02.グレンツェ要塞
――マルス帝国。
起源を同じくする民族同士で別たれていた複数の小国家を統合し、エルデ大陸の中央に覇を唱えた帝政国家である。
古くから武力に優れ、今では周辺諸国に複数の植民地を配下として置くに至っている。
また、北方には帝国と同じく古い歴史を持つメルクーア王国が国境を接しており、海に面している同国から多数の貿易品をやり取りしていることでも有名であった。
戦時下である現在では、双方同盟を結び、メルクーアへの魔術の技術供与と引き換えに多数の軍需品を取り寄せているらしい。
マルス帝国が十年も戦争を続けていられる裏には、そういった王国からの後ろ盾という支援があったればこその話であった。
「……やはり、戦時下の街とは思えんな」
馬車の窓から外の景色を眺める。
他国との戦争中であるというのに、グレンツェの街を往く人々は明るい顔で、大通りは大勢の人で賑わっている。
これも偏に、民衆の生活が困窮によって圧迫されていないからだろう。
いずれは分からないが、豊富な物資がある今だからこそ成り立っている光景でもある。
それに加えて、このグレンツェ要塞を擁する城塞都市が最前線に在りながらも、開戦以来、一弾も被ったことの無い砦であるということも影響しているらしかった。
「いや、本当に助かったよ、エイン。お前が今回の案件を承諾しなければ、こちらはお手上げだったからな」
そう言って、車内の対面に座るリーゼロッテが微笑む。
結局、俺は彼女の説得に折れ、帝国軍が望む要求に答えることにした。
今の平穏な生活を今後も望むのであれば、その崩壊の原因となる要素を取り除いておく必要がある。
自給自足を強いられる生活だったとはいえ、やはり城塞都市から得られる生命線が断たれては不便の方が大きい。
加えて、手元にあった大量の貨幣も市場がなければ元も子もない。
だが、しかし。
そういった理由を押し退けて、何よりも俺の食指を動かした要因は、リーゼロッテが語って聞かせた被検体の少女の存在にあった。
「……で、その被検体の少女が、魔術的な実験から生まれた産物って話は本当なのか?」
グレンツェ要塞までの道すがら、彼女から聞いた話を元に質問を投げかける。
「ああ。以前、ザトゥルン国内に侵攻した際に、捕らえたエルフから採取した血液に様々な薬物を混合させ、戦争孤児であった複数の人間の子供に投与させた結果、たったひとりだけ魔術に覚醒した者がいたという話だ」
「……なるほど、実に中央の魔術師どもが好んでやりそうなクチだな」
結論から言うと、帝都中央に研究室を構える魔術師どもは狂っている。
宮廷魔術師だの高尚な名を使って国益となる魔術の発展を謳っているが、その実態は魔術による戦争のための人体実験がほとんどであった。
そもそも、この世界の魔術は本来、人外であるエルフという希少種族のみが使役し得る術だったと聞く。
それが、いつしか人間の間にも伝播し、人間の中にも魔術を扱える者が増えていった。
だが、人間が生まれながらにして持つ魔力量は少なく、魔術師になるには個人差が生じてしまったため、長らく人工的に人の持つ魔力量を強化する実験が行われてきた。
おそらく、今回の被検体の少女は、その実験の最たるものだろう。
「魔術に目覚める程度であれば、昔から多少の報告はあった。だが、今回の報告によると、彼女が持つ魔力量は実験史上最大の未知数を誇るらしい。故に、決戦兵器だの何だの喧伝しているそうだが」
リーゼロッテの報告を聞き、俺は頭を抱えた。
「……何とも眉唾な話だな。お前さんはその少女に会ったのか?」
「ああ、会ったぞ。だが、想像していた姿とは違っていたな。実験の被検体と聞かされていたから、てっきり体に不当な暴力の痕でも残っているかと勘繰ってしまったが……」
そこまで言って、リーゼロッテは言葉を切った。
同性として、被検体である彼女の境遇について思うところがあるのだろう。
年端もいかぬ戦争孤児の少女が実験のために酷使される絵面は誰しもが容易く想像できる。
だが、俺の知っている知識では、そうはならないことを保証していた。
「……いや、奴らはそんなことはしない。所詮、被検体は魔術を発動するためのパーツとしか思っていないだろうからな。奴らが望む実験の結果を得るまでは、ある意味、丁重な扱いを受けているともいえる」
「そうだったのか。……その話を聞いて少し安心したよ」
リーゼロッテは安堵した様子で胸を撫で下ろした。
(……とはいえ、魔術の実験台になっていることに変わりはない。その少女の運命は、既に――)
この先の未来に待ち受ける不穏な予感を感じ取ったが、俺は人知れず胸の内に仕舞った。
(……相変わらず、でかい壁だ)
馬車を降り、帝国軍が駐留する施設へ向かう。
要塞内に入ってまず眼に留まったのは、高さ十数メートルもあろうかという巨大な城壁だった。
こういった城壁はここグレンツェ要塞だけに限らず、帝国の西から南、南東部に掛けて至るところに設けてある。
これは、今より遡ること数百年前、大陸の諸国が争いに争った大戦争時代の遺物であって、古来より由緒正しく使われている歴史のある城壁であった。
かの戦争は人間同士による争いだけではなかったらしく、ゴブリンやオーク、リザードマンといった亜人獣人の類いとも矛を交えたと聞く。
その結果、亜人種を擁する国家に勝利した人間達は、彼らを大陸の片隅である未開の南西部に追いやって一掃し、更なる人間の版図を拡大した。
以後、現在のマルス帝国の前身となった国家が、彼ら亜人種による再侵攻の脅威を防ぐために、このような城壁を構築したのだという。
現在もこれらの城壁は帝国軍の手によって整備され、ザトゥルン共和国からの侵攻を防ぐための防壁として一役買っている。
「……しかし、城塞都市の守護を預かる少佐殿が護衛も無しに出歩くとは。無警戒もいいところじゃないか? 軍を嫌う反乱分子に襲われても文句は言えないだろうに」
隣を歩くリーゼロッテに、皮肉を交えて問う。
実際、彼女は馬車一台だけで俺を迎えに来ており、御者はともかく周辺を警戒する騎兵を随伴していなかった。
「いや、今の国内に反乱分子などいない。ましてや、このご時世に軍に楯突いて波風立てようものならば、逆にそやつが周囲から白い眼で見られるだろう。心配はいらないさ」
リーゼロッテは自信ありげにそう答えた。
確かに、現政権下でそういった軍に逆らうような行為をした場合は、憲兵による厳重な処罰が下されるようになっている。
加えて、現在は他国から侵略されようとしている状況だ。敵国から護ってくれる味方の軍に、好き好んで楯突く道理はない。
それらを鑑みれば、彼女の意見も妥当だった。
「まぁ、お前さんもよくやるよ。若くして少佐、しかも、要塞の司令官まで務めている。そして、一体どこの出身かと思えば、グレンツェ領を治めるリヒテナウアー家当主の娘ときた。反乱分子どころか、否が応でも民衆の眼に留まる」
憐みでも同情でもなく、彼女の境遇に対する純粋な想いを呟く。
隠居していたこの身でも、グレンツェ要塞の司令官となったリーゼロッテの話は新聞等でよく耳にしていた。
才媛ともいえる経歴に加え、十中八九、誰しもが眼を奪われるその美貌。
これだけ揃っていれば、戦時下という切迫した状況も相俟って、民衆の注目の的にならない方がおかしい。
だが、当のリーゼロッテはあまり浮かない顔をしていた。
「……いや、私など所詮お飾りさ。この要塞に駐留する軍の指揮権はあっても、その大まかな作戦内容は古株の参謀殿に任せっきりだ」
「……ああ、アウグスト殿か」
リーゼロッテの参謀という言葉に、初老を過ぎた男性の顔が脳裏に浮かぶ。
彼女が少佐という階級にありながら、一地方を守護する司令官として任せられているのは、何も特権階級出身だからという理由だけでないことは知っていた。
「それに、民衆が私を過剰に持ち上げようとするのにも、もう慣れた。共和国の侵攻を許していないとはいえ、戦況は逼迫し切っている。戦時下で麻痺した民衆は少しでも刺激を求めているのが現状だ。そういった鬱憤を抑えるためならば、私が犠牲になることも厭わない」
「……民衆が望む偶像でも構わないと?」
俺の問いに対し、リーゼロッテは僅かに逡巡した後、はっきりと答えた。
「……まぁな。なにせ私には、特権階級出身としての責務が生まれながらにして課せられている。ならば、それを全うするのが、代々この地を治めてきたリヒテナウアー家の現当主、その長女たる私の務めだ」
リーゼロッテが語る決意にも似た意志表明。それは、確かに民衆が望み得る最高のものだろう。
彼らにとっての故郷を守護する要塞の司令官が、わざわざ前線に赴き死力を尽くして戦うというのだ。これほど頼もしいことはない。
だが、俺からすれば、そこには何らかの拍子に一瞬で崩れ去ってしまう儚さが孕まれているように思えた。
たったひとつのきっかけが、積み重ねられてきた人格を粉々に突き壊すような感覚。
故に、その言葉は己の意志とは関係なく勝手にこぼれ出た。
「……いつか、自壊するぞ」
「……お前のように、か?」
すかさず、リーゼロッテが答え返す。
その言葉に、俺は自然と押し黙ってしまった。
「……すまない。悪気はなかったのだが、つい……」
申し訳なさそうに顔を背けるリーゼロッテ。
ちらと盗み見た彼女の顔は、何やら酷く後悔しているように思えた。
「……いや、それは事実だ。気にするな」
何でもない風を装うと、それっきり会話は途切れてしまった。
(……悪いな、リーゼロッテ。……俺は、変わってしまった――)
ようやく要塞内の兵舎まで辿り着き、目的の少女が居る部屋まで案内される。
途中、幾人かの兵士とすれ違ったが、誰もが皆、リーゼロッテの姿に萎縮し、軍服姿ではない俺を見て首を傾げて行った。
すれ違った中には、俺の顔を知っている者がいたのか、露骨に嫌そうな顔をされることもあった。
(……まぁ、当然だろうな)
その扱いに自虐するでもなく、俺はどこ吹く風と受け流した。
一度失った信頼というものは、なかなか取り戻せない。
ましてや、軍隊という統率のとれた組織にあっては尚の事。
「――お久しぶりですな、エイン殿」
目的の部屋の前で待ち構えていたと思しき、白髪の初老の男性に声を掛けられた。
「……お久しぶりです、アウグスト大佐」
まるでオウム返しのように返答する。正直、あまり出会いたくはない人物であった。
「アウグスト殿、執務はよろしいのですか?」
司令官であるリーゼロッテがへりくだって問う。
「いえいえ、エイン殿がお越しになると聞き及びましたので、一目会っておこうかと思いまして。すぐに戻りますよ」
アウグストが顎をさすりながら低く笑う。
その顔に刻まれた糸目からは、彼が何を考えているのか全く読み取れない。
(……やはり、この人は苦手だ)
――アウグスト・フォン・ヴェスターナッハ。
古くからこの地を治めているリヒテナウアー家に仕える家臣であり、グレンツェ要塞副司令にして参謀。
齢五十を超えようともすらっとした長身は衰えを感じさせない。正に、複数の肩書を持つに相応しい懐刀といった風貌。
リーゼロッテが少佐という階級に在りながら、この要塞の司令官を務めていられるのも、偏にこの参謀の存在が大きく、開戦以来、彼女の後ろ盾としてグレンツェ要塞の守護を影のようにして担ってきた人物であった。
俺が最前線に近しいグレンツェ領内に隠居していられたのも、彼が居ればこその話で、その実力は高く、一度もザトゥルンからの侵攻を許した試しはない。
「はてさて、エイン殿。隠居生活は如何でしたかな? さては、数多くのうら若き女性でもたぶらかして――」
「……いきなりですね」
世に知れ渡る評判とは裏腹に、この参謀は突拍子もないふざけた冗談を嗜む変人でもあった。
弁解する間もなく、首筋に鋭い殺気が刺し込まれる。
「――おい、お前。まさか、そんなふしだらな事に手は出していないよな?」
底冷えする声でリーゼロッテが俺を睨む。
どうにも彼女は冗談が通じない。事実無根だと気付いて欲しい。
「……当たり前だ。そんなことはしていない」
呆れた顔で誤解を解く。そもそも、あんな辺境に人は来ない。
「そ、そうか。早とちりしてしまったな。……すまない」
妙に慌てた様子で場を取り繕うリーゼロッテ。
その様子を見ていたアウグストは、抑えた声で笑っている。
どうやら、他人をからかって遊んでいるらしい。嫌な趣味だ。
「――では、私はこの辺りで失礼致します」
そう言って、アウグストは軽く礼を執り踵を返した。
「……相変わらず、掴めない人だ」
たまらず、張り詰めていた息を吐く。
どうにも、あの人には心が見透かされているような不思議な感覚を覚える。
「さて、気を取り直して本題だ。この部屋の中に彼女は居る。……心の準備はいいか?」
リーゼロッテの忠告に、それまで緩んでいた体が自然と強張った。
部屋に入ったからといって、何も少女に取って食われるというわけでもない。
だが、心なしか魂が震える。それは、この先踏み出す一歩の重さによるもの。
ここで一歩を踏み出してしまえば、もう後に退くことは叶わない。退くこととは、つまり責任逃れに直結する。
それを鑑みて、今一度、心を整理する。
(……俺が、ここに来た理由)
それは、平穏な生活を取り戻すため。そして、魔術の被検体とはどういうものなのか知りたいがため。
(……興味本位ではあるが、彼女に関わってしまえばもう後戻りはできないだろう)
それはつまり、この先待ち受けるであろう二国間の闘争にこの身を投じる羽目になるということ。
退役から現役。日常から非日常への転化。それを是とするか非とするか。
覚悟は――出来ている。
「――ああ」
俺の返事を確認したリーゼロッテは、ひとつ頷いてから軽くドアをノックした。
入るぞ、と一声掛けた後、扉をゆっくりと開ける。
士官用の上質な部屋。ぽつんとひとつ置かれた椅子。
そこには――。