朝顔に つるべとられて もらい水ー千代女
初春、と呼ぶにはまだ寒く、
でもそれでいて、木漏れ日の暖かさが心地よいそんな頃、僕はいつも日課の散歩をしていた。
僕、 朝顔 菜蔓は変化を探すのが好きだ。
お気に入りの遊歩道。
既に顔見知りになったウォーキング中のおじさんや、
大きな犬に引っ張られる人の良さそうなお姉さん。
いつも同じ場所で僕の背を走り抜いていくジョギング中のお兄さん。
こんな下らない程の日常にもやっぱり変化はある。
道行く人は皆、少しずつ薄地の服を着始めていたし、先程の犬もややその舌を垂れ下げていた。
うん、やっぱりもうすくなくとも「冬」では無いみたいだ。
ここで大きな伸びを一つ。
よし、そろそろ学校へと向かおう。
「おう!坊主、今日も一番乗りだな」
「おはようございます佐藤さん。毎日ご苦労さまです。」
時間通り。今日もちょうど用務員が開門する時に着いた。
「いつも礼儀正しくて偉いぞ!まったく他の奴等もお前みたいだったら良いんだけどな。」
そういって彼は僕の頭を乱暴に揺すり、馴れた手つきで南京錠に鍵を差し込む。
僕はこの時間帯がたまらなく好きだ。
この後、教室に着き耳を澄ませば、用務員が色々な所の窓や鍵を開ける音が聞こえてくるだろう。
静から動へ。
その使命を一度終え、眠っていた学校が、吹き抜ける風と光によって動き始める。
そんな変化が味わえる。
「おら、開いたぞ。ほい鍵。」
ぽいっと投げられたマスターキーをしっかりと確認して受けとる。
「では、鍵は後で返しにいきますので。」
「おうよ。」
失礼しますと一礼をして小走りに進む。実は、さっきから気になっていた事があった。
いつもの時間、
いつもの学校、
普段は開いているはずの無い窓が開いていた。
「ここは・・・旧図書室?」
外側から当の教室が校舎のどこかを確認し、そこであろう場所にはたどり着いたが、こんなところが校舎にあったのか、というのが正直な感想であった。旧図書室と、一応各階毎にある見取り図ではそうなっているが、普段まったく聞かないフレーズに首を傾げる。
私立深山学園は戦前、都市部からかなり離れた場所に私立中学として発足した。最初は英国のパブリックスクールをモチーフとしていた為、全寮制の男子学校であったが、時代と共に高等部から大学へとその規模を大きくし、その過程で共学制度を取り入れ、希望者を除き寄宿舎制の廃止を取り決めたという過去を持つ。
今でこそ図書館と言われた場合、学園全体の総合図書館と大学の敷地内にある大学図書館を普通指すのであるが、もちろん中学しかなかった時代の図書室が残っていても不思議ではない。
ここまで思考して一人で納得し、歩みを進める。
「失礼します。」
ドアノブをゆっくりとひねり、静かにドアを開ける。
なぜだか、大きな音を立てたら変化を産み出した主が消えるような気がしていたからだ。
最初、一迅の風と共に大きくふくらむカーテンに目をとられ、
刹那、僕はそれに目を奪われる。
大きめの部屋にところ狭しと散乱した書物。多種多様にまったく統一性の無い、ともすれば錯乱した誰かが荒らしたにしか見えないカオスの中で、それは静かに寝息を立てていた。
墨を流したような黒髪、陶磁器のような白い肌、そんな月並みの言葉しか思い浮かばない自分がもどかしく、この官能的な風景に酔いしれていた。
「ん・・・」
僕の視線に気づいたからだろうか、その人は体を一度硬直させてから、ふわっと力を抜いた。
不意に鼓動が早くなる。
僕は何をしているんだろう。
神の領域に無断で踏み込み、自らの行いの重大さに気づいた時、人はこのような感情に陥るのだろうか。
まだ間に合う。
「君、どうしたのだね。」
と一瞬でも思ってしまった僕はまだ自分のおかれた立場を理解しきれていなかったのだ。
眠たげに潤んだ瞳に見上げられた僕は、いつのまにかこんなに近くに引き寄せられていたのだった。
「返事はなしか。ふ~ん。そこにいるの案山子かはたまた路傍の石か。つまらない。」
そう言って彼女は腕の中に頭をもぐらせようとする。
「あのっ。じ、実はですね。」
「ふむ。」
再びこっちに向けられた大きな目に吸い込まれ引き出されるようにして僕は言葉を紡ぐ。
自分の価値観。
今朝の出来事。
なぜここを見つけたか。
彼女を見た感想。
事細かく全てを彼女に暴露した。
「ふーん。」
彼女の一見気の無い返事は今度は嬉しそうに聞こえた。
「私のことは置いておくとしてだね。」
彼女は身を起こす。
はだけたシャツや、乱れたスカートを正そうともせずに。
「つまり君は日常の愛好者な訳だ。小さな変化を楽しむことによって日常を愛でる。その考えを私は否定しないし、むしろ好ましく思うよ。」
その人は立ち上がり、僕にすりよる。
僕の伸長は大きい方ではないが、それでもなお、その人の頭は僕より1つ分下にあった。
「ただ、問題は君が私のような圧倒的な非日常に付いてこれるかだ。残念ながら君にとって私は破壊者でしかない。これから君の監察力はこの非日常に順応するために使いたまえ。」
そう言って伸長差を埋めるように背伸びをし、僕の耳元に囁く。
目の前には開けた胸元にほっそりと映える鎖骨が見え、僕の鼓動は頂点に達する。
「菜蔓君、ちなみに私は男の子だよ。」
確かに、僕の日常は圧倒的非日常によって打砕かれた。ただ、僕の胸に渦巻く甘美な色調はそれでも消えることは無く、ささやかれるままに、ふらふらと彼女についていった。
「ここに名前を書いて。」
ぼんやりとした頭で指示通りに動く。
この時僕は、ただの操り人形でしかなかった。もし死ねと言われていたら確実にそうしていた自信がある。
それほど僕は魅了されていた。
「うん、確かに。」
そういって、僕に笑いかけたこの顔を僕は今でも忘れられない。
ここが、僕の人生の変換店となったのは確実だろう。
「さて、ようこそ私の城、文芸同好会へ。私の名前は茂良 泉」