逃走劇
予想外と言えば不意を突かれたと慰められるが、今朝レギオンが局長の捜索に出ることを念頭置いておきながら自分が接触した時の事を考えていなかったジュリナリスは自分を戒めた。そのお陰で今は全力で彼らから逃げている真っ最中だ。そして遭遇したのがカルバーツが率いる隊だったというのが最大の不幸でもある。
これが他の隊ならば特に気に掛けられることもなかっただろう。しかしジュリはカルバーツとは旧知の仲である。
それだけにカルバーツは此方が局長についての情報を持っていると疑い、是が非でも捕えてくるつもりなのだろう。
自分がユウナに対してかなりの世話焼きだと言うことも彼は知っている。だから自分がユウナを心配して徘徊していると勘付かれたのだ。
こうして今も後方から息苦しい程の魔力で急接近してくる影がある。
そのスピードはジュリを凌駕していた。此方が一度着地して再び跳ぶ飛距離を奴は一歩で越えてくる。
カルバーツと眼が合ってから、咄嗟に速度を吊り上げたにも関わらず、その差が目に見えて詰まっていることが何よりの証拠だ。
このままでは追い付かれて戦闘などという展開もあり得る。ジュリは大きな失敗を犯したと悔いた。なぜなら今のジュリにレギオンを負かせる程の余力が残っていないからだ。
先の賊との戦闘に、荒野を駆け廻っていたのだ。そして止めを刺すかのように今も体力が減り続けている。
今の体調で彼らと一戦交えるのはどう考えても得策ではない。此方とて捕まるわけにはいかず、極力敵を作らない様にしてユウナを発見するつもりだったのだから、ここではどうにかして撒きたいところだった。
しかしそれも難しい。旧知のカルバーツと言えどしっかりと分別は付けてくる。カルバーツはレギオン。ジュリはただ孤児院などを手伝っているボランティア。そのボランティアが任務上で重要な案件をもっているのならば彼は容赦ない。
これが彼なりの一般人とレギオンの区別だ。そのため、此方が彼らの要求を無視すると実力行使に出られることも大いにあった。他の隊ならばそのままジュリを無視することもあるだろうが何といっても相手も此方も互いを知っている。そこに情けは無い。
レギオンも法の外では拘束力を持たないがそれと同時に縛るものが無くなるのだから、形振りを構わなくなる。結局レギオンはどこでも扱いは変わらない。
ジュリは一先ずこの状況をどうしたものかと考えた。戦闘は絶対に避けるべきだ。数で劣る上に一個人の戦闘力が高いというのが決定的な材料だった。先の賊とは違い、個人での戦闘力に集団戦術を加えて挑んでくるだろう。そして更なる問題にカルバーツだ。彼は此方を知りすぎるほど知っている。
手の内が見切られていることほど厄介なものはないだろう。ジュリはカルバーツの手の内を知っていても他の連中は知らないのだ。
とても一人で相手が出来る集団ではない。体力のこともある。はなから真っ向というのが不可能だったのだ。
(だったらばどうする……? 逃げ続けるか? いやそれも出来ないな)
今も後ろから急激に距離を詰めてくる奴がいる。もはや振り向くなど怖くて出来ない。
ならばどうするか……。
このまま進めばまた雑木林に入る。そしてそれをもう一度抜ければ旧ホロスは目と鼻の先と言える。何としても何処かで撒きたい。
(……やってみるか。雑木林の中で)
正直、この開けた地形で後続を撒くことはできない。進行方向が一目で分かる。ならば一度、見通しの悪いところを経由し、少し揺さぶれば見失ってくれるかもしれない……とジュリは淡い期待を胸にそのまま直進し、林へ向かった。
都合のいい展開を期待し始めたのはもう疲れているからだろう。走りっぱなしもいいところだ。
(……よし、行くぞ)
まだ追い付かれていない。先に雑木林に入ることが叶う。
今までほぼ一直線だった進路を、木々を縫うようにして突き進む。コートや腕、脚に引っ掛かる雑草と枝葉は無視してただひたすらに進む。そして一度、振り向いてみる。立ち止まって真剣に奴の居場所を感じ取る。
先程まであった大きな魔力の塊は息をひそめてしまっていた。恐らく相手も立ち止まって身を潜めているのだろう。この雑木林で魔法を使わずに接近することはできない。当たり前だが誰かが整備している訳もなく、雑草がそこかしこに生え、折れた枝が地面に敷き詰まっているからだ。少しでも動けば音が鳴る。そんな空間だ。
「ハァ……ハァ……」
どうだ、撒いたか。甘い願望を期待に首元の汗をぬぐった。だがその時、気配が爆発した。
隠密は不可能と切ったかそれとも只の気まぐれか、それほど踏み切りのいい魔法だった。
「クッ……ソ」
突然の気配に体は咄嗟に動いた。振り向き再び加速しようとした時、視界が眩んだ。
(これは……)
この症状は魔力枯渇……。危惧はしていたがこのタイミングで来るとは……。
脚が縺れたが倒れることだけは避ける。しかしその間に奴が接近していた。その気は転移してきたかのように距離を詰め、大量の木の葉を舞わした。奴は地面を掘り上げ深い溝を作る。
吹き抜ける突風がふら付いた脚をすくいに掛かる。
遂にジュリはその体を維持できず、盛大に吹き飛ばされた。
地に体を打ち付け、舞った木の葉が視界に収まる。虚ろになった目で空を注視すると曇り空にオレンジの太陽が覗いていた。
その太陽は何やら告げていたようだったがジュリの耳には届かなかった。
☆☆☆
「ちょ……いん……と」
声が聞えた。
「さす……どい……ます」「……ですよ……」
複数人いるようだ。何を言っているのか分からない。深いまどろみの中で途切れ途切れの声だけが木霊する。
どうなっているんだ……?
ふとそう意識したとき、頭の中に情景がフラッシュバックした。
林の中を誰かに追われるようにして逃げていた。私は一心不乱に林の中を駆け抜け、自分の吐息だけが聞える。そして林の中で一度立ち止まり、来た道を振り返った。何も無い。誰にも追われていない。なのになぜ逃げる様に走っていたのか。思い出そうと思考を深く潜らせてみる。
……そうだ、私はレギオンに追われていたんだ。
迫りくる莫大な魔力に追われて。
「仕方な……しょ? ……ないんだから」
先程よりもよく耳に入る聞き覚えのある声。この声はカルバーツか。そう思った時、小さな魔力の気配があった。
魔力……?
「それ!」
小さな魔力が大きくなった途端に意識が覚醒する。目を見開き、突然の魔力に体を起こそうとした時、全身に冷たい衝撃が襲った。
「あ……」
「…………」
何が起きたのか理解するまでに数秒かかった。自分の体を駆け廻る清涼な風。伸ばし放題の自分の前髪に滴る雫。
(……水……?)
ならなぜ水で私は濡れている。上からバケツの水を被されたように全身が水浸し。
ふと上を見上げるとそこにあるはずの空は見えず、代わりに見知った茶髪の童顔が上下反転であった。
「ハァーイ?」
「カルバーツ……か。ッ!? 何故ここに……!?」
ジュリは体を前後反転させて後ずさった。今ここにいるのは私が逃げていた相手、カルバーツが自分の背に立ってジュリを覗きこんでいたのだ。
「わッ! わっ……何でお前がいる!?」
訊くまでもないことが口から出る。そうだ、全て思い出した。
私は彼らから逃げ、この林を進んだところで魔力枯渇によって倒れたのだ。しかし、それより前にすでに何か莫大な魔力がジュリ自身を通り抜けて行った。それから記憶が無いが恐らくあそこで捕まったのだろう。
そして一番関わりたくは無かった知人に起こされた。彼の水属性の魔法で……。
「いるって言われてもね……。あたかも最初からいなかったみたいに言うけど君を追い掛けてきたからいるんだけどね」
カルバーツの言う通りだ。彼らを誘導したのは他ならぬ自分だ。カルバーツはジュリの前まで歩み寄ると屈んでこう言った。
「で、ヨシキ局長は何処にいるの?」
「……」前説もなく単刀直入に問うてくる辺りが彼らしい「言うと思うか?」
近づけさせないために逃げたのだ。そう簡単に口を割るわけにもいかない。
「この状況でその強気はどこから出てくるのやら……」
溜息をつかれた。
確かに彼らの言ったようにジュリの周りにはカルバーツ隊の構成員たちが周囲の散策を行っている。皆散り散りだが、時折視線を感じるくらいには警戒されている。この状況でジュリの態度はどう出ても強固でいられるはずがないのだ。
「流石に手荒な事はされたくないでしょ?」
「む……? 何をする気だ」
「こうする」
次の瞬間、ジュリは立方体の青白い薄い膜に包まれた。そして立方体の天井から冷水がなだれ込んできた。
「何!? 貴様正気か!?」ジュリは飛び跳ねてカルバーツに抗議した。
「喋れば問題ないよ、うん」
よもや正気の人間が行うやり方ではない。
立方体は防御魔法を使用し、壁を組み合わせたもの。そしてカルバーツが持つ水属性の魔法が何もない立方体内部を水で満たし始めた。もうすでにジュリの下半身まで満たされている。絶え間なく注ぎこまれる水の量は尋常ではなかった。喋っていられるのも最初だけで水かさが増してくると、瀑布の様に落ちてくる水が大粒のまま顔に飛び、目を開けていられるのもやっとという具合だった。
「ぐわっ……うわっぷッ……ゲッホゲホッ」
飲むなと言う方が難しい。大粒の飛沫が勢いに任せて気管を通ってくるのがたまらない。
「わー、苦しそうだね。一旦やめようか」
呑気な声と共に先程までの瀑布は急激に弱まり、完全に注水が止まる。
ジュリは気管に入った水を吐き出す為に咽込んだ。障壁に手をついて項垂れると鼻先が水面に着いた。
目を開けると水面が波打っていた。既に水が狭い立方体にジュリの胸元まで浸っている。
「おい、お前! 流石にやり過ぎだろ!!」
「えー、今さらでしょ」
確かに今更、今更なのだ。彼に限っては……。カルバーツがどういう人物でこういう風な手段を好むことは既に分かっている。しかしいくらの知人にここまでするのか……。もう少しで水に沈められるところだった。本気で殺されかねない。
(こんな死に方あってたまるかッ!)
ジュリは必死で抵抗した。魔力枯渇から復帰したばかりの気だるい体から残り少ない体力を絞って、障壁に体当たりする。
ところがこれだけの水が収容されているという事は相当な水圧にも耐える障壁という事の他ならず、人間一人の体当たりでどうにかなるものではなかった。だがそうせざるにはいられない。
何度も何度も右肩を打ちつけて突破を試みるがビクともしない。それどころか自分の体がふらつき始めた。それもそのはず。ジュリが内部で暴れるたび水が振られ、狭い空間に波が出来たのだ。短い波のストロークが前後に発生し波力がジュリの体を揺する。胸元まで浸っていれば体を攫うことは容易い。
(あ……ッ、マズった……)
時すでに遅し。狭い波に攫われた体はいともたやすくふらつき、浮力によって足が地から離れる。そのまま着地することが出来れば良かったが、疲れた脚ではそうはならなかった。一度は足が着いたものの、波に飲まれ底を滑る。身体は大きく後ろへ倒れ、後頭部を障壁にぶつける。力なく障壁に沿って水の中へ沈むとあっという間に呼吸が出来なくなる。
意識が再びぼやける。
(ああ……今度こそ逝ったな)
頭の中で冷静に分析できた。囲まれていた立方体の差し渡しは一メートルくらいだというのに体を全て投げだしているような得体のしれない浮遊感が身を包んだ。。しかしそんな浮遊感があっても何故か沈んでいる感じもある。結果よく分からないまま脱力しきっていると突発に体が何かを求めて暴れ出した。
脱力もどこへやら今は目一杯腕を振っていた。途轍もなく重たい腕は十分に振られていない。振るたび振るたび何かに遮られうまく動かない。何を求めて腕を振っているのか。その腕の先を見てやろうとこれまた重い目蓋を開くと、大量の気泡が上へ上へ上がっていく。
そしてジュリの意識はやっと状況を理解し、したと同時に更に体を暴れさせた。
(溺れる……ッ!)
求めていた物は酸素だ。窒息寸前の体は本人の意識とは関係なく酸素を求め出す。そして今は溺れているとハッキリ分かる。
何度も顔を水面に出しては、再び水を飲みながら沈んでゆく。足に接地感が無い。
今度こそ死を生で感じた時、突然姿勢が大きく崩れ、尻から衝撃が走る。それと同時に浸っていた水位も一気に下がった。
「ゲホッ……! ゲホゲホ!」
気管に入った水を懸命に吐き出し、何もかも整理する。
やっと呼吸を落ち着かせて、辺りを見ると水浸しになっていた。ということはカルバーツが立方体を解除し、水を放出したのだろう。
色々問い質したいところだが今は憔悴しきって口も開けたくは無かった。
「いきなり溺れ出すからビックリしたよ。そんなに深くないでしょうに」
冗談で言っているのか、コイツは……。ジュリはカルバーツの良心を疑わざるを得なかった。
人間十センチも水深があれば命を落せるのだ。胸元とはいえ、一般の水泳施設並みの水深なのだから溺れるには十分すぎる。それ以前に狭い空間に天井から水責めを行うなど極悪非道なやり口もいただけない。焦燥を煽るようなものだ。
「あァァ、信じられん……」
片膝を立てて、飲んだ水の妙な満腹感にジュリは喘いだ。
「信じられないのはコッチの方だよ。すれ違うなり逃げだすんだから」
「何が信じられないだ! その台詞コッチの方だ! 殺す気かッ!?」
「死ななかったから大丈夫だよ。終わりよければ全て良しって言うじゃない」
「終わらせるものが違うかっただろッ」
そんなくだらないやりとりをしていると、腹を抱えて笑いだしたオレンジ色の頭をした軽い男がいた。
「あの人変だってッ! マジで殺されかけてんのに! ギャハハッ」
「そこッ! 喧しい!」ジュリは憤慨した。
オレンジ頭はそれでも黙らなかった。しかしあの派手な頭、妙な見覚えがあった。
(……オレンジ頭)
念仏のように頭で唱えていると次第に明らかになってきた。
(アイツか……私を追っていたのは。まさかあんなのに……)
節操のなさそうな者に一杯食わされるとは少しばかり屈辱だ。その他の隊員を見ても、特に侮蔑する訳ではないが彼だけは度し難い。
「まったくやってくれる」
「それで、話す気になった?」
「は? 話す気になった?だと……! 微塵もないわッ」
そもそも、何故彼らがそこまでしてジュリの持っている情報を欲しがるのか。よもやなんの行く当てもないとでも言うのだろうか。
ジュリとしてはそれで大いに歓迎だ。余計な人物を増やすことなくユウナに接触できればそれこそ儲けものだ。そこにレギオンが絡むとまた事が大きくなるやもしれない。その上カルバーツという面倒な人間が出くわせば頭が痛くなりそうだった。
平気で知人を弄ぶのだからユウナも餌食になるかもしれない。そう言った危険性を排除するためにジュリは彼女の元へ行きたいのだ。
そして黙っておきたいのはもう意地でもある。ここまで手荒な真似をされるとは思ってもいなかった。
尚更口は固くなるばかりだった。
「隊長、流石にやり過ぎたのでは……」
見兼ねたのか、無精髭の男がカルバーツに苦言しだした。その通りだ。
「いくら外だからと言って他人の生命を脅かすのもいけません。ましてやご友人。人としてどうかと思いますよ」
金髪の女性も見た目とは裏腹に厳しく指摘する。
「貴方は元々が変わった趣向をお持ちだと言う事は重々承知しています。しかし情報を訊き出す為だけにここまですることは無かったでしょう。異性への暴行は愛情の裏返しと言いますが死んでしまっては元も子もありません。いい年なのですから伝えたいことは面と向かって言いましょう」
(……何かおかしいが良いぞ、もっと言ってやれ)
銀縁眼鏡の女性もカルバーツを責め上げる。
オレンジ頭を除き、優れた隊員がいることにジュリは安堵した。
カルバーツのような人間が彼らほど品性良好な者たちにどうやって好かれたのかは謎だが、今はありがたい程の味方だ。
「えぇ……。コレ僕が悪い感じ……?」
「はい」「そうです」「ええ」「そうっすよ」「ああ」
無精髭、金髪、銀縁眼鏡、オレンジ頭一同の頷きにジュリ自身も含めてカルバーツを批難した。流石にカルバーツもバツが悪いと思ったか頭を掻き毟って言った。
「あーはいはい。僕が悪ぅございましたね……。じゃあ素直に言うよ」
「始めからそう言えばこんな目に合わなかったんだがな」
「逃げた方が言うのかな」
ああ言えばこう言う。子供のようだ。
カルバーツは再びジュリに向き直すと頭を下げて懇願した。
「局長の居場所を教えてください。お願いします」
若干感情が抜けた言い方だったがここまでさせておいて喋らないというのいうのも、品性を問われそうなので此方も素直に打ち明けることにする。
「……いいだろう。と言っても確証はないがな」
読んでいただきありがとうございます。
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