第十六話 夜空を飛んで
私はたじろいだ。それにジュウクは気が付いたのか、すぐに私を拘束していた腕をするりと解く。
『いつからなんだろうな。自分の気持ちを隠して生き始めたのは』
この言葉の意味するものは――
思いを知られた……?
決して応じてはくれない思いを。これを知られてはまた一線を置かれ、離れていく。失いたくないのに。
「婚約おめでとう」
ふとかけられた言葉に、体の血がざわざわ騒ぐ。
“おめでとう“
さらりと口にする祝詞に傷ついた――自分が情けない。隣にいるジュウクの顔が見れない。もし、笑っていたら私は平静を保っていられるだろうか?
「――てよ」
冷気をはらんだ清涼な空気を吸い込んだ。微かに自分の叶わぬ願望が口をついて出る。
反応がかえってこない。ジュウクには聞こえていないだけと、そう信じ込みたい私は醜い。
「御意」
はっとジュウクの顔を見た。
今、何て……。
「貴様のお望みのとおりに」
どこか違うと本能が訴えた。ジュウクはその場で跪き、配下の礼をとる。長年宮で培われた動作は綻びがなく、様々な貴族に囲まれる私から見ても最上のものだった。
「何処であろうとも私は最期まで仕えます」
感じられたは拒絶だろうか。ジュウクの漆黒の双眸は私を見ているようで見ていない。周囲に溶け込む森の闇は光を隠し、暗い影を落とす。同じように彼の眼に光はない。
体に入っていた力が抜けた。わかった。彼がどうしたいのかが。
「冗談よ。真に受けないでよ。ありがとう。だけど最期なんて言わないの。ジュウクなら王家のために殉死しそうだから怖いわ。このままだと、婚約なんて当分無理ね」
膝を折ったジュウクの毛先が僅かに動いた。遅れて私の髪がふわりと浮き上がる。
軽い口調でこの場の雰囲気を取り戻そうとしたが、風邪が目にしみジワリと目の奥が熱くなる。微動だにしないジュウクをそのままにしておけず、立ち上がるように言うと恭しく頭をもう一度下げ言葉に従った。
「帰ろうね」
空を見上げた。濃灰の雲が遠くの空に見える。風が木々を揺らし、雨粒をはらんだ雲を呼び寄せる。厚い雲の下ずぶ濡れになってもいいから、この空を飛んで消え去りたいと思うことは叶わない願いだろうか。
***
俺が仕えるべき王女はこう言った。
『一緒に逃げてよ』
顔を上げ幾つも灯りが燈る城を仰いだ。低音で嘶く木。嘲笑っているような騒がしい音がする。
城に姫を送り届けると、厳重注意を受けた。姫様を真夜中に出歩かせるとはどういうことだ、と。それでも無事に帰ってきた姫の方が大切で、すぐに解放してもらえた。彼女の口ぞえもあってのことだろう。
『逃げてよ』
この国から逃げることを望まれた。
本来なら懸命に止めるべきだった。だけど止めなかった。信じていたんだ。彼女は自分の立場を違えないと。
ああ見えて凄く努力している。勉学は勿論、公務も、民意を考慮することも。誰もが期待する王女様であることも。
頑張り屋で、お転婆で、無邪気なシーラス姫。彼女は決して、愚弄ではない。賢明で、実直であることを誰よりも望んでいる。そしてとても聡い。
こちらが臣下に下り、完璧な忠誠を誓えば姫は気づくと思った。彼女が求めているのは忠実な魔法使いではない。傍にいて慰めてくれる、優しい幼馴染だ。俺がなれるはずがなかろう。そんな者はこの世のどこにもいない。消え去ったのだ。
『逃げてよ』
何度も頭に響いてくる。そう言ったときの彼女の表情と共に。縋るような顔。
『逃げてよ』
暗い闇の中でも輝く瞳は、俺の眼を映していた。一筋の希望を求めるような顔に大いに心が揺さぶられた。
『逃げてよ』
「――っ!」
あざ笑う木の幹を拳で黙らせた。、鋭い痛みが伝わったが、血は流れず無傷だ。黙らせたのは木だけではなく、ふつふつと湧き出てきたあの時の感情もだ。
彼女の手を取って、ここから連れ出したい思いが確かにあった。手を繋ぎ、この夜空を駆け上がれたらどんなに気持ち良かろうか。空を飛ぶことは姫の夢だった。この国を飛び出し、グルークの力の及ばぬ地方に行く。それは抱いてはいけない思いだ。これはグルーク国の嗣子を奪うこと。安寧の国が傾く。しかも婚約までしているのだ。これは政治的意図を含み、かたい条約ともなる。それを無下にしたとなると、相手に攻め入られる理由になりかねない。
理性が勝った。
地に伏せ、頭を下げることで様々な雑念を押し込めた。更に姫と距離を置いた。そうすれば姫も上手く間合いをとる。今回は今までになく主従の関係を示したから。
後悔はない。俺は最期までグルークで生き、グルークのために奉公する。シーラス姫が居ないグルークになっても不変のこと。
姫が存在しない日常を思い浮かべることはできないが、必ず来るだろう。俺は王女がどこに居ようとも、彼女の愛した国を、風景を守り続ける。
それが唯一、俺の出来ることだから。
一月中に更新できなくて申し訳ありませんでした。