1ー(1)七曜天流星
大陸歴二四二年という年は、戦と共にその幕を開けた。
後に、李笙騎の乱と呼ばれる、皇家の帝位を巡る内乱が始まったのは、年が明けてすぐのことだった。
先帝の息子であった李笙騎が、父から武力によってその位を奪い取った現皇帝、華煌帝国 第八代皇帝、炎雷帝に対し、叛乱を起こしたのである。炎雷帝はすでに齢七十を越えた高齢であり、事の処理に当たったのは、皇帝に代わって摂政として国事を務めていた皇太子虎伯であった。
虎伯の命を受け、叛乱鎮圧の指揮を執ったのは、弟の仲桂である。帝国軍の大将軍として、数々の武勇の聞こえた武将であったが、彼が、叛乱軍を戦滅するまでに、じつに十ヶ月という時間を必要とした。
帝国軍は李笙騎の居城である河南城に籠城した叛乱軍を、陥とすことができずに、五ヶ月も城を包囲したまま立往生していた。誰もが、このまま、戦いは翌年まで続くだろうと思い始めた頃である。李笙騎の腹心の部下であった蒼羽という武将が、帝国軍に寝返り、叛乱はあっけない幕切れを迎えた。その年の冬を待たずして、河南の城は落城した。
帝国最大を誇る秋白湖の西側に、西畔という小都があった。河南の北西に位置する街で、帝国の、西街道の終点の地であり、背後に鳳凰山系を控えた広陵地方の中心地である。河南の地が、戦雲に覆われているのも別世界の事であるかのように、ここは静かで平和な街であった。
現在、この地の行政官である、西畔領官を努めていたのは、炎雷帝の第四皇子、季蘭である。しかし、季蘭は弱冠十四才の少年で、病弱で武芸には向かぬという、長兄虎伯の計らいで、病気療養も兼ねての着任であったから、その実務の大半は、有能な部下達の手によって取り仕切られていた。
季蘭は自分の仕事がないのをこれ幸と、もともと好きであった学問に打ち込み、城に学者や博士を招いては、その講義を聞いて時を過ごした。近頃では、西域の星卦教の老師より、星見という天文学や占星の術を習っていた。
星見とは、占い星の異名を持つ、北天七曜星のその日の星の位置、光の様子などを観測し、その結果によって、時読み、即ち予言を行なうもので、八卦師と呼ばれる術師達の初歩的な技術である。始皇帝に仕えた名軍師鴉紗が、後年残した八卦八奥義という占術書の書名から、その術を伝承し用いるものを八卦師と呼んでいる。八卦八奥義には、人の天命までも操る操星術という秘技も記されていたというが、幸か不幸か、その原書は散逸し現在残っていない。
季蘭は茜に染まる空を見上げ、その瞳に七曜星を映し出した。天を仰いで、北の空に七色の星を見る時、季蘭は神にも等しい力を手にした鴉紗という人は、果たして幸せだったのかと考える。鴉紗は辺境の一豪族に過ぎなかった李燎牙を華煌の始皇帝という覇王にまで押し上げた功労者であった。だが、華煌の正史には、鴉紗という名は登場しない。ただ、軍師として功労のあった者がいた、というのみなのである。
「いかがですかな」
背後から、老師が穏やかな声で問い掛けた。
「……天戦星の光が、弱くなった様な気がします。河南の戦が終わるのでしょうか……」
「さよう。戦は終わりましょうが……天動星が、力を増しておりますな」
「しばらくは、混乱が続くと……そういう事なのでしょうか?」
「……あまり落ち着かぬ時代でこざいましょう。そう。しばらくは……」
老師が、何やら歯切れの悪そうに、そう言った。季蘭は、目を細めて占い星を見据えている老師の横顔を、注意深く観察したが、その表情はいつもと変わらぬ穏やかなものだった。
……何かが、始まろうとしているのだろうか。多分、あまり良いものではない、何かが……
季蘭の脳裏を、不安の影がよぎった。
この世の全てを見通せたら……
季蘭は時折、そんな思いに囚われる。
八卦の存在を知って、それが決して不可能な事ではないと知ってから、その思いは前にも増して強くなっていた。今も兄達は、剣を持ち戦っているのである。同じ皇帝の皇子として生まれながら、自分だけが、こんな時の止まった様な西畔で、ぼんやりとしている。そう思うと、季蘭はいたたまれなくなるのだった。
老師が退出した後も、季蘭は窓辺に腰を掛け、星を眺めていた。七つの星が、彼を誘うように瞬いている。
「姫は無事だろうか……」
季蘭は、七曜星の一つ、天光星を守護星に持つ少女の顔を、その淡い緑色の光に重ねて呟いた。
次兄仲桂の一人娘、茗香姫は彼より一才年下で快活な姫だった。近頃では、快活だのおてんばだのというを通り越して、女丈夫とまで呼ばれている。しかし、茗香はその呼び名を誇るかの様に、自身の身を飾る事よりも、剣や弓を振り回すほうが性にあうのだとまで豪語し、ついに、今度の内乱で初陣を果たしたのである。
ふいに、天光星の輝きが増し、目映いばかりの緑色の光が天空を横ぎり、地平へと流れた。
「……まさか、七曜天流星」
北天七曜星より星が流れ出るとき、星王が地上に下るという。星王とは、星卦教の神のことだが、その星王が地上に降り立つ時、地上に新たなる覇王が生まれるのだという伝説がある。そして、始皇帝の華煌建国の折には、金の流星が現われたという言い伝えが残されていた。
「これは……」
天光星に続いて他の六星も、次々に輝きを増し、その光は天を流れた。季蘭は流星の消えた地平を呆然と眺めていた。伝説通りの解釈をすれば、七人の星王が地上に下りたという事になる。
「覇王が七人現われるという訳でもないだろうに……一体……」
……あまり落ち着かぬ時代でこざいましょう。そう。しばらくは……
季蘭の耳に、老師の声が蘇ってきた。
「落ち着かぬ時代……乱世ということか……」
「また、星を見ておいでですの?季蘭様」
彼のよく知っている、明るい声が一瞬にしてその暗い表情を吹き飛ばした。振り向いた季蘭は、笑顔で訪問者を迎えた。
「茗香。いつ、こちらへ?」
「たった今、着いたところです。河南から、馬を飛ばして参りましたの。河南は落ちましたわ。一刻も早くお知らせしたくって、飛んで参りました」
真紅の鎧に身を包んだままの茗香は、無邪気な様子でそう言った。
「初陣のご勝利、おめでとうございます」
「ありがとう。季蘭様に言って頂けると、嬉しさも増しますわ。これで、以前のお約束、果たしていただけますね」
「……やく……そく?……と言うのは……ええと……」
「あら、お忘れですの?戦に勝ったら、私を西畔の十将に加えて下さる。と、そうおっしゃいましたわ」
言われれば、そんな約束をしたような気もする。季蘭は彼を見詰める茗香の瞳から逃れて、視線を外すと、力なく椅子に座りこんた。
西畔の十将とは、季蘭が西畔領官となってから、度々催した武芸大会で、武芸に秀でたものを身分の上下なく集めた、選り抜きの私兵団のことである。自身は体が弱く、まともに剣も扱えないのだが、そのせいか、季蘭は強いもの、力のあるものが好きだった。だから、彼の配下には武芸の達人達が揃っていて、都の帝国軍の正規兵にも引けを取らないつわもの揃いであると、専らの評判だった。
「私、その為に、一生懸命頑張りましたのよ。本当に強くなければ、十将にはなれないとおっしゃったでしょう?」
季蘭は心の中で、迂かつな事を言った自分に溜め息をついた。考えたくはなかったが、茗香が剣を持ち、武人としての道を選んだのは、その為だったのだろうか。だとしたら……季蘭は真紅の鎧が、妙に似合ってしまう茗香を見据えたまま、考え込んでしまった。
「季蘭様?私は、まだ十将には、ふさわしくありません?」
「……姫は、強いですよ。そう、まるで、翔帝陛下の時代の、皇太子妃麗妃様のようですね。知っていますか?華煌京の乱の折、謀反人に殺された、皇太子海翔様の亡骸を守って戦った、女傑麗妃。優しく、強く、そして美しい。姫には、十将などという厳めしい名より、こちらのほうがずっとお似合いでしょう。いかがです?」
「麗妃……そのお名前、気に入りましたわ」
「では、茗香。今日から、あなたを麗妃様と、そうお呼びしましょう」
茗香はにっこり笑って頷いた。
麗妃……と、実際そう呼ばれる度に、この小さな姫は強く、そして美しくなっていった。彼がこの時、姫に与えたこの名前が、後に、彼女に大きな十字架を負わせてしまう事になるのだが、ほんの少し星見をかじっただけの少年には、そんな事まで見通せようはずもなかった。
河南城陥落。その混乱の中で帝国軍は叛乱軍の残党狩りと称して、近隣の村々を焼き、人々を殺し、略奪を行なった。傾きかけた皇帝の権威を取り戻さんが為の、力の誇示であったのだろう。だが、この事が帝国の終焉の序幕を開ける事になった。この事件より、三十年を待たずして、華煌という名の帝国は、地上よりその姿を消すのである。