二人の男と弟について
あまり恋愛感情は見受けられないものの、男性同士の接触が多めです。
いわゆるブロマンス。明治っぽい雰囲気小説。でも私はこういうのがSUKI。
初めまして皆さま。
僕は北垣清志郎。名家北垣家の次男坊です。
年のころは十六。北垣家は代々軍人を多く輩出する家筋で、僕も本来ならばお国の為に働いているべきなのです。
兄の名は清一郎。二十七歳、僕とは十歳以上年の離れた兄上でして、現在海軍将校をやっていらっしゃいます。
お分かりでしょうが、兄は優秀なお人で、北垣家の将来を背負うお方。家の者は皆、清一郎様がいれば北垣家は安泰……そう申しております。僕も真剣に、心からそう思っています。
ですから僕は、兄の目に入らぬよう、静かに過ごしておるのです。
何を隠しましょう、情けない話、僕は間借りなのですから……。
「ですからキヨくん、貴方は間借りなどではありません。もっと自信をお持ちになってくださいよ」
「うう……慰めてくれなくてもいいんです。秋人くん……僕は情けない男です……」
「ですから、キヨくんが僕について来ればいいじゃないですか」
詰襟型の褐色をした軍服を身にまとった青年が、僕の肩に手を置いてあきれ顔でそう言った。
彼の名は桐島秋人。
僕の従兄であり、陸軍の少尉の位を冠している。
柔和なお顔立ち、優しそうな物言い、紳士的な振る舞い。彼は学徒時代にエゲレス(英国)に留学なさったからか、とても感じのいい青年だ。
その一方で、二十と少しほどのお年にして少尉という立場を手に入れたお方なのだ。頭は切れるし、腕もよく立つとお聞きしている。
そんな彼がなぜ、僕のもとに――よりにもよって海軍の兄がいる僕に構うのやら、さっぱり理由がわからない。
「ねえ、キヨくん」
彼は優しく僕の肩をゆする。
「キヨくんは、決して弱虫なんかじゃないよ。軍に入らなかったからって、そう自分を責めないでくれ。僕はキヨくんの従兄で、友達なんだから……ふさぎこんでると心配だ」
そう、僕は陸軍にも海軍にも、入ることを拒否したのだ。
なぜだ、と思われるかもしれない。軍に――とくに兄のいる海軍に行けば、一足飛びに青年将校になれるかもしれない立場なのだ。僕は。
けれど……
「で、でもアキにい……ごほん、秋人さん」
「ふふ、今アキにいって呼んでくれた」
「わ、笑わないでください! それに僕は、軍に入らなかったことを後悔しているわけではないんです」
「おや。では何をうじうじと考えて?」
うじうじとって。温和な目元に似合わない暴言だ。見透かされそうな目で見つめられ、つい口から言い訳がましい言葉が出る。
「自分が嫌だと言いますか……」
「――キヨくん、あのねぇ。いくら文学が好きだからって」
子供を叱るように、少しだけ語尾を上げて僕の名を呼ぶ秋人さんに、慌てて手を横に振る。
「ああもう、違うんです! 別に僕は、自殺も心中も考えていません! 死にたくないですし!」
「本当に?」
「ええ! 秋人さんに心配はかけたくないですけれど、それ以上に僕は、怒られたくないんです! だからこう頻繁に足を運ばれると困ります!」
「困るって何が」
秋人さんが首をかしげるとほぼ同時、微かに足音が聞こえてきた。どくん、と心臓が一気に跳ね上がる。
――まずい!
「秋人さんっ、急いでこっちに!」
「え? あいててて、腕引っ張んないで」
「軍刀でぶっ叩かれる日々をお過ごしなんでしょう!? いいから立って!」
「それは誤解かなぁ」
コロコロ笑う秋人さんに頭を抱え込みたくなるが、立ってもらう為に無理やり腕に力を込めた。そのまま、細いわりに案外身のある引きしまった背中を押しやって、押し入れの扉を開ける。
「キヨくん?」
「お願いです秋人さんっ、早く隠れて!」
「なんで」
「――兄さんが来るからですっ!」
なるべく廊下に響かないよう、囁き声で、しかしありったけの力を込めて叫ぶ。にこにことしていた秋人さんも、真っ青になる僕の顔を見て何か思ったのか、こくりとうなずいて押し入れの上の段に飛び乗った。
そのまま急いで扉を閉めると、足音がすぐに部屋の前にやってきた。
「清志郎! 居るだろう!」
重低音、海の向こうでいうテノールの声が響く。全身に雷が落ちたように、僕の体は硬直した。
が、ここで居留守など出来るはずもない。僕は震える声を抑え、
「はい、兄上」
と答えた。
「開けろ」
「はいっ」
急いでふすまに駆け寄って、性急に扉を開けた。
見上げるような高さに、不遜な表情を浮かべた美丈夫がいた。
その美丈夫はというと、秋人さん――いや、陸軍将校とは対照的な白の生地に、金の肩章を幾つも付けている。
その手は白手袋に包まれており、僕を見るや否や、強くその手で僕の右腕を掴んだ。
「いっ――」
「来い」
来いも何も、ここは僕の部屋だ。
引きずり込まれるように中へと入れば、放り出されるように腕を離された。ふらついてたたらを踏みながら、僕はなんとか壁に激突するのを避ける。
壁際に立つ僕のほうへ、彼がまた一歩踏み出した。
「――清志郎。お前、また秋人とつるんでいるのか」
ぎろり、と音がしそうなほどの危ない目で睨まれる。
普段は穏やかな海のような、静かで涼やかな目元をしていらっしゃっている。右側だけ撫でつけられた髪型も相まって、まるで西洋人のような洗練された雰囲気なのだが……。
僕を見る彼の目は、嫌悪に滲んで鬼のようだ。
ゆうに六尺はあるだろう背の高さも、秋人さんよりもがっしりとした体つき故に、その恐ろしさも倍である。
「あ、秋人さんですか? し、知りません」
――これが赤の他人だったら、声も出さずに逃げ出していたのに。
僕はしょうがなく嘘をついた。今ここにいますなんて言ったら、その腰に下がった軍刀でバッサリと切り落とされそうなので。
「兄に嘘をつくな」
「ほ、本当ですっ。知りません」
僕はそっぽを向くふりをして、押し入れのほうを見た。少しだけ隙間が空いている。確実にこちらを窺っているだろう彼に向けて、絶対に出るなと手のひらを向けておいた。
さすがに、秋人さんなら分かってくれるだろう。
「……は、そういうことにしてやる。だがな」
バンッ! と、自分の頭の真横に、白い手袋がたたきつけられた。
恐ろしくて、叫び声も出ない。
「――分かるか。お前は俺の弟だ。父も、祖父も、そのまた上も……この家は海軍将校を輩出する家だ」
「……分かっています……」
「陸軍なんぞと、ちゃらちゃら遊んでいるのを見るだけで、反吐が出る」
「…………」
だめだ、これは。
本気で、怒って、いる。
歯の根が合わない。見下ろされるような恰好は、まるで蛇に睨まれた蛙というよりは、銃口を突き付けられた小鹿だ。
「いいか。秋人は陸軍である前に従兄だと言いたいのだろうが、俺は許さん。ぬけぬけと陸軍に入るとでも言ってみろ――」
顔の真横にあった手が、するりと首元に。
喉を柔くつかみ、怒りのにじむ端正な顔を近づけてくる実の兄に、血の気がさぁっと引いていく。
「お前が今後陸軍に靡かぬよう、腰を抜かすほど叱りつけてやろう」
「…………は、い……」
ふ、と息がこぼれるような音がした。兄が笑ったのだ。
そのまま彼は手を外し、つかつかと押し入れの方へと歩いていく。嘘だろう、と思ったが、兄に万が一でも気づかれたら、今度こそ首が落とされる。力の入らない脚を動かし、兄の背を追った。
「あ、兄上っ……」
「なんだ」
今まで叱られた後に話しかけたことがないからだろうか、兄は意外そうに眉を片方だけあげて振り返った。
よ、余計なことをしてしまったか。
「あの、その。すみません、お願いが」
「……」
怖い。殴られそうな雰囲気だ。
兄まで何を勘違いしているのだ。僕は陸海両方興味がない。兄の心配は、てんでおかしな方向に作用しているが、指摘するほど僕は蛮勇の持ち主ではなかった。
話題を、兄の好む話題を。脳を回転させ、とっさに出た言葉が、
「あのっ! 兄上のお好きな、エゲレスの作家の本を……今度、買ってきてください!」
「……は?」
うおおおお。これだから本の虫は! なぜそんな意味不明な話題を振ってしまったんだ!
……と、脳内で自分を責めたが、口から出た言葉は戻せはしない。
「あ、いえ、すみませんっ。あ、兄上が、昔買ってきてくださった指南書に、お好きな作家の作品名らしきものが書かれた紙が挟まっていまして……」
苦しすぎる言い訳だった。確かに紙は挟まっていたが、本のタイトルだったかすら怪しい。だってほとんど、その指南書を読んでいないのだから……。
ああどうしよう。これ以上兄に嫌われたら、叱る殴るじゃすまなくなりそうで
「……ふむ。ゲーテはプロイセンだが、それでいいのなら」
「……はい?」
「俺のかわいいお前の頼みだ。聞いてやらなくもない」
「………………」
「ではな」
さらっと言って、兄は僕の部屋から出ていった。
なるほど、いつの間にか部屋の前には海兵さんが立っていた。外聞の為に、兄はそう言ったらしい。
……し、死ぬかと、思った。
「……秋人さん、もういいですよ」
「――なんて奴だ」
「え?」
「弟の首を絞めるなんて、度が過ぎているとは思わないのかい!? おまけになんだ、最後の台詞! 俺のかわいいお前? あのセリフのほうが反吐が出るよ!」
「最後の方には、反吐というかビックリしましたけど。(海兵さんがいたし……)まぁふつうかなって」
将校ゆえに、外聞を取り繕わないとならないのだろう。
秋人さんはそれでもまだ怒りが収まらないようで、どかりと畳に座り込んだ。
「昔からアイツは気に食わないんだ。傲岸不遜で、陸軍嫌い、おまけにいつもキヨくんに無礼極まりない態度。アレのどこが、弟である君に可愛いなんて言えた口か!」
「はは……秋人さんは、僕に優しすぎるんですよ。従兄弟としてかわいがってもらえるのは嬉しいけど」
ちなみに、秋人さんもお家では末っ子にあたる。それゆえ、自分より年下の僕を弟分のように扱ってくれるのだろうが。
それにしても、確かにさっきのは申し訳ない。
兄の発言とはいえ、秋人さんのことをさんざんに悪く言っていたのだから。
「はぁ。キヨくんがうちの子だったらなぁ。絶対に兄さんたちも、アイツみたいにひどいことはしないのに」
「皆さまこぞってエゲレス帰りの英国紳士ですもんね」
「似非だけどね。キヨくんだって、英語喋れるだろ?」
こくりと頷く。
実は昔は、軍はともかく兄の役には立とうと思い、英語を勉強していたのだ。海軍は諸外国の将とも交流がある。兄自身も英語には精通していたが、他の将校たちは通訳の必要な身である。それ故に兄は、僕へ英語を教えてくれた。つい二年ほど前の話だ。
あのころが一番、兄弟らしかったかもしれない。
「ねぇ、やっぱり僕の誘いに乗るべきなんだよ。絶対君ならうまくいく」
「で、ですから無理です。僕に、要人のお子様たちの相手なんて」
「でも、英語を喋れる人じゃないと、エゲレスやアメリカの子供たちの相手はできないじゃない。君が適任なんだって」
「う……」
ほんの少しだけ、躊躇ってしまう。
実は、ここ最近秋人さんが足しげく僕の部屋に通い、兄の怒りの琴線に触れている理由は、彼の紹介する仕事にあるのだ。
――要人(外国人のお子様)の遊び相手、および絵本の英語訳、および紙芝居の英語訳、等々。エトセトラ。である。
実は、秋人さんら陸軍も懇意にしている内務省から、こういうちょっとしたお仕事を請け負ってくれる人材を探しているそう。
ちょっとした、といっても、これは立派な公務である。
それなりの家柄の人間が必要になっていて、陸軍にもそういう人材がいないかと持ち掛けられているそう。
そして秋人さんは、何を思ったか、僕にぴったりの職業だと思ったらしい。
「君が軍人の道を選ばなかったこと、アイツは馬鹿にしているかもしれないけど、僕はちっともそんなこと思ってないんだ。勇気ある選択。君は決して愚かな人間じゃないこと、僕は知ってるよ」
「……でも、陸軍が探している人材じゃ、また兄に怒られてしまいます」
「いや、今度は海軍に持ち掛けるとも言っていた。海軍にこの知らせが来るのももうすぐだろう、そうなれば絶対にアイツも怒らないよ」
「…………」
どうしよう。
秋人さんの期待を裏切りたくはない。
彼もほとんど兄同然の、むしろ兄以上に親しい人だ。
一度、僕は兄の期待を裏切ってしまった。海軍の軍人になるのも、兄の教えてくれた英語を使って、兄の為に働くことも。
……これ以上誰かに失望されたくない。
それなのに、この部屋で燻っていたいと思う自分がいる。
――悠々自適、我儘な次男坊。兄とは違って不出来な弟。最近は陸軍の従兄とふらふら出回って物見遊山とは、いい御身分だ。清一郎様のお怒りも当然よ。
目を閉じれば、下仕えたちにまでそう囁かれる自分が目に浮かぶ。他人に顔向けできない暮らしをしているというのに、他人に嘲られるのは嫌とは、我ながら矛盾している。
は、と、兄によく似たかすれた笑い声がこぼれた。
「……ねぇ、アキにい。僕、とても恥ずかしいよ」
「……何がだい」
「今すぐあなたの提案に乗りたい。僕だって、兄ほどまでにはいかないかもしれないけど、自分の力で生きてみたいんだ。自分の力で、生きる糧を、金を稼ぐこと、やってみたい」
でも、と声をこぼした。涙の代わりのような、女々しい声だ。
「……それでも、この部屋から出て、使用人や世間の目に晒されるのが堪らなく、怖いんだ。兄に怯え、支配されるような生活でも、間違いなく兄が僕を守ってくれるこの生活を、かなぐり捨てるのが怖い。
……分かってるんだ、兄が本当は、半分同情で僕を世間から遠ざけてくれていること」
厳しい兄だが、鈍感な人ではない。
軍人の家系で、軍人にならなかった男の子供が、どんな目で見られるか。
その視線から、兄は守ってくれているつもりなのだろう。僕を。
そして僕も、兄の同情に甘えている。……最低だ。
泣きそうだった。改めて今の自分の状況を言葉にすると、惨めでたまらない。
「……君は、兄に同情されていることが恥ずかしいのかい?」
「……ちが、う……」
「なら、何が恥ずかしい。侮辱の言葉を浴びされる可能性? 周囲の面白半分な視線にさらされる可能性? それとも、異国の人は怖いかい?」
「…………」
「違うのだろう。言ってごらん、僕に。君が君を恥じる理由」
優しい声で、そっと顔を上向けられる。
ぼろ、と涙がこぼれても、秋人さんは決して笑わなかった。
「……僕が軍人にならなかったのは……人を殺したくないからなんです」
「……うん」
「その思いを、人に告げたのを後悔しそうになっている自分が、嫌でたまらない。僕は、人が武力で押さえつけあうこの世の中が、おかしいと思っている……絶対に人を殺したくない、心のうちからそう思ってるんです……」
おそらく、兄も、秋人さんも否定する言葉。
軍人の誇りも何も無視した発言だ。
きっと秋人さんにも嫌われた。あの日、兄にそう言って、海軍への入隊を拒否した日のように。
殴られるかもな、なんて頭の隅で、嫌に冷静に考えた。
「キヨくん」
「……は、はい」
腕をぐい、と引っ張られた。痛い、と思いながら立ち上がる。さっき兄にされたように、壁に叩きつけられるのだろう。
そう思ってぎゅっと目を閉じたが、二秒立っても、五秒たっても、衝撃は訪れなかった。
そっと薄目を開ければ、髪に柔らかな感触がした。
決して殴られた訳ではない、と悟る。秋人さんの右手は、僕の頭を優しく撫でてくれていた。
「……あきひと、さ……?」
「やっぱり、君は聡明な子だ」
穏やかな囁き声が、僕の耳に優しく溶けていく。
「君が思うなら、君がそのように行動するんだ。僕や清一郎の冷たい心も、世界の血生臭さも、君が変えるよう努めてくれ。……君は良い子だよ。あいつだって分かっている」
ぎゅう、と抱きしめられる。幼子にするような抱擁を、軍人がするのだから変な気分だった。けど、とてもとても安心した。
「さぁ、決断してくれ。君の接するだろう子供たちは、きっと未来の要人になる。彼らに恩を売るのは、戦略的勝利につながるはずだよ?」
「……アキにいは、冷たい心っていうか、打算がすごいよね」
秋人さんがおかしそうに笑った。僕も、心のうちからじわりじわりと温かいものが広がり、おかしくなって笑ってしまった。男二人が抱き合ってケラケラ笑っているのも奇妙な光景だが、一向に構わない。こんなにすがすがしい気分も久しぶりだ。
「ねぇ、秋人さん。僕、その仕事やってみたい」
「本当かい」
「うん。兄上に怒られるかも、って言ってたけど、本当は違うんだよな、きっと。僕が兄上に、同情を続けてほしいって思ってただけだ。本当はそんなことないんだと思う」
「まぁ、アイツが怒っても、僕は知らん顔しているから平気だよ」
「僕は嘘をつくのが下手なんで、兄に殴られるかも。でも殴られてもいい。絶対に撤回しません」
「なんていうか、体育会気質だよねぇ君も……」
秋人さんは楽しそうに言って、衣装棚から僕の外套を取り出した。そのまま僕の肩へとかけると、ぐいっと僕の手を引く。
「じゃあ、久方ぶりの、弟分との町探索――ならぬ、内務省探索に行くとしよう。いいね?」
「――はいっ、秋人さん!」
幼いころのように、秋人さんに連れられて出ていく。
あのころと同じく、新しい世界が、僕を待っているのだろう。
『――The pen is mightier than the sword.』
『ペンは剣よりも強し、だな』
『はい』
『なんだ、うれしそうな顔をして』
『お前はこの言葉が好きか。俺はいまいち、信用しないが』
『好きです。あの、怒りませんか……?』
『怒らない。むしろうれしいくらいだ』
『え?』
『――お前が俺に、本音を言うなど久しいだろう』
『兄上? いまなんと』
『いや、いい』
『そうですか……』
『いつか兄上にも、この言葉の良さをお伝えしたいです』
『……そうか』
『それならば、お前がそれを証明しろ。俺にその証拠を。できるか』
『――はい!』
『よし。――待っているぞ。では次は――……』
数年前、兄に聞いたあの英文。交わしたあの会話。
脳裏によぎる。
彼はこれをどう思っているのだろう。
僕の夢を、秋人さんとは違って、笑い捨てるだろうか。
……。分からない。
けれど、もう決めたんだ。
がしがしと、痛いくらいの力で撫でてくれた兄の手の感触。珍しく彼は、僕にあの涼やかな視線を向けてくれた。
秋人さんの手の感触の残る髪を撫でた。兄の挑戦状じみたあのセリフも、目の前の青年に伸ばされた手も、僕は忘れてはならないと思う。
今はまず、新しい世界へ飛び込むことを。
二人の兄に、僕は手を引かれているのだから。
恐れてはだめだ。行こう。
初夏の始まり、朝早く。
光のこぼれる街路樹の下、僕は歩き出した。
この後どっちルートに転んでもごちゃごちゃした恋愛模様になりそうです。そもそも片方は近親相姦だよ。