朝、旅立ちの時
「お、ようやく起きたみたいだなぁお二人さん…ん?どうした愛斗、朝っぱらからやけに機嫌が良さそうじゃないか」
一階のリビング。食卓を囲む椅子の一つに座る気さくそうな中年の男性が、今しがた一階に降りてきた二人―愛斗とガラテアに話しかける。
「いえ、別に」
そう返す愛斗ではあるが、その顔は控えめではあるが鼻の下が伸びている。本人はこれでも隠しているつもりらしい。ついでにいえば、どこか輝いて見える。
そしてガラテアはといえば、何故か俯いたまま愛斗の制服の裾をさり気なく掴んでもじもじしている。
そんな光景に、壮年の男は桃色の雰囲気めいたものを感じ取る。そして悟った。
「…若いって良いねぇ。俺も若い頃は良く人目をはばからずに芳恵といちゃついてたもんだが…」
「ずぅっと、あなたの一人相撲のようなものだったわね」
「うっ!」
なにか思い当たる事があったのか、思い出話に花を咲かせようとしていた男性だったが、台所から食器を持って出てきた芳恵と呼ばれた中年女性に即座に突っ込まれ、痛いところを突かれたような表情を浮かべる。
「お、おいおい、この子達が信じたらどうするんだよ」
「だって本当の事じゃないですか」
「芳恵おばさん、心配しなくても辰郎おじさんの言う事なんてほとんど信じてませんよ」
「君も何気に酷いなぁ…」
芳恵のみならず、愛斗にすら信用されていないせいで酷く心が折られそうになっている辰郎おじさんと呼ばれた彼は、未だにもじもじとしているガラテアに助けを求める。
「ガラテアちゃん、ちょっとおじさんを助けてくれないかなぁ?二人とも酷いんだよ…」
「…あっ辰郎さん、なんですか?」
「ちょっと、君今話聞いてなかっただろ!?」
この様子だと、今までの会話を全て聞いていなかったようだ。まさに孤立無援状態。
がっくりと目に見えて肩を落とし、思わず苦笑を漏らす辰郎。そんな彼を見てクスクスと笑いを押し殺す愛斗と芳恵に、何が何だか分からないガラテア。
このような光景は、この家―大槻家では日常茶飯事と言っても過言ではない。
(あぁ、いつまで経っても、俺が弄られるのは変わらんのかね…)
辰郎おじさんと呼ばれたこの男。本名、大槻辰郎。この家の家主であり、今でこそご覧の有り様だが、これでも市立三条ヶ原高等学校理事長という立派な肩書を持っている男である。
そして、芳恵おばさんと呼ばれた女性。本名、大槻芳恵。一所懸命職務を全うする日々を送る辰郎を支える、年上の良妻である。
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「…それでですね、本当に酷いんですよ?私がやめて、って言ってるのに、愛斗は無視するし…」
「あらあら。今日も仲が良さそうね。でも愛斗?女の子に嫌がられるような事はしちゃいけないんじゃない?」
「大丈夫、口ではこんな感じですけど、結構満更でもない…ってごめんごめん!悪かったからそんな怖い目でこっち見んなって!」
「むー…」
いつもの賑やかな朝の食卓。愛斗が既にパンを平らげてただひたすらににこにことガラテアを見つめ、大槻夫妻は緩慢ながらも食し、そして特異な体を持ち、その特質ゆえに食事を必要としないガラテアは愛斗の隣の席で何も食する事無く話に混じる。ただ一ついつもと違う事があるとするなら、ガラテアが愛斗に対して少し怒っている事だろう。原因は言わずもがな。
「はっはっは、好きな子には悪戯をしたいってやつだな!愛斗、お前もまだまだ子供だなぁ」
「そんな事言って、あなたも十分子供っぽいわよ。そんなだから皆から弄られるんじゃない」
「む、むぅ…」
しめたと言わんばかりに煽りにいった辰郎だったが、芳恵によってあえなく返り討ちに会ってしまう。
再びしょんぼりと肩を落とす辰郎をよそに、芳恵は再び愛斗の方を向く。
「愛斗、あなたがガラテアちゃんの事が大好きなのはおばさんもよーく知ってるわ。けど、限度ってものもちゃんと考えないと」
「…まぁ、ちょっと暴走しちゃったかな、とは思ったんですけど…ねぇ?」
「ねぇ、じゃないよ。もう…」
相も変わらずむっとしたままのガラテアだが、芳恵には何故だかその頬が上気しているような錯覚を覚える。単なる直感でしかないが、存外愛斗の言う事も間違ってはいないのかもしれない。というか、信じてもいいのだろう。なにせ、かれこれ11年ものの間ずっと一緒にいて、おまけに彼らの場合とある事情が絡むゆえに尚更だ。それについてはここで語るべきことでは無い為割愛するが、簡単に言えば愛斗はガラテアの考えている事は大体わかるし、ガラテアもまた然り、という事である。
結局、愛斗がガラテアの言う事を何でも一つ聞くという事で問題は解決し、賑やかなまま朝の一時が進んでいく。
そんな中、辰郎はどういう訳か思いつめたような顔をしていた。彼が食べていた食パンも、真ん中辺りまで食べられてから一切手が付けられていない。
「…おじさん?」
それに気づいた愛斗が辰郎に話しかける。愛斗自身、彼のこの表情を見るのは初めてではない。彼が今の表情になる時、それは何かしら自分自身を責めている時だ。
普段は気前のいいおじさんで悩むところが想像できないほどの好青年ならぬ好中年の辰郎だが、芳恵曰く実はものすごく罪悪感を感じやすい人間らしく、それで悶々としているのは左程珍しくないという。
だが珍しくないにしろ、そうして悶々とする機会がここ最近で増えてきているのだ。そして、愛斗は大体の原因を知っている―というより、十中八九愛斗絡みのあの事だろう。
「ん?…あ、あぁ、どうした?」
「…いい加減、悩むのやめましょうよ。俺とガラテアが自分で選んだ事なんですよ?」
「!…なんで悩んでるか、やっぱり分かるか?」
「ええ、まぁ」
辰郎が悩んでいる事。それは、愛斗とガラテアが今日から通う学校に関しての事だった。
単なる極々普通の高校なら辰郎も悩む事は何もなかったのだろうが、自分が理事長を務め、彼らの住む三条市において最も有名な高校―三条ヶ原高校に通うという事が問題だった。
「…まぁ、少なからずとも勧めた私がこう言うのもおかしいもんだが、本当にうちの高校でいいのかい?」
「おじさん、高校に通うのは今日からですよ?そんなの今更でしょう」
「そういう事が言いたいんじゃなくてだなぁ…」
辰郎は頭をガシガシと掻きむしりながら、チラリとガラテアの方を見やる。
その視線に気づいた愛斗は、あぁ、と納得したように頷くと、ガラテアに「先に玄関で待っててくれるか?」と伝え、二人の会話が聞かれないようにリビングから追い出す。
ちなみに芳恵はというと、既に察していたのか「ガラテアちゃんの手伝いしてくるわね」と一言告げ、リビングから出ていた。
「…うちの学校にある『自衛団』の事は知ってるだろう?」
「ええ、そりゃ有名ですし」
自衛団。正確には学徒自衛団という名であるそれは、数年程前からとある大企業の支援により全国の主要な都市の中から更に選ばれた高校を拠点として結成されたものである。どの高校の自衛団もメンバーは主に有志やスカウトで集まった高校生達と彼らを統括する顧問の人間で構成されており、その高校の生徒のみで構成されている所もあれば、他校の生徒も交えている所もある。
自衛団の設立に関しては様々な謎があるもののそれらの殆どが明らかにされておらず、表向きには『自分の持つ力で人の役に立ちたいと願う生徒達に活躍の場を与える』というのが目的となっている。
一見すれば「子供に何をさせてるんだ」と様々な方面から抗議が殺到しそうではあるが―というより、そういった意見を持つ者も少なからずいるのだが―その実績に関しては確かなものであり、自衛団の活躍によってそれぞれの都市及びその周辺地域の犯罪発生件数が格段に下がり、中には一ヶ月に犯罪が一つ起きるか起きないか程度の都市すらあるほどだ。
そんな話題の自衛団の置かれている都市のひとつがここ三条市であり、その三条市に存在する三条ヶ原高校が自衛団の拠点となっている。
そして、その自衛団を事実上管理している立場にあるのが、辰郎というわけだ。当然ながら、彼には一般では知られていない事も少なからず知っている。
「前にも話したと思うが、自衛団がある本来の目的はな、何かしら特別な『能力』を持った生徒達に往くべき道を指し示すって事にある。そして、その特別な能力を、お前達も持っている」
「ええ。…まぁ能力っていうのはちょっと違う気もしますが」
愛斗の脳裏に浮かぶのは、今朝の自分の部屋での出来事。
ガラテアの首元に現れていた『アレ』。そして、そんな彼女と『繋がり』を持つ自分もまた然り。
特殊な事情があるとはいえ、彼らもまた『能力』を持った者と同様なのだ。
だが―
「…心配しなくても、俺、というか俺達は自衛団に入るつもりなんて毛頭ないですよ。例えスカウトされたとしてもね」
「お前達がそうだとしても、だ。最近妙な事件が起きてる事は、お前も知ってるだろう。それに巻き込まれてみろ、もしかするとガラテアちゃんの―」
「ストップ。もうこれぐらいでいいでしょう」
愛斗は無理矢理話を止める。その表情には、何やら複雑なものが見え隠れしている。
辰郎は思う。愛斗とて、わざわざ自衛団のある三条ヶ原高校に通う事によるリスクを分かっている筈だ。しかし彼には分からない。何故、そこまでのリスクを背負ってまで通おうとするのか。
それに、最近三条市で起きている不可解な傷害事件の事だってある。もしそれに巻き込まれでもしたら―
「俺達はあくまでも、平穏で、静かに暮らしたい。だからわざわざ目立つような真似は絶対にしない。それだけは絶対に言えます」
「……」
その一言を聞いた瞬間、彼は安堵すると同時に、落胆していた。
これでいい。これでいいはずなのだ。その選択こそが、彼らの、ひいては辰郎の友人であった愛斗の父親の願いでもあるだろうから。それなのに、何故自分はこんなにも、残念だと思っているのか。
「…もういいでしょう?そろそろ時間ですし、おじさんも理事長としての仕事があるでしょうし」
「…まぁ、そうだが…」
苦々しい表情を浮かべる辰郎をよそにリビングから出ていこうとしていた愛斗だったが、リビングと玄関前の廊下を繋ぐ扉を前にしてふと立ち止まり、こちらに顔を向け一言告げる。
「行ってきます」
その顔は、笑顔だった。にこやかに彼に笑顔を投げかけると、そのままリビングから出ていく。やがて、玄関の方から扉の開く音がしてからしばらくして扉が閉まる音が聞こえ、大槻家は静寂に包まれた。
「愛斗の言う通り、そんな心配は今更の事じゃない?というか、いい加減その心配性をどうにかしたら?」
「…そうは言うけどもなぁ…」
「私達が親代わりになって導く期間はもう終わった。そういう事でしょ」
「……」
再び辰郎は沈黙する。
御堂愛斗は、その苗字から分かる通り、辰郎と芳恵の子供ではない。それにガラテアもだ。
幼くして両親を失った彼の傍には、彼と同じぐらいの精神年齢でしかないガラテアしかおらず、その為に愛斗の父親の親友でありかつての戦友でもある大槻夫妻が愛斗を引き取り、今の今まで育ててきた。
「…もしかして、巣立っていく我が子を見てさみしくなったの?」
「…かも、しれんな」
「学校は同じなんだし、会えるじゃないの」
「そういうんじゃなくてだな…」
辰郎の心の中は、未だにモヤモヤとして晴れない。何か良くない事が起きるのではないかという不安。
これが、俗に言う親心というやつなのだろうか。
「…もう」
そんな暗い表情を浮かべる辰郎を見た芳恵は、一つ深いため息をつくと、「しゃきっとしなさい!」と両手で思いっ切り挟み込む。
瞬間的にやってきた痛みに、辰郎は思わず目を見開く。
「な、何ふぉ…」
頬を挟み込まれたせいで上手く舌が回らない彼に、芳恵が話しかける。
「そうやって心配性だから、皆あなたの事をからかうんじゃない。女々しいわよ、あなた」
「っへ、ほんなほほいふぁえても…」
困惑する辰郎を無視し、芳恵は続ける。
「あなただって若い頃、親や友達の心配をよそに、一人無茶したことがどれだけあったかしら?人の事は心配する癖に」
「……」
「それとも、親友の息子の言う事が信じられないのかしら?」
そう言うと彼女は押さえつけていた手を離し、目でチラリとある方向を指す。
その視線につられてみれば、そこには一つのフォトフレーム。
それに入れられている写真には、若かりし頃の辰郎と芳恵を含めた五人の男女が写っている。そして、写真の中の若き日の辰郎が両脇に挟むようにして肩を組んでいる、その右腕で肩を組んでいる眼鏡の男。
御堂春彦。愛斗の実の父親であり、研究者であった男。
「…そういえば、春彦にちょっと似てきたかもしれんな。頑固なところとか」
「でしょ?あの子は気付いてないかもしれないけど、結構頑固者になってきてるわよ、愛斗は。そんな頑固者を、あなたが止める事なんてできると思う?」
「…いーや。私どころか、ついには誰にも出来ないだろうな。ガラテアちゃんを除いては」
此の親にして此の子あり、といったところだろうか。優秀な研究者であり人間として難のあった御堂春彦のいい所も悪い所も受け継がれたのだとすれば、もう自分達には愛斗を止めることなどできはしないだろう。だが、春彦とは違い、愛斗にはガラテアがいる。愛斗にとってのガラテアとは、全てなのだ。彼がならなくてもいい場面で意固地になったのなら彼女がどうにかしてくれる、筈だ。
「もうあの子達は、自分達だけで生きていけるぐらいに成長した。つまり、もう親代わりはいらないな」
「あの子達はそうは思っていないかもしれないけど…でも仮にそうだったとしても、あの子達はまだ若いし、それにすごく不安定だわ」
「…だから、今度は人生の先輩として、あの子達が迷った時に道を示してやる、か」
そう一言呟いた辰郎の顔には、もう迷いなどなく、強い決意が見て取れる。
芳恵はその顔に、かつて正義の味方を志して仲間達と共に戦っていた頃―丁度写真を撮ったあの頃の辰郎を想起した。
大槻辰郎。かつて、迫りくる悪の手先を相手に戦友と共に立ち向かった『正義を志す者』の一人であり、戦いが終わった後教師をやっていたものの、その実績・経験を買われ三条ヶ原高校の理事長として、そして同高校における自衛団の最高責任者として裏方ながら今も活躍している男である。