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炎人、円刃

 溝端恭平はホームレスである。


 ただ周りに流されるだけの人生を送ってきた彼は、当然ながら当時の経済状況に流されるままにリストラされ、自分の意志とは無関係に二年間ものの間ホームレスをやっている。

 まだ会社にいた頃の彼は、少しでも金を稼いで裕福な暮らしをしたいと思っていた。だが、今ではその日を生きていければそれでいいというレベルにまで、彼の志は落ちていた。とはいえ、人並みの幸福を得続けたいというのが彼の望みなら、誰にも縛られず、特に美味しいものを食べられなくてもいいという彼の今の在り方は、彼を彼らしくしているとも言えるだろう。


 だが、自由とは必ずしも人をありのままの姿にするわけではない。現に今の彼は、誰にも縛られていないという意味では自由だが、その反面金の事にかけては不自由だ。恭平にも、大枚をはたいてでも食べたいぐらい好きな食べ物ぐらいはある。だが、金が無くては食べられない。金が無くては、嗜好品の一つすらままならない。ホームレスをやっている身ではあるが、流石に道端に捨てられたファストフードを食べたいとは思えないし、ポイ捨てされた煙草の吸殻を吸う気にはなれない。

 まだ彼が完全に飢えてないというのもあるのだろうが、彼の精神の根っこには未だに標準の生活を送っていた頃の意識が根付いていた。



 そして今、彼はその『かつての生活』の意識を持っている事に、初めて後悔している。



 三条市の河川敷。そこには、多くのホームレス達が、その日暮らしの為の住処としてハリボテの家を造り、生活していた。

 そして今、彼らの家が、見るも無残に燃えていた。


「そんな…俺達の…家が…」


 あまりにも唐突で、誰も理解できなかった。

 あるホームレスのビニールシートの屋根の家が、突如として燃えだしたのだ。そして、そこから別の家へとどんどん火が燃え移り、たちまち集落中に煙が立ち込める。


「お、おい、あそこってまだ誰かいなかったか…!?」


 ぼさぼさで薄汚れた髭を振り回しながら、一人の老人ホームレスが別のホームレスに問いかける。

 誰が住んでいたのか自体、恭平はさっぱり覚えていなかった。何せこの集落には、次から次へとホームレスが雨風を防ぐ宿を探してやってくるのだから。故に、薄情な事この上ないが、誰が死のうと恭平には関係が無かった。少なくとも、彼の身内で彼以外にホームレスをやっている人間などいない。人間という存在は、身内と親しい人間以外には基本的に薄情なものである。

 だが、誰が死のうと関係なくとも、彼の住居が無くなってしまうのは我慢ならない。


「お、おい!早いとこ火ィ消せよ!燃え広がるぞ!」


 ボーっと、ただ燃える住処を見守るだけで腑抜けてしまっているホームレス達に、誰かが思わず声を上げた。瞬間、我に返ったホームレス達があたふたとし始める。


「水だ!川から水を!」

「お、おお!そうだな!なんか容器もってこい!」


 とりあえず火には水を、という事で、ホームレス達は手あたり次第に水の入れられそうな容器を探し出し、急いで川に向かう。

 だが、恭平は動けなかった。ただ茫然と、目の前の光景に立ち尽くすのみ。ホームレスになる前の意識がこびりついているのか、未だに信じられないといった様子で、燃える家をただ見つめる。

 そんな恭平だったが、「テメェもさっさと働け若造がァ!」と言わんばかりに別の年輩のホームレスに強く肩をどつかれた事でようやく我に返った。そして、促されるままに自分も何か水を入れられそうな物を探そうとした時だった。


「お、おい!中から誰か出てくるぞ!生きてたんだ!」


 その声に反応し、咄嗟に振り返った事を、恭平は死ぬまで後悔するだろう。



 もっとも、その光景を目の当たりにしてからその後、生きていればの話ではあるが。




 燃える住処から、人影が出てくる。その時点で、恭平の背筋に冷たい何かが走ったような気がした。

 何せ、その人影自体もまた、燃えていたのだから。


「う、うわぁ!」


 面食らうのも無理はない。ただ燃える家から火達磨になった人間が出てくるだけでも恐れが生まれてしまうというのに、その人影はまるで、ゾンビのようにふらふらと出てきたのだ。その人影が男なのか女なのかの判別も付かない。そしてその顔も、火に包まれてるせいでまた然り。


 燃える人影は、ふらふらとした足取りで歩みを進める。その歩みが、恭平にはまるで自分の方を目指してきているようにも見えた。彼の中の良心が生んだ錯覚だろうか。


 否、間違いなく、その人影は恭平を目指して歩いていた。

 現に、恭平が右に一歩分動くと、それに追従するように人影も体の向きを僅かに左に向けているのだ。


「ひっ…」


 恭平は混乱していた。何故、自分に向かってくるのか。自分が一体何をしたのか。いや、何もしていない。


 異常な光景を目の当たりにした今の恭平には、その燃える人影が自分に救いを求めているというよりも、文字通り『何もしていない』自分に強い憎悪を向けているように見えてしまっていた。

 もしかすると、それが錯覚であるという事が分かっているのかもしれない。しかし、人という生き物は悲しい事に、思い込みが激しい存在である。自分は思い込みなどしないと思っていても、無意識のうちに思い込みを起こしてしまっている。例えていうなら、ニュースで殺人犯の情報が流れた時、その殺人犯が冤罪であったとしても「その人間は凶悪な殺人犯だ」と思い込んでしまうように。


 今の彼は、彼の内なる良心が引き起こした思い込みに支配されていた。人影がこちらに向かってくる理由は、実際のところ何一つ分からないというのに。


「あ…あ…あああああァーーー!!!」


 やがて、彼の中の恐怖の感情が爆発し、その恐怖が脳に、そして足に命じる。逃げろ、と。




 気付けば、恭平はホームレスの集落から離れた場所にいた。どこか、と言われるとよく分からない。周りに家がまばらに見えて、道路がある。それぐらいしか彼には把握できなかった。把握するよりも、いまだにあの燃える人影に追いかけられている気がするという強迫観念のせいで、ただひたすらに走らざるを得なかった。



 その数時間後、ようやく冷静さを取り戻せた恭平がホームレスの集落があった場所に戻ってきた頃には、そこには燃えカス以外の何もなかった。


 彼らの住処も、彼ら自身も。


 一切合切何もかも、灰に帰した。


 だが、恭平は安堵していた。あの燃える人影が、どこにも見当たらなかったから。









******




「畜生。青葉、これで何件目だァ」

「そうですね…確認できただけで十九件。その内今月に入ってからのが四件ですね」


 くたびれた黄土色のコートにくたびれたソフト帽という典型的な格好をした三条市警察所属の刑事、牧嶋平治まきしまへいじは、シートを掛けられた被害者に手を合わせながら、不快感を隠す事も無く、隣に立つ生真面目な相棒に問いかける。

 問われた方の灰色の背広の青年―青葉潔あおばきよしは、そんな不快そうな先輩刑事を特に気にする事もせず、懐から取り出した手帳を確認する。


 三ヶ月ほど前から今に至るまで警察が必死に捜査を続けているこの事件、巷で『三条市連続通り魔事件』と呼称されているが、犯人の足取りはおろかその手掛かりと思しきものは、一度も確認できていない。それに対しこの事件の犯人は、週に一度か二度、下手をすれば四度という周期で通り魔を働いており、今の段階で分かっている事と言えば、犯人は何故か三条市内のみ(・・)で活動している事、そして―


「これだよなぁ…」


 シートをめくりながら、牧嶋はため息をつく。と、それと同時に一言。


「…青葉ァ。トイレならすぐそこの公園にあるぜ」


 その瞬間、青葉は手で口元を抑えながら、足早に現場から離れていく。青葉とコンビを組んでからはや五年以上にはなるが、青葉という刑事は未だに惨たらしい状態の死体を見るのに激しい嫌悪感を感じてしまうようで、見る度に吐いている。

 やれやれ、と内心で青葉を情けなく思いつつ、鑑識が確認した―と言ってもこの通り魔事件に巻き込まれた被害者は、皆同じような状態になっている為に確認の必要性も無くなってきているが―死体の状態を思い出す。


 被害者は市内に住むOLの女性で、死亡理由は出血多量によるもの。その体には横向きに何本ものの傷が、数センチ間隔で平行に着いている状態で、ただ傷が着いているのなら猟奇的殺人と捉えられそうではある。問題はその傷が、円を描くように着けられている事だった。


(一体、何をどうすりゃこんな傷が出来上がるんだ…?単なる刃物とは到底思いにくいが…)

「うう…失礼しました。いやしかし、何度見ても慣れな…オェッ」

「…無理すんじゃねぇよタコ助」

「お気遣いどうも」


 被害者を死亡状態に至らしめた『凶器』について思考を巡らせていると、青葉が現場を離れてから五分足らずで現場に戻ってくる。


「青葉よぅ。これ、どう思うよ」

「…うっぷ。皆目、見当もつきませんね。五年前の時ですら、こんな…なんとも言えない傷、見た事がないですよ…」


 その言葉を聞いて、牧嶋は懐かしむように、その五年前に起きた出来事を思い出す。そういえば、あの頃は―



「ちょ、ちょっと、困るッスよ君ぃ~。ここから先は立ち入り禁止ッス!」


 ふと、後ろの方でそんな声が聞こえ、牧嶋と青葉は同時に振り返る。

 見れば、一人の警官が立ち入り禁止のテープの前で、バイクに乗った―体格から察するに―男に向かって手をぶんぶんと振り回しながら、何やら話しかけている。


―確かあの警官は、ここ数日の間に入ったばかりの新人ではなかったか。確か名前は…そう、土屋つちやだ。


「…ああ、そういやここ、一本道か。ったく、面倒な…」


 牧嶋は思い出したかのようにそう呟くと、あたふたしている土屋の元へ歩み寄る。

 自分で呟いた『一本道』という単語に、どこか引っ掛かりを感じながら。


「…あ~、すいませんねぇ。今ここは通行禁止になってまして…」


 そうバイクに跨る男に話しかけていると、ふと、奇妙な感覚が牧嶋の胸の中に広がっていく。

 目の前のバイク男は、なんの変哲もないジャケット姿にフルフェイスのヘルメット。それだけを見れば特に何も感じないのだが、バイクを見た瞬間、その感覚が牧嶋の胸を暖かく包んだ。


 一見すると、装備がそこまでない事を除けば白バイ隊員が乗るオートバイに酷似しているが、ボディにはブルーのラインが二本走っており、極め付けに側面部に目立つ、やけに角ばった数字の『9』。


 一般の物にしては独特過ぎるカラーリングのこのバイクに、牧嶋は間違いなく見覚えがある。否、あるだけではない。


「…おめぇ、もしかしてくすのきか?」


 牧嶋のその言葉に、えっ、と振り返る土屋と、同じくえっ、と声を上げて牧嶋を一瞥し、再度バイカーの方を見る青葉。

 すると、楠と呼ばれた男は、ヘルメットの目の辺り―スモークで目元の見えないシールドを持ち上げる。


 若い男だ。その目元に皺の一つもなく、更に言えば精悍でかつ穏やかさを感じさせる目つきは、若々しい男のそれだ。そしてそれは、牧嶋の予想が当たっていた事を物語っていた。


「お久しぶりです、牧嶋さん」


 男―楠は牧嶋の問いにそう返すと、目元に笑みを浮かべ、ヘルメットを脱ぐ。

 中から現れたのは、若いながらも、どこか頼もしさを感じる若い男の顔。


「楠君!?君なのかい!?」


 青葉も、楠がシールドを持ち上げて目元を晒した時にようやく気付いたらしい。

 まぁ、無理もあるまい、と、牧嶋は軽く笑みを浮かべる。何せ彼、楠九郎くすのきくろうは、四年前に三条市を離れ、今の今まで戻ってきていなかったのだから。


「楠ィ!おめぇ、しばらく見ねぇと思ってたらよォ!…なんだ、妙に男前になったんじゃねぇか?」

「ハハ、そういう牧嶋さんは、年をとってもお変わりないようで」

「ばーろォ、俺もまだまだ現役よォ。ったく、相変わらずクールぶりやがって」


 そう悪態づく牧嶋だが、その顔は言葉に反し笑顔そのものだ。まるで、と形容する必要もない程に、旧友にあった時の笑顔そのものだ。


「しばらくぶりですね、楠君!」

「青葉さんも、お元気そうで!」


 普段は冷静沈着な青葉も、かつての友との再会には感慨深いものがあるのだろう。楠と握手を交わすその顔は、牧嶋もあまり見ないようないい笑顔を浮かべている。

 そして土屋とはと言うと、何がどうなっているのかも分からず、ただ先輩警察官とバイクに跨った男の顔とで交互にせわしなく目を動かしていた。


「え、えーっと…?」

「ん?おう、すまんな。こいつは…」

「僕が説明しますよ、牧嶋さん」


 楠の事を土屋に説明しようとした牧嶋だったが、それを楠本人に遮られる。その瞬間、牧嶋はハッとした。何せ、楠が警察の協力者だったのは、五年前の事件の時だけだ。つまり今では彼は一民間人に過ぎない。


 しかし楠は、そんな牧嶋の懸念とは真逆の内容を伝えたのだった。


「どうも。この度特別捜査官として、三条市警察に配属になりました。楠九郎くすのきくろうと申します」


 そう言いながら、楠が懐から見慣れない手帳を見せた瞬間、驚きの声が上がった。

 土屋のものではない。牧嶋だった。


「お、おめぇ、特別捜査官ってどういう…」


 流石に予想だにしない事が楠の口から出たのに驚きを隠せない牧嶋。

 彼が一体どういう事なのかを楠に問い詰めようとした、丁度その時だった。河川敷で謎の火災が発生という通報を受けたとの連絡が、青葉の携帯に届いたのは。

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