01.束の間の休息
標的を視界に捉える。
如何に高速で移動しようが、視界にさえ捉えられれば後は何とかなる。
距離、五メートル。開けた森林に、一匹の軌跡が鋭角に刻まれた。
標的は既に殺された仲間の姿を見て学習したのか、直線的な軌道ではなく、ジグザグにフェイントを掛けつつ正面から突っ込んで来る。
(……その動き。悪くはない、が)
剣の柄に添えた両手をしっかりと握り、標的を見据える。
何のことはない。標的とはいえ、ただの飢えた狼に過ぎない。
幾度も刃を交えた相手だ、対処法は心得ている。
身を僅かに屈め、剣を中段に構えた後――踏み込む。
(俺には勝てない)
瞬間、狼が跳躍した。見据えた正面にちらと光る鋭利な牙。
互いが交差する、その機。
一息に身を屈め、中段に構えた剣を左に倒して振り抜く。
「――――破ッ!!」
刹那。喉首を存分に掻っ切られた狼は着地に失敗、脚をもがくようにしてのた打ち回った後、血反吐をぶちまけて息絶えた。
先程まではあれだけ粋がっていた生命も、今やその鼓動を一音も鳴らすことはない。
「……こんなものか」
張り詰めていた息を吐き、周囲を見渡す。
周辺には五、六匹の狼の死骸が横たわっていた。どれも、この剣で殺傷したものだ。
あらかじめ用意しておいた布で、剣に付着した血と脂を拭い鞘に納める。
腕は鈍っていない。平々凡々とした今の生活でも、この剣の腕だけは鈍らせておくわけにはいかなかった。
「……帰るか」
ひとりぼそっと呟くと、死屍累々と横たわる狼の死骸にはそれ以上眼もくれず、踵を返した。
月に一度の修練を終え、山から降りてねぐらへの家路に着く。
ふと後ろを振り返ると、そこには雄大な自然に囲まれた山々が連なっていた。
(……ああ、悪くない)
この土地はいい。標高三千メートル級の険しい山々のふもとに抱かれたこの西の地は、帝国の領土にありながら一切の喧騒がない。
無論、このような辺鄙な地を好む者などごく少数だろう。
魔術が発達し、その恩恵にあやかった便利な道具器具の類いが発明されていれば、どうあっても大多数の人間はそちらに流れる。
だからこそ、ありがたかった。ひとり静かに暮らすには、そういった人混みは不要だった。
(……まぁ、そのおかげで多少の贅沢には眼を瞑らなければならんがな)
自給自足。正にこの言葉通り、生活に必要な物事は全て自分ひとりで賄う必要がある。
とはいえ、近隣の城塞都市に行って金さえ出せば大方の物は調達できる。衣服も、食糧も、生活に必要とされる大半の物であれば。
その為のお金に困ることもない。おそらく、貨幣という存在が無くならない限り、死ぬまで使い果たせない大金がこの手にはある。
(こいつだけが、俺を縛る過去の遺物だが……。致し方あるまい、生きる為には必要なものだ。ありがたく使わせてもらう)
そう割り切り、それ以上過去を振り返らないように努めた。
今の俺は、もう過去には縛られない。今の生活さえ謳歌出来れば、それで。
程無くして山道を下り終え、ふもとにある我が家への敷地に入ろうとする――が。
(……誰だ?)
曰く不穏な気配を感じ取り、歩を止める。
このような辺境、ましてや誰も所在地の知る者などいない我が家に訪問者とは。
差し当たって思い当たるのは、帝国軍の関係者か――。
(……いや、詮索は無用だ。この眼で確かめれば良いだけのこと)
そう判断すると、何ともない振りを装って邸宅の敷地へと足を踏み入れる。
正門をくぐり、玄関まで歩を進めるが反応はない。
向こうは勘付かれていないと思っているのか、或いはこちらを試しているのか。
何はともあれ軒下を過ぎ、ドアの前に立つ。
そして、そのまま玄関のドアノブに右手を掛けようとした、その瞬間。
「――――ッ!!」
鈍い音が鳴り響いた。
背後からの奇襲。咄嗟に剣を抜き打ち、振り向きざまに薙いだ刃で相手の斬撃を防ぐ。
侵入者は俺の唯一の武装たる剣の柄から、右手が完全に離れた隙を狙って奇襲したつもりだったのだろう。
だが、その間隙を逆手に取って返してやった。
そのまま、鍔迫り合いとなった剣を押し込み、刃先を相手の首元まで滑らせる。
逆に不意を衝かれる形となった侵入者は、打って変わって呆気に取られた顔をしている――かと思えばそうではなかった。
「……お前、リーゼロッテか……?」
反射的に呟いた侵入者の名。
どんな不届き者かと疑ったその顔は、己が良く知る若き帝国軍人だった。
「――久しぶりだな、エイン。腕は鈍っていないようで何よりだ」
不敵に笑った後、リーゼロッテは構えていた剣を鞘に仕舞った。
その動作は流麗で、正に軍人であり武人である彼女の特徴をよく表している。
とはいえ、その容姿は荒っぽい軍人には似つかわぬ美貌の持ち主で、非常に均整がとれたしなやかな肢体をしていた。
「……グレンツェ要塞の司令官たる少佐殿ともあろうお方が、隠居した一兵卒に何の用だ? まさか、俺に帝国軍に戻れなどと言うつもりは――」
剣を鞘に仕舞いつつ、不躾に訪れた同期の知人を問い質そうと言い寄るが、リーゼロッテは咄嗟に右手を突き出し、続く言葉を制止させた。
「いや、お前にそこまで言うつもりはない。だが、それに近しい頼みではある」
きっちりと着こなした軍服のコートをはためかせ、リーゼロッテは居住まいを正した。
生真面目で堅物然とした顔に、深い青色の長髪が靡いて揺れる。
「この案件は他でもない、お前にしか頼めないことだ」
「……俺?」
そうだ、とリーゼロッテは答える。
確かに幾つか思い当たる節がないわけでもないが、今の俺では生憎とどれも請け負うことはできない。
それが軍絡みの案件であるというのならば尚の事。
「……俺は、お前達帝国軍の頼みは聞かないと、以前に言ったはずだが?」
重く否定的な口調で彼女に告げる。
今の俺は、今の安穏とした生活を崩す要因にしか牙を向けないと決めている。
だが、リーゼロッテは退くことなく俺に和解を求めようとした。
「まぁ待て。この案件は、いずれお前の生活にも関わってくるものだ。それも、今の生活基盤を覆すくらいにはな」
「……何?」
聞き捨てならぬ言葉に、耳をそばだてる。
「言っておくが、これは軍の利益に関わるだけの話ではない。この帝国西部方面一帯に関わってくる話だ。……どうだ、少しは私の話を聞く気になったか?」
リーゼロッテの言葉に、しばし押し黙る。
確かに、帝国軍を抜けてからこの方、今の生活は大層気に入っている。
それも、寿命が尽きて死ぬまでこの地で暮らしていたいと思う程度には。
だが、その安穏とした生活が今に崩されると彼女は言う。
(……なるほど、俺の考えを見抜いた上で交渉を仕掛けてきているということか)
あからさまに意地の悪い作戦だが、今の俺にとっては効果的という他ない。
それに、彼女から話を聞く程度であれば問題はないだろう。
今の生活を崩す要因が彼女の口から語られるのであれば、何はともあれ聞くだけ損はない。
「……分かった。話を聞こう」
そう言うと、リーゼロッテは心なしか嬉しそうな笑みを見せてから口を開いた。
「では、順を追って説明していこう。お前も知っての通り、現在我らがマルス帝国とザトゥルン共和国との全面戦争は九年も続いている。今年でちょうど十年の節目だ。それに関して、少々動きがあってな」
言わずもがな、ここは人のいない平穏な土地だから良いものの、世間では正に戦時真っ只中である。
ザトゥルン共和国というのは、帝国の西部から南、南東部に掛けて国境を接する多民族国家のことを指す。
国としての歴史はマルス帝国には及ぶべくもないが、新興国家としての成長ぶりは眼を見張るものがあった。
肝心の開戦理由は、確か帝国の植民地に関するものだったと記憶しているが――。
ともかく、緒戦は帝国の圧勝続きではあったが、意外や意外、共和国は未開の土地から引っ張り出してきた人間とは異なる生態系を持つ種族――ゴブリンやらオークやらリザードマンといった亜人、獣人種を駆り出し、帝国と一進一退の攻防を繰り広げた後、劣勢を覆して膠着状態まで持ち込むことに成功している。
「……確か、今は小康状態が続いているはずじゃなかったか?」
そう聞くと、リーゼロッテは露骨に険しい表情をした。
「……それがな、向こうに送り込んでいる間者の報告によると、ザトゥルン国内で大規模攻勢の兆しが見受けられたそうだ。それも三年前と同様、いや、それを上回る兵力をもってな」
――三年前。
それは当時、逼迫していた両軍の戦況を打開すべく、シュラーク作戦と称されるマルス帝国による一大攻勢作戦が実施された年だった。
開戦以来、両軍双方において夥しい死者を出した大規模戦闘。
ザトゥルンの兵力を軽視していた帝国軍は、共和国側の国境奥深くまで侵攻したところで敵軍の包囲に遭い孤立、情報の錯綜と前戦の混乱により、凄惨な消耗戦となった結果、辛うじて両者痛み分けへと持ち込んだ。
その後、互いに休戦協定すら結ばず、暗黙の了解に等しい形で膠着状態へと移行し、今に至っている。
それが、ザトゥルンの手によって崩されようとしているということか。
「……なるほど、状況は分かった。それで、奴らが侵攻しようとしている地域はどこだ?」
「帝国軍情報部の調査によれば、ふたつの地域が想定されている。まずひとつは、ザトゥルンが長らく本命としている帝国南部のシュペーア要塞。そして、もうひとつは陽動、或いは、漸減作戦の一端かは不明だが……」
そもそも、ここ帝国西部とは異なる遠い地域の話が俺に関わってくる筈などない。
今までの話から充分不吉な臭いを感じ取ってはいたが、おそらくそれは現実のものとなる予感がした。
「――帝国西部、ここグレンツェ要塞だ」
「……そう、か」
ここが戦場になるということは、今の悠々自適とした生活が脅かされるということ。
なるほど、確かに俺にとっても無視できない案件だ。仮に城塞都市が陥落すれば、生活に必要な生命線が断たれるも同意。
その事実に、まるで神の宣託を受けたかのような心持ちとなったが、自然と冷静さは保たれていた。
そんな俺の表情を読み取ったのか、リーゼロッテは不思議そうな顔で問う。
「……あまり、動揺しないのだな」
「いや、そんなことはないが……」
実際、俗世から抜けて数年経っているが故に、事態の深刻さをいまいち感じ取れていない節もあった。
だが、それ以上に。
また、あのような光景が視界に広がるかと思うと、身が竦む程度には筋肉が強張ってしまうらしい。
事態に対する動揺よりも、少しの恐れが心中にはあった。
「ともかく、この報告を受けた帝国西部方面司令部は、ザトゥルンの侵攻に備えた戦力の再編を開始している。奴らの本格的な動きが見受けられた場合は、シュッツ要塞への民衆の避難もすぐに始まるだろう」
西部方面司令部が置かれているシュッツ要塞は、ここグレンツェ要塞の後方、マルス帝国のほぼ中央にある帝都寄りに位置し、最終防衛ラインの一画を形成している。
これに対し、グレンツェ要塞はザトゥルンと国境を接する南西に一番近い最前線にある。
「……戦力の再編ってことは、まさか西部方面司令官殿が直々にグレンツェ要塞にお見えになって、陣頭指揮でも執られるのか?」
臆面もなく皮肉交じりにリーゼロッテに問う。
だが、俺の予想通り、それは望むべくもなかったようだ。
「いや、ギーツェン司令はこちらに援軍を派遣しただけだ。……あの方は三年前に指揮し大敗を喫したシュラーク作戦以後、保守的な方策に転じるようになったからな。おそらく、シュッツ要塞から自ら出向くことはないだろう」
重い息を吐き、どこか残念そうな表情を見せるリーゼロッテ。
彼女がそういう顔を見せるのも無理はない。俺とて同じだった。
「まぁ、その方がありがたいかもな。今のあの司令官殿に任せるよりは……。それに、最前線で場数を踏んできたお前さんなら、充分司令官として立ちまわれるだろうよ」
「……買い被り過ぎだ。私はそれほど戦上手ではない」
僅かに顔を背け、謙遜を露わにするリーゼロッテ。
常に自信ありげに立ち振る舞う彼女であったが、何故だかこういうところだけは謙虚であった。
「……で、ギーツェン司令は一体どれだけの兵力をこっちに寄越したんだ? 一個師団か? 或いは、一個旅団か?」
そのまま、少々ふざけた口調で予想を立てるが、当のリーゼロッテは打って変わって固い面持ちとなる。
彼女は一瞬戸惑うかのように口籠った後、衝撃の一言を言い放った。
「……いや、たった一名だ」
「……な」
――援軍がたったの一名。
予想だにしなかった答えに、俺は言葉を失った。
彼女は基本的に嘘を吐くことはない。そして、下らない冗談を嗜む性格でもない。
それ故に、その答えは真実であるということを無言のうちに物語っている。
完全に呆気に取られた俺を苦笑するでもなく、彼女は深刻そうな表情のまま、俺の眼を真っ直ぐに見詰め言葉を紡いだ。
「長くなったが、ここからが本題だ。お前に頼みたい案件というのは、その援軍として送られた者に関わることだ」
そして、僅かに顔をしかめながら、リーゼロッテは空前絶後の無理難題を告げる。
「――決戦兵器たる被検体の少女に、お前が持ち得る魔術の全てを教えてやって欲しい」