知らない髪
朝からひんやりと肌に心地よい風が首筋を通りぬけた。
ちらほらと人通りのある裏路地。
その日俺はお洒落な男に生まれ変わりたくて美容院を訪れる。
ただ何となく、今までの自分でいたくなかったからだ。
最近大学を出た俺は就職も決まらず、フラフラしていると彼女に逃げられた。
だからなのかもしれない。そんなことを考えてみる。
外観も内観も淡いベージュの美容院はお洒落なスタッフがわんさかいた。
場違いかもしれないという空気が俺の頭の中をよぎったが、金髪に黒を混ぜた髪の男のスタッフが丁寧な接客であれこれ聞いてくる。
そして、最終的にエクステを俺の髪につける事にした。もともと髪が伸びるのが極端に遅いということもあった。
ただ単に長髪が似合いますよと笑顔で言われただけだった。
そのエクステは値段がはった。普通のものよりは質がよく、楽しめるものらしい。普段は誰でも進めているわけではなくごくごく一部の人にしか進めていないそうだった。
肩までの長さで作ってもらい、今風に仕上げてもらう。
出来上がりを鏡で見た俺は満足した。セットされた髪はそのスタッフの言うとおり、似合っている気がしたからだ。
有頂天になり美容院を足取り軽くでた俺は、全く行った事がない高級ブティックや割高なレストランが並ぶ場所に行き、自信満々で通りを歩く。
生まれ変わった自分自信をそれまでの俺を知ることのない奴らに見せびらかすように。
街行く奴らと目が合うと女の子は頬を染めたり、笑顔になったり、男は尊敬するような眼差しで俺を見る。
あくまでも勝手な思い込みかもしれないが。
しかし奴らの視線の位置がだんだんと下がってくる。それと同時にきらびやかな眼差したちは一変し、眉と眉の間に縦にシワを入れ、何かおぞましいものでも見ている様な、嫌悪感をむき出しにする。
そして、中には悲鳴を上げたものもいた。
俺は気分が悪くなる。一変した理由が分からないからだった。カップラーメンが出来るより早い眼差しの変貌ぶりに、心の中が泥を入れられた洗濯機のように激しく回転していた。
足を早め、その場を一秒でも速く立ち去りたかった。心なしか頭も重たくなってきた。
俺は恥ずかしい気持ちと軽い頭痛で足取りがもつれ、ゴミ一つ落ちていないクリーム色に舗装された道に倒れ込んだ。
普段は優雅で静かな通りが俺の姿を見て、みんなが立ち止まり、俺との空間を開けて無様な姿を見られている。
生涯、この思い出はトラウマとして俺の心に刻まれるだろう。
そんな事を思っていると、ガラス張りの店に映る俺の姿は、とても異様だった。
先ほど美容院で付けたエクステの長さが明らかに違っている。俺は上体を起こし、膝で歩きながらガラスに張り付いた。肩まであった髪の毛はいつの間にか腰の辺りまで下がってきている。
目を見開いたり、擦ったり、直に触ってみたりもしが夢でなく本物だった。全身の毛穴が開き、冷たい空気が入って、刺すように体温と混ぜってとても落ち着かなくなっていた。
「髪が……何でだ」
そうたった一言洩らしているうちにも、髪の毛はどんどん伸びてく。ありえないような速さで。
俺は、忙しなく先ほどの美容院に駆け込むと俺を担当した男を見つけて詰め寄る。
「おい、この髪どうしてくれるんだよぉ」
半泣きの俺を、さも鬱陶しいと言わんばかりの顔をした店員。
「お客様、店内で騒がれるのは困ります。こちらにいらして下さい」
俺はおずおずと小鳥みたいな歩幅で店員について行くと、店員は奥の一室に俺と入り、窓や戸を素早い動きで閉めていった。
「困ります。困りますよお客さん。先ほども申しました通り誰でも出来る訳ではないんです。それを初来店のあなたに特別に提供したのです。それに使用方法を買いた紙を渡しているはずだよ」
店員に言われ、俺は首をひねりながらあたふたとジーパンのポケットの中を探すが見あたらない。それはそうだ、貰ってないのだからあるはずがないと思い店員に告げると、今度は店員が首をひねり、親指と人差し指を顎につける。
そして突然目を見開き、小さくあっと驚くと罰の悪そうな顔になる。
俺にしばらく待つように言うと部屋を出て行った。その間にも俺の髪の毛は伸びていく。
「ちくしょう、うっとうしい髪型だな。こんなんじゃ仕事にも就けないじゃないかよ」
辺りを見渡すと、木目のテーブルの上にハサミが置いてあった。俺は手に取り髪の束を掴み、勢いよく切った。
髪は床に落ちた。その音は、糸を何百本も束ねて勢いよく床を叩いた感じに似ていた。
ちらっと床に落ちた毛を見ると後始末しなくてはと考えて、辺りを物色するが箒は見あたらない。
そうこうしている内に俺の髪の毛はまただんだんと伸びてきていた。いっそのこと毟りたいと思った。すると髪の毛はその思いに相反するかのように、速度を上げ、伸びて行く。
あまりの気持ちの悪さに吐き気がした時、人の気など知りもせぬような明るく無邪気な笑顔で入って来る店員。俺の足下に落ちた髪の毛を見て、何も突っ込ままずに。
「これだ。この紙に扱い方と言うか、使用方法が載っているからそれ見てご自分でお手入れして下さいな。そしてもう帰って下さい」
そう言うなり店員は俺の腕を力いっぱい握り締め、裏の路地に放り出された。そして俺の手に紙切れ一枚を渡して心臓が萎縮するような大きな音で扉を閉めた。
俺は恐る恐るその紙に書かれている事を読み始めた。
一番重要なのは髪を愛する事。でなければ、髪は貴方の意に反して暴れます。
言う事を聞かせたいのなら飼いならすのが一番です。まずは褒めて見てください。飼いならす事が出来れば、貴方のために日々ファッショナブルな髪型になってくれます。
書かれていたのはこれのみだった。
訳が分からない。俺は心の中で呟いてみた。頭が真っ白になる。と言うより停止したまま動いてはくれない。俺は立つとふらつきようやく歩ける足で家路へと急いだ。
家へ帰りついた頃には髪の毛はくるぶしの辺りまで長くなっていた。
乱雑に靴を脱ぎ、洗面所へと移動し、鏡を釘いるように見る。髪の毛は縮毛矯正したような真っ直ぐな髪だった。
俺は恐る恐る髪の毛を撫でながら声をかけてみる。
お前は綺麗だなとか、お前を愛しているとかぎこちなくずっと。そして、元の短い髪になる様にも。
どのくらい言い続けていたのか定かではないが、辺りが暗くなりそしてまた明るくなり始めた頃、俺は眠りについた。遠くで小鳥の可愛らしい鳴き声が聞こえ、洗面台にもたれ掛かるように。
次に起きたのはおやつの時間を過ぎていた。寝ぼけ眼な脳を自然に起こし、何故こんな所で寝ているのかを考え、思い出した俺は飛び起き鏡を見た。髪の毛は美容院に入る前の髪型だった。
使いこなせたのかと言う疑問とあれは夢だったのではないかと言う願望みたいなものが俺の心中を複雑にしたが、ーー刹那泡と消えた。
髪の毛が一本だけ急に長く伸びる。
俺は絶望感を味わったが、頭の中は昨日とは違った。直ぐに切り替えられる俺がいた。
人間追いつめられるとどこかで気持ちを切り替えられるものなのだと俺は心底思った。
それからと言うもの、毎日毎日同じ事を繰り返していた。
ーーそして、あの悪夢のような日から三年が経った春。晴れやかな想いで今日も仕事場へと出勤する。俺は旅行会社に就職し、毎日楽しく仕事をしている。
「おはよう。今日の髪型は爽やかだね。また美容院にでも行ったの?」
俺のデスクの横で顔立ちの整った綺麗めな女子社員が聞いてきた。
「違うよ。セットしたんだよ」
女子社員は冗談ばっかり言ってと言うような顔をするが、俺はそんな事はお構いなしに仕事へと取り掛かる。今は大事な仕事を多数任され、上司の信頼度も厚い。髪型を変えるだけでこんなにも人の印象が変わるものなのかと、俺は思い知らされた。
見た目の印象でその人となりが変わる。それに俺自身が前向きになれている。それはとても不思議な事だった。
「今日あいてませんか?」
先ほどの女子社員が耳打ちしてくる。俺は顔が少し火照って勢いで言う気持ちを抑えて頷こうとすると、後頭部に違和感を覚えた。
髪の毛が巻貝のような形に一瞬で変化した。俺は女子社員に気づかれないように手でぎゅっと押さえて、嬉しい申し出も断った。
「良いような、悪いような……」
そんな事をぽつりと呟いて俺は手に余る量の仕事に取り掛かった。
女子社員の立ち去った後、髪の毛は元に戻っていた。
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