徘徊していた老人は、強い老眼の目でアパートの非常階段などから街を見下ろす。


夜道で帰路を急ぐ娘達に悪さをしようとする不良や、子供達の安眠を妨害する暴走族が現れると、老人たちが猛禽のように非常階段から舞い降り、肉体強化で鍛え抜かれた体術で撃退する。


既に棺桶に片足突っ込んでるような爺たちだ。死を恐れても仕方がない。達観し本能のままに襲い掛かってくる屈強な老人たちは、無頼漢たちを恐怖に陥れた。


『あの街は徘徊老人が多くて危なっかしい。近づいちゃならねぇ』


いつしか街は暴走族の周回コースから外されるようになった。街を守る稲荷神社の野孤たちの喜びようはなかったという。



俺はその夜、恐ろしい夢を見た。野孤達が恐ろしい形相で俺に腕立て、腹筋、スクワット、ジャブ、クロス、アッパー、フック、前蹴り、廻し蹴り、後ろ蹴り、足刀蹴りを順々に50回ずつこなすことを強要する。動けなくなっても、俺の身体を操って無理やり続けさせる。


無理な動きで筋肉が引き千切れる痛みを味わい、それが限界に達すると治癒魔法をかける。治癒魔法は異様に痛いのだが、野孤達は超回復で筋力が上がったとか言って喜ぶのだ。


苦痛のあまり発狂しそうになったところで、玉藻が現れて助けてくれた。俺は玉藻の膝に縋って泣いた。


この年になって泣きながら目を覚ますのは恥ずかしい。一人暮らしで本当に良かったと思う。


服を着替えるとベルトが余っているような気がする。というより、全体的に身体が引き締まったように感じる。


しかし、最近太って普段着はぱっつんぱっつんの状態だったから、服のサイズには違和感がない。ライディング・ジャケットなど、ジッパーを引き上げてもいい感じにゆとりができた。


気分を良くしてアルトカイールに行くと、皆が恐ろしいものを見たように蒼褪める。


玲子が悪さをした幼子を咎めるように言った。


「『牡丹灯籠』でも『耳なし芳一』でも、ここまで一日で変わるわけないでしょ?言いなさい。どこで何したのか言いなさい。一緒に謝ってあげるから」


その時、鐘の音と伴にドアが開いた。


葛葉が俺を見てニッコリ笑う。


「あら、森田さん。昨日は玉藻と随分お楽しみだったそうじゃない?」


やめろ、誤解を生ずるような言い回しは。しかし、八重も調子に乗ったように続けて言った。


「いいな~、私も誰かさんとした~い」


最後に入ってきた玉藻が天然の止めを刺す。


「私も今夜、もう一度するつもり」


キッチンで玲子が皿を落として貧血で倒れた。玉藻は天然だから何が起こったかわからなかったが、葛葉は流石に悪かったと思ったらしい。玲子が回復してから、スポーツ・ジムの話だと説明していた。



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