始動
「それで」
三条市からかなり離れた場所にある伍橋市。そこにある一際目立つ高層ビルの、その最上階の部屋。
伍橋市の全てを見下ろせるその部屋で、リクライニングチェアに座りガラス越しの景色を眺めている、灰色のスーツを着た壮年の男。
その男は、彼が今背に向けている机を挟んだ扉の前のスペースに立つ、ネクタイも含め全て黒一色の若い長躯の男に話しかける。
「どうなった」
「はい。とても微弱な反応で、しかもすぐ消えてしまった為に細かい位置の特定までには至りませんでしたが、三条市内にいる事は確実だと思われます」
その報告を受けた男は、何も言わずただ外を見つめている。
「…分かっておられると思いますが、『アレ』の原理・仕組みは、そう簡単に解明できるものではありません。『アレ』は開発者が、あの男が自身にのみ解錠・理解できるようにした、まさしくブラックボックスと呼ぶべきもの。一朝一夕でどうにかなるものでは…」
「分かっている」
そこでようやく、男は返答を返した。そして、椅子を回転させて机に、もう一人の男の方に向く。
「ああ、十分に分かっているとも。アレは並の研究者に技術者程度が理解できるものでもなければ、高名な学者サマだのベテランエンジニアだのが見てもなお、解明どころか理解できるかどうかすら怪しいシロモノだ」
一見平静そうに見える男の様子だが、長躯の男にはその言葉の端から滲み出るものを感じ取っていた。
「ウチの技術部門は、奴の研究所お抱えの連中とまではいかんだろうが、それでも皆優秀なスタッフだとは自負しているし、むしろ誇りに思っている。彼らがいるからこそ、この会社は日本有数の企業となりえたのだ」
淡々とではあるが、自らの部下を咎めるどころか、逆に褒め称える男。
「そんな彼らであってもあのブラックボックスが開けられないのは、一重に『それに関する知識』がないからだ。あのブラックボックスにまつわる知識の全て。それらを全て手に入れる事で、より飛躍的な進歩を遂げることができる」
しかし、長躯の男には分かっていた。
彼は今、非常に苛立っている。
「…しかしあの男は、それを秘匿すべき技術として、世間に公表することなく研究を続けていた」
「そうだ。そこが分からない。何故秘匿する必要があるのか」
男は歯を食いしばり表情を歪めたことで、その顔に刻まれた皺が更に増える。
「私はこう思っている。奴はこの技術を独占したかったのだと。だから、『アレ』をブラックボックスにして、誰にも分からないように隠したのだと。…だが、そうはさせん」
壮年の男は、再び椅子をクルリと回転させ、長躯の男に背を向ける。
「どれだけ時間がかかろうとも、絶対に解き明かす。そうすれば、『正義を志す者』共を抜き我々が主導を握る事ができる」
窓の外を鳩が悠長に飛び去る。
「日陰者の連中の手にあるより、その方が世界にとってよほど良い」
壮年の男の表情が再び歪む。ただしそれは先のようなものではなく、むしろ笑顔を浮かべている。
「……」
長躯の男は何も喋らず、ただ壮年の男の座る椅子の背を見つめていた。
******
人に囲まれるのは苦手だ。それが、自分達に関係あろうとなかろうと。
「ねぇねぇ、君ってこの辺りに住んでるの?」
「ここに来る前はどこの学校通ってたの?」
「うわぁ…白髪なのに、すっごい綺麗…どーやったらそんなに綺麗に手入れできるの?」
「ていうか、君達二人一緒にこのクラスにやってきて」
(…こうして女子連中にキャーキャー口やかましく話しかけられたり…)
「え、えーと…大槻さん?そのぉ…」
「おい、後つっかえてんぞ!授業もあんだから早くしろよ!」
「そ、そんなこと言われてもさぁ…」
「あっ、そうだ!この辺りに上手いラーメン屋あるんだけど…」
「馬鹿、なんで女子に勧めんのがラーメンなんだよ!普通スイーツだろ!つーわけで、俺、いいクレープ屋知ってんだけど…」
(…野郎共がティアにまとわりついたりっていうのは、いつまでたっても耐えられんな)
ちなみに大槻という苗字はガラテアのものだ。そもそも肉親というものを持たない彼女の戸籍として、大槻夫妻の義理の娘という事にしてあるのだ。
「…?えっと、御堂、だっけ?なんで俺らを睨んで…」
「…失礼。そういうつもりはなかったんですが、何分人と話すのが苦手で…」
四月四日、私立三条ヶ原高校では始業式が行われる日に、彼らはこの高校の二年生として転校してきた。
そして転校初日にして、愛斗の気分は最悪だった。転校生とくれば人がやってくるのは有りがちゆえ、すでにそれを見越していたつもりだったが…
(まさか、こんなに集まってくるものなのか…?)
彼の想定していた人数よりも、はるかに多かったのだ。
その原因の一端を担っているのは、主にガラテアの美貌にあるのだろうと愛斗は考えていた。そして同時に、ガラテアが悪いのではなく、その魅力に抗えない連中が悪いのだとも。それに加え、自分もまたその一人だと自覚していながら、自分以外がガラテアに近づき、あまつさえ色目を使ってくるのが気に入らないと思っているあたり余計に性質が悪い。御堂愛斗と言う人間は、奇妙なまでに独占欲で溢れていた。
なお、こうして独占欲をたぎらせている間にも、転校生が気になって仕方ないクラスの女子達が何人も彼に話しかけてきていたのだが、ことごとく無視している。
彼自身もそれなりに整った顔立ちなのだが、まさかそれで人が寄ってくるとはこれっぽっちも思っていないらしい。ガラテア以外から向けられる感情には、非常に鈍感だった。
現在時刻は間もなく正午に差し掛かろうという頃合い。ついさっき転校生である彼らの紹介が終わったばかりだ。そして今クラスの一番後ろの席に座る愛斗とガラテアの元に群がっているクラスメイト達は、この日は始業式のみという事もあってこの後帰るだけにも関わらず、転校生である彼らに興味津々という訳だ。学校行事恒例の校長による長ったらしく退屈な話の時間に耐えていた反動もあるのだろう。
元々愛斗自身、父親を失った事故が切っ掛けで塞ぎこみ、それこそガラテアと大槻夫妻を除いた人間とはまともに会話をしたことがなく、小学校・中学校ともに所謂『ぼっち』のレッテルを貼られるような少年時代を送ってきた。はっきり言ってしまえばコミュ障というやつなのである。最近になってある程度は直ったものの、完全に直す為には如何せん人との繋がりというものが欠けていた。
そんな愛斗としてはガラテアを伴ってさっさと教室を脱出したいところだが、そうは問屋が卸さないとばかりにあっという間にクラスメイト達に囲まれ、未だに離脱できずにいた。
(クソ、強行突破してでも帰りたいところだが、それでティアにまで迷惑をかけるわけにはいかない…だが今のままでも…)
額から滲み出る脂汗。外面では平静を装ってはいるが、所詮そこまでだ。よしんばこの場を乗り切る為の策なら思い浮かんだとしても、それを実行に移せるほどの度胸が彼にはなかった。
チラリと、隣の席に座っているガラテアの方を見やる。余談だが彼らが隣り合った席になっているのは、実は辰郎が裏で手を回していたおかげである。
ガラテアもこれほどまでに人に囲まれる経験は無かったらしく、群がるクラスメイト達の好奇の視線に対して緊張してしまい、俯きっぱなしだった。否、俯きながらもチラチラと愛斗の方を見ている。無表情な彼女だが、何を意図しているのかはわかる。
彼女もまた愛斗と同様、極少数の人間とは会話したことがあるものの、彼女の生来の引っ込み思案な性格と愛斗に対しての依存が相まって、どうしようもなくなってしまっていた。ゆえに助けを求めているのだ。
見た目こそ人間だが普通の人間のように反応をする事ができない彼女にとって、最も近しい存在である愛斗に頼るというのは実に賢明な判断ではあるが、この場においては彼にもどうしようもなかった。
そんな風に困り果てていた時だ。
「はいはいお前ら、そこまでにしとけっての」
一人の少年が、群がるクラスメート達を追い払いだす。
まず目についたのが、ワックスを使っているのかやや跳ねている茶髪。
他の男子生徒が学校指定の深緑の制服のボタンを胸元の辺りまで外しているのに対し、鳩尾の辺りまでボタンを外して着崩しているその少年は、群がるクラスメートの一人の男子の肩に手を置き話しかける。
「俺がいる限り、人を困らせるような真似はさせねぇよ?」
「ちぇー、なんだよ古賀ァ。これから転校生と親睦を深めよーって時に」
「うっせー自己中野郎。見てみろ、困ってんじゃねぇか。困らせてまでお近づきになりたいってか?あぁ?」
「うっ…」
どうやら図星だったらしい。その男子は恨めしそうに古賀と呼ばれた少年を見やると、とぼとぼと離れていく。
「ほーら、お前らも困らせてんじゃねーよ。あと男子、ナンパはやめとけよ。悪い事は言わねぇから」
その言葉を聞き、次々とクラスメート達が(何人か舌打ちや愚痴を交えつつ)愛斗とガラテアの元から離れてゆき、ついに古賀以外にその場に立っている者はいなくなった。
「…あ、ありがとう」
余程信用されているのか、それとも何か別の事情があるのか。なんにせよ助けてくれたことには代わりない為、礼儀として感謝の意を述べる愛斗に、古賀は「気にすんな!」と元気よく返す。
「なんせ俺は自衛団のメンバーだからな。困ってる奴見過ごすわけにはいかねぇよ」
その言葉を聞いた瞬間、愛斗は思わず面食らってしまう。
よもや、自分が一番関わりたくなかった者達の一人と知り合ってしまうとは。
「ん?どした?なんか俺、変な事言ったか?」
「えっ…あぁ、いや。別に」
「ふーん。ま、いっか。なんか困ったことがあったら、この古賀勇作にいつでも言ってくれよ?」
古賀勇作と名乗ったその少年は、愛斗とガラテアに朗らかに笑いかけた。