5 理香と無抵抗な猫
理香は温めた海鮮焼きそばと生春巻きをテーブルにならべた。
夜食はいつも夕食の残り物ですませている。劇団仲間に感化されて、外食での食べ残しを平気で持ち帰るようになっていた。
夜食を食べてもスタイルは変わらない。
小腹を満たすためであり量は多くなかったが、たとえ多くとも変わらないと信じている。
太らない体質に生んでくれたことを、理香は何度となく両親に感謝しており、裕福な家庭であることにも感謝が絶えなかった。劇団員の多くは経済的に苦しく、彼らの姿をみているだけで、自分の恵まれた生活に手を合わせたくなる。仲間に食事を奢ることができるのも、豊かさのあらわれだ。いくら哀れさに心を痛めても、ないものはあげられない。
「感謝しないとね。少なくとも、勘違いはしないように」
樹里にそう言われつづけて、理香も自覚はしている。劇団の仲間たちから絶大なる支持を集めているのは、カリスマ性があるわけでも演技力が優れているからでもない。入団当初から頻繁に、彼らの食生活を援助してきたことが大きいのだと。だからこそ、安さが売りの中華料理店は、今日もまた理香の財布からお金を吸い上げて、貧乏劇団員たちの飢えを満たしていた。
理香が食事を終えるまで、猫が起きることはなかった。
「お腹が減っているわけじゃないんだ」
理香はひとりで納得して、猫よけのためにキープしておいた海鮮焼きそばのエビをふたつ、口にいれた。
ぷりぷりのエビを噛みしめて味わい、食器をもってキッチンに向かう。
食器を洗い、ココアのためにお湯を沸かし、カップとケーキ皿を棚から取り出した。
ゆっくりと、幸せがこみあげてくる。
お取り寄せで注文した三種類のケーキは、指定した時間のとおり、外出前に届いた。
素敵な一日を締めくくるにふさわしい豪華なスイーツタイムにしよう。そう思って取り寄せたのに、進一とのデートを流してしまった。三種類ものケーキはまったくふさわしいものではなくなって、なんだか寂しくなって、景気づけに食べてしまって、それでも、三分の一は冷蔵庫に残してある。
「本日のスイーツタイム。わたくしは苺のショートケーキをいただきます」
約束された幸福をまえに、ついには決意表明。
ケーキセットをそろえて、満面の笑みを浮かべてテーブルについた。
まずはココアをひと口味わって、ほっとひと息。スイーツモードに入る。
フォークでやさしく、たっぷりとクリームのついた苺をすくい上げて、そっと口もとにつれてゆく。
そのとき、何か異様な光を見た気がして、理香は周囲を探った。
猫がソファーのうえに立ち、こちらを見ている。
蜂蜜色の瞳が、やけに強い光を放っているように感じる。
そんな、まさか。
理香はかるく頭をふって、苺を口のなかに入れた。
苺の酸味が果汁とともに広がり、甘いクリームと合わさって幸せを協奏する。あとを引きついだ苺のさわやかな甘味が、さらなる幸せを呼び込むために理香を駆りたてる。
はずだったが、どうにも猫の視線が気になって仕方がない。
理香は悩んだあげく、小皿を取り出して、ケーキをすこし分けてのせた。
ソファーに近づいて、そっと猫の鼻先に小皿を差し出す。
瞬間、理香は震えた。
猫がクリームを舐めている。
さらにはスポンジケーキに食らいついている。
これまでの猫観をくつがえす猫の姿を目の当たりにした理香は、衝撃のあまり言葉を失い、さらにケーキを分け与えることをためらわなかった。
なんだろう、この親近感。
猫とともにケーキを食べ終えた理香は、ココアのカップを片手に、猫のいるソファーにすわった。
猫は脚をのばし、尻尾をむけて横になる。
臭くない? 理香は顔を近づけて匂いをかいでみる。とくに不愉快さはなく、今度はそっと指でふれた。
あったかい。
生命のぬくもり。
心地よくやわらかい感触を、右手全体で味わう。
手が隠れるほどの長さはない、キャラメル色の毛並み。お腹のほうは少し白っぽい。キャラメルソースを練り込んでゆくように、背中に向かって色が濃くなっている。よく見れば、うっすらと縞模様もわかる。
撫でながらココアを飲み干した。
立ちあがり、ささっとカップを洗って、すぐにソファーへ座りなおす。
今度は指で、猫の背中をかいてみた。
背骨のライン、長い尻尾の付け根あたりをかくと、猫は身体をのばして小刻みに震える。
おもしろくてずっとやっていると、猫がソファーに爪を立てた。
二人で座れる、お気に入りのソファー。理香はあわてて前脚をつかんだ。攻撃されるかも、と考えたのは、つかんだあとのこと。緊張で身体が硬くなったが、猫の抵抗はなく、ソファーと両手は事なきを得た。
理香は深々と息をつく。
安心すると、新たな感触が広がる。
なにこれ? 肉球?
ぷにぷにとした感触には、なんともいえない感動があった。
はしゃぎながら揉み続けていると、猫は理香の手を振り払い、気だるそうに理香を見上げる。
さすがに嫌になったのかもしれない。
だが、それでも理香は肉球をもとめて、今度は後脚の肉球を揉みはじめた。
丸くなった猫の瞳は、ピュアな蜂蜜のように、透き通るような美しさで輝いていた。
キャラメル色の猫は、ソファーで夜を明かした。
翌日、猫は理香とともに部屋を出て、一緒にエレベーターに乗り、ともにマンションを出る。
外に出たあとは、理香と反対の方角に去っていった。
見えなくなるまで猫を見つづけて、理香は稽古場へ向かった。