プロローグ
東北大震災。もうあんなに時間が経ってしまったとは信じられません。
被災した姉とは一時は連絡が取れず、助けに行きたくてもガソリンが無い。当時、最も燃費の良かったGDIエンジンのレンタカーを探したり、隣の県の空港に誘導を試みたり、無事姉の顔を見た時には涙が流れそうになりました。
姉が語ってくれた悲劇は小説の中で全て説明することなんかできないものばかりです。
あの時、周囲の皆が心配して思いやってくれていたのに、某女性国会議員が都民の買い占めが品不足の原因とかテレビで言ったことに対する怒りは今でも忘れられません。
寒々しい三陸の海岸を少女が泣きながら歩く。
「お母さん、お母さん、・・どこ行ったの?どこ?お母さん、・・・うぅっ、お母さん」
周辺の大人たちも突然の天変地異にどうすれば良いのかわからず、ただ黙々と海岸線を歩き続ける。
三陸沿岸の町々は何処も津波による壊滅的な打撃を受けていた。
どんな嵐にもびくともしなかった防波堤ですら、あっさりと流されてしまった。
全てを飲み込んだ地獄への入り口のように、海が暗く重い色をして広がっている。
与党になったばかりの左翼政党は隣国の救援隊が東北に向かっていると自慢げに語った。
自衛隊への出動要請の遅れは、自衛隊にだけは手柄を立たせてなるものかという強い意志を感じさせる。
やがて左翼政党の顔となった元キャンペーン・ガールの国会議員が非難するような目でテレビを睨み言い放つ。
『東京の一部の人たちがガソリンを買い占めるから、ガソリンが不足してるんです。何も供給に問題はありません』
ガソリンは買い占めなどできない。精々、車のタンクを満タンにする程度だ。
実際には石油精製施設が津波による打撃を受けており、ガソリンの供給が断たれていたのだ。
しかし、原発事故もガソリンや電気の供給不足も、道路や鉄道の寸断すらも、『国民の不安を煽る』として左翼政権はひた隠しにしていた。
親族の安否を憂いた若者たちは、自分の体力を信じて車に物資を大量に積み込んで北を目指した。
当然、途中で大渋滞に巻き込まれ、やがてガス欠で立ち往生することになる。
日本人は世界でも稀にみる自制心の持ち主だ。もしも、情報がきちんと伝えていたなら、だれも救援の障害になりかねないような東北行はしなかっただろう。
やがて元キャンペーン・ガールの国会議員は再びテレビの画面を睨め付けて言い放つ。
『物資だって不足はないのに買い占めをする心無い都内の人々のために、被災地に救援物資を送ることができなくなってるんです』
この発言を聞いた被災地の人々はどのように思っただろうか。他の日本人から見放されたと絶望的な思いになったのではなかろうか。
やがて被災地からは更に悲しいニュースが流れてくる。学校にいて助かった子供達の多くが、夕食の買い物のために市場を訪れて被災した母親や、漁業関係に勤めていた父親を持っていた。
両親が見つからない子供達もいた。
◇
不安に押し潰されそうになる子供達を励まして、神に祈るように『大丈夫』と言い続けてきた教師達にも、やがて現実を見つめなければならない時間が訪れる。
遺体安置所に父親らしき遺体が、母親らしき遺体が安置されているという。
津波にのみ込まれた遺体は、刃物と一緒に洗濯機で回されたように傷だらけで、大人でも正視に耐えない。
子供達を遺体安置所に連れて行くべきか。子供達を預かっている教師たちの間でも意見は分かれた。しかし、親の姿を見れる最後の機会だ。
たとえ傷ついた遺体であっても会わせてやるべきだろう。これが生涯最後の機会になる。認めてもらえないだろうか。自分が責任をもって引率するから。
そう主張するのは野暮ったい中年男の教師だった。名を稲本耕作という。
脂ぎった刈り上げの七三に無精ひげ。時代遅れが一巡して逆にオシャレにすら見える黒縁眼鏡に古ぼけたジャケット。
毛玉がたくさん浮いたセーターに、ダボダボのスラックスはズボンと呼んだ方がしっくりくる。
公園でベンチに座っていたら浮浪者と間違えそうだ。
◇
遺体安置所は遺体の腐敗が進まないよう暖房器具ひとつ置かれていない。
電力も石油も供給の目途がたたない足許、東北の極寒は遺体の保存には役立ったが、同時に訪れる遺族の心を凍てつかせた。
息が白く曇る中、稲本は三人の女子高校を連れて遺体安置所を訪れた。
遺体にかけられた毛布を外すと少女達の悲鳴が上がる。一人の少女がその場に崩れ落ちた。
「お母さん、・・・嫌ぁぁ!」
「大丈夫だ。先生はここに居る。しっかりするんだ。ここに居る。ここに居る」
稲本は無茶なことを言っていると分かっていた。それでも未来のある子供を託された教師としての責任がある。
無茶であっても、今、この少女の歩みを止めさせるわけにはいかない。
政府関係者は子供達の心に悪影響を及ぼしたと責められることのみを恐れ、この期に及んでも何も指示を出さない。
この子達を守れるのは自分だけ。
稲本は、この子達の心が傷ついたのならば、その傷ついた心に寄り添って生涯生きていく覚悟だった。
身元不明の遺体も念の為に見ていく。遺体を正視することより、少女達の悲鳴が稲本の心を切り付ける。
「大丈夫だ。先生は一緒だ。ここに居る。ここに居る。ここに居る」
稲本は呪文のように繰り返し泣き崩れる少女達の肩を抱きしめようとする。
しかし、二人を抱けばその腕から一人が零れ落ちる。何故、もっと大きな腕が無いのだろう。
稲本は自分の矮小な身体を心から呪った
「嫌ぁぁ・・、純一ぃぃぃ・・・」
背後で若い母親が小さな遺体に縋り付く。5歳になる息子を失った薄木美恵子だった。
都会なら大学を卒業したばかりの娘と言った年齢だが、高校を卒業すると同時に結婚した美恵子は、美しくありながら普段は母親の落ち着きをもっていた。
その美恵子が今は全てを呪う妖女のように髪を振り乱して泣き叫ぶ。
その形相に怯えた少女達が稲本の陰に隠れるように身を寄せる。
「ここに居る。大丈夫だ。ここに居る・・・」
稲本はこの世の地獄だと思った。この地獄の中で少女達を守り抜かなければならない。
しかし、自分には力が無さすぎる。自分は小さすぎる。
なぜ、もっと大きな人間になろうとしなかったのか。もっと努力していれば、この子たちを救えるような大きな人間になれていたのではないか。
およそ無理な話だろう。天変地異に人間ができることなどたかが知れている。
しかし、稲本は自分を責め続けた。
うろたえて少女達の周りを行き来しながら、必死に肩を抱こうとする稲本の姿は無様だった。
守りたい人たちを何とか守ろうと足掻く男の姿は、元来無様なものなのだろう。
稲本は無様であったが、本物の男であり続けた。
◇
稲本は不眠不休で少女達を引き取る親族を探した。やがて遠縁の親族が名乗りを上げてくれた時、稲本は男泣きに泣いた。
いざとなれば自分が最後まで育てる覚悟だった。
幸いなことに名乗りを上げてくれた親戚の人々はみな優しい人たちで、不幸な少女達を心から思いやり、又、今日まで少女達に連れ添っていた稲本にも感謝の言葉を伝えてくれた。
最後の少女が親戚の叔母に連れられてバスに乗り込んだ。窓から少女の叔母が感謝の言葉を再び述べる。
稲本の頬を涙が伝った。
「僕には何も出来ませんでした。
もっと強ければ悲しみを寄せ付けない方法があったかもしれない。みんなを救える方法もあったかもしれない。
東大に行っていれば何かを変えられる人間になれてたかもしれない。
でも、学生の頃から怠け癖があって、勉強も運動も全力でやり遂げることはありませんでした。ごめんなさい」
泣きながら頭を下げて謝る稲本に少女の声が届く。
「先生、ありがとう・・・」
その声を聞いたら突然全てが萎んでしまったように感じた。必死になって立っていた足から力が抜けていく。
最後の少女を乗せたバスが見えなくなったとき、地面がぐらりと揺れた。
もう一歩も歩けないぐらいに稲本は疲労していた。
「まだだ。あの子たちが困った時に助けなけりゃいけない。ここに居る。先生がここに居るって教えてやらなきゃ。ここに居る・・・」
しかし、バス停で倒れた稲本が意識を取り戻すことはなかった。
書きたいことが山ほどあります。自衛隊員が救援活動中に体調を崩し亡くなったとの記事が新聞に小さく載っていました。訓練で鍛えられた屈強な自衛隊員が、偶々体調が悪くて急死したとか信じられるわけもありません。
恐らく地獄のような被災地で自らの限界を超えた活躍をされたのだろうと思います。弁慶の立ち往生とか信じていませんでしたが、どうやら伝説を超えるような武士が自衛隊員なのでしょう。
振り返って自分の人生を思うとき、なんとも苦労の足りない人生だったと恥じ入るばかりです。