7 文恵と大自然研究会
解体間近といわれる旧校舎の一室に、文恵はとうとう足を踏み入れた。
入り口には「大自然研究会」と張り紙がある。場所に間違いはなく、間違いがないからこそ、どうしても歩みは慎重になる。
「文恵ってば、なに遠慮してんの。はようこっちおいでって」
早紀に呼ばれて、文恵はいそいそと部屋のなかに入った。友人のほかにもう一人、文恵を待っている人がいる。大自然研究会の代表であり、「我が研究会唯一の良識」と早紀に語らせる人物が、文恵の入会手続きのためにわざわざ来ていた。
「それじゃあ、あらためて佐山さんにご紹介します。こっちが文恵、西園寺文恵です」
紹介しながら、早紀はけらけらと笑った。
「よろしくお願いします」
と文恵は頭を下げる。戸惑いながらも、安心していた。
佐山さんって、なんだか優しそうな感じがする。悪い人には見えないし、そのあたりにいる学生よりも真面目で誠実そうだ。イメージとはだいぶ違う。どう見たって、怪しげな会の代表とは思えない。
「こちらこそ、よろしく」
文恵の心境を知ってか知らずか、進一はずっと苦笑していた。
研究会のメンバーは、それぞれがテーマを決めて勝手にやっている。もともとは自然研究会という名称だったが、三年前に改名された。UFOや宇宙人、怪奇現象や神秘主義にまで研究対象が広がり、方向性が変わったことによる。ときに発表会があり、討論会もあるが、好きな者だけ集まればいい。とくに規定はなく、みんなが自由にやっている。ひたすら怪談話を集めているメンバーもいれば、その怪談話を聞くためだけに在籍しているものもいる。あえてメンバーの共通点をあげるなら、「世の中にはいろんなやつがいるんだなあ」と実感していることだろう。
「みんながみんな変な奴と違うよ。あっち側とこっち側、ちゃんと二種類の人間がおるから」
進一の説明に、早紀がけらけらと笑いながら口をはさんだ。
確かにそうだと、進一も苦笑する。
「で、西園寺さんは、何かやりたいことでもあるの?」
「見たまんまですよ」
進一の問いかけに、早紀が答えた。
「見たままって……猫か」
「そうです。猫を愛し、猫を研究し、ときには猫を救出する」
早紀は最後まで言いきって、「そんな感じやんね?」と文恵に同意を求めた。
訂正することもないと思い、文恵はうなずく。どうして猫だとわかったんですか、などと聞くのは愚問だった。身に着けているものすべてに猫のイラストが描かれ、カバンには茶トラ猫のぬいぐるみがぶら下がっている。
「まあ、いいんじゃない」
と進一は笑った。
「ありがとうございます」
と文恵は頭を下げる。
進一は楽しげに笑い、となりでは早紀がけらけらと笑っていた。
柴田早紀は、文恵と同じ文学部で、同期でもある。入学当初から大自然研究会に所属しており、ずいぶんと長い時間をかけて「なぁ文恵って。文恵はこっち側の人間なんやから」と勧誘をつづけていた。
「どうです佐山さん。文恵って、なんかいい感じしてません?」
「まあね。さすがは柴田の友人だ」
「一条の兄さんも、きっと気に入ってくれるはずです」
早紀はケラケラと笑った。
が、気に入ってもらいたくない文恵の心情は、いいものではない。
「にしても兄さん帰ってきませんよね。佐山さんがあかんのですよ、人類飛来説を否定するから」
「それと孝雄が旅立ったのは無関係だ」
文恵の傷心などに気づくことなく、話は盛り上がっていった。
一条孝雄の存在は、文恵も知っている。
学内における抱かれたい男、恋人にしたい男ランキングでは、必ず上位にランクインされる。かっこいい人なのは確からしくて、一条さんが目当てで大自然研究会に所属している女性もいるらしい。にもかかわらず、本人は宇宙人など追っかけて、まわりの女の子には見向きもしない。ならば異性に興味がないのかと思えば、麗しいお嬢さまと付き合っているとかなんとか。その強力なコネで雪村製薬という大企業に就職が決まっていたとも聞いた。それなのに、半年ほど前、学内から姿が消えた。どこかに旅立ったのだという。理由はよくわからない。討論に負けたからだとか、恋人にふられたからだとか、地球を離れたとか。
ようするに、わけのわからない人なんだよね。
早紀が尊敬しているあたり、なんだか怖い。
「ちょっと、聞いてもいいかな?」
文恵がなにも考えないようにしているうちに、進一が文恵をみていた。進一は少し困ったような、照れているような顔をしている。文恵は震えた声で「どうぞ」と返したが、「猫って、プリンを食べる習性とか、ある?」などと聞かれてしまった。緊張も戸惑いも、一瞬で失せた。
「……習性は、どうでしょう。でも、そうですね。食べないことはないと思います。けっこう甘いものが好きだったりしますから」
早紀がけらけらと笑いながら、「いきなりなんですか?」と進一に詰め寄る。
進一はうっとうしい後輩を手で追い払い、
「最近、変な猫が部屋にやってきて、異様なほどプリンを狙ってくるんだよ。だから、猫っていうのは、もともとそういう生き物だったかなと思ってね」
と理不尽な猫について語った。
毎日というわけではないが、頻繁に訪れるようになった猫。
食後にやってくることはなく、食事中にあらわれては平気でおかずを奪い、食事前にあらわれては人間より先に食事を要求する。鳴いたりはしない。ただじっと睨んでくる。無視をしようものなら、畳や壁紙がボロボロになる。
「おかげで、好きなものは先に食べるようになった」と進一は笑う。
早紀はケラケラと笑い、文恵もつられて笑っていた。
「で、食後にはプリンを狙ってくるわけですか。佐山さんの天敵みたいなやっちゃなあ」
ジャンケンのほかにも勝てへんもんがあったんですねぇと、早紀はどこまでも楽しそうだった。
進一はくすりと笑い、「ちゃんと名前もつけたんだ」と告げる。
早紀と文恵が興味を示したところで、進一はその名を口にした。
高まってゆく鼓動に激しさを覚えて、文恵はぎゅっと身体を縮めた。
「ん? 文恵、どうしたん? 猫スイッチ入ってしもた?」
早紀が声をかけてきた。
進一も顔つきを変えている。
「大丈夫。大丈夫です」と言って、文恵は笑ってみせた。
プータロー。
その響きに、文恵の心臓は踊る。
「プータローって、懐かしい名前なんですよ。小学生のころ、毎日のようにやってくる野良猫がいて、その猫のことをプータローと呼んでいたんです。蜂蜜をたっぷりかけたハニートーストが好きだったもので、クマのプーさんから名前をもらいました。はじめての猫で、ほんとにかわいくて大好きだったんですけど、ふっと来なくなってしまって……」
思い出すと、泣きたくなる。
「なんや、かなり引きずってるみたいやね。文恵の尋常やない猫好きは、そいつが原因なんやろか」
早紀はうなずき、ひとりで納得していた。
「佐山さんとこのプータローが、文恵のトラウマ猫やったらええのにねえ」
感動の再会ができるし、と早紀はつづけた。
「あのね。十年以上前の、実家での話よ。それに、プーちゃんはかわいくて性格もよかったんだから」
文恵はあきれながら早紀に言って聞かせた。
進一も苦笑して首を横に振っていたが、早紀はケラケラと笑っている。
「もしもそうやったらおもろいってだけやん。うちとしては、佐山さんのネーミングセンスが小学生レベルやってわかっただけで十分やけどな」
文恵はあきれはてて、ちらりと進一を見る。
後輩の失礼な言動をまえに、進一は頭をかきながら苦笑していた。