表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/51

5 理香と無抵抗な猫

 理香は温めた海鮮焼きそばと生春巻きをテーブルにならべた。

 夜食はいつも夕食の残り物ですませている。劇団仲間に感化されて、外食での食べ残しを平気で持ち帰るようになっていた。


 夜食を食べてもスタイルは変わらない。

 小腹を満たすためであり量は多くなかったが、たとえ多くとも変わらないと信じている。

 太らない体質に生んでくれたことを、理香は何度となく両親に感謝しており、裕福な家庭であることにも感謝が絶えなかった。劇団員の多くは経済的に苦しく、彼らの姿をみているだけで、自分の恵まれた生活に手を合わせたくなる。仲間に食事を奢ることができるのも、豊かさのあらわれだ。いくら哀れさに心を痛めても、ないものはあげられない。

「感謝しないとね。少なくとも、勘違いはしないように」

 樹里にそう言われつづけて、理香も自覚はしている。劇団の仲間たちから絶大なる支持を集めているのは、カリスマ性があるわけでも演技力が優れているからでもない。入団当初から頻繁に、彼らの食生活を援助してきたことが大きいのだと。だからこそ、安さが売りの中華料理店は、今日もまた理香の財布からお金を吸い上げて、貧乏劇団員たちの飢えを満たしていた。



 理香が食事を終えるまで、猫が起きることはなかった。

「お腹が減っているわけじゃないんだ」

 理香はひとりで納得して、猫よけのためにキープしておいた海鮮焼きそばのエビをふたつ、口にいれた。

 ぷりぷりのエビを噛みしめて味わい、食器をもってキッチンに向かう。

 食器を洗い、ココアのためにお湯を沸かし、カップとケーキ皿を棚から取り出した。


 ゆっくりと、幸せがこみあげてくる。


 お取り寄せで注文した三種類のケーキは、指定した時間のとおり、外出前に届いた。

 素敵な一日を締めくくるにふさわしい豪華なスイーツタイムにしよう。そう思って取り寄せたのに、進一とのデートを流してしまった。三種類ものケーキはまったくふさわしいものではなくなって、なんだか寂しくなって、景気づけに食べてしまって、それでも、三分の一は冷蔵庫に残してある。


「本日のスイーツタイム。わたくしは苺のショートケーキをいただきます」

 約束された幸福をまえに、ついには決意表明。

 ケーキセットをそろえて、満面の笑みを浮かべてテーブルについた。

 まずはココアをひと口味わって、ほっとひと息。スイーツモードに入る。

 フォークでやさしく、たっぷりとクリームのついた苺をすくい上げて、そっと口もとにつれてゆく。


 そのとき、何か異様な光を見た気がして、理香は周囲を探った。


 猫がソファーのうえに立ち、こちらを見ている。

 蜂蜜色の瞳が、やけに強い光を放っているように感じる。


 そんな、まさか。


 理香はかるく頭をふって、苺を口のなかに入れた。

 苺の酸味が果汁とともに広がり、甘いクリームと合わさって幸せを協奏する。あとを引きついだ苺のさわやかな甘味が、さらなる幸せを呼び込むために理香を駆りたてる。


 はずだったが、どうにも猫の視線が気になって仕方がない。

 理香は悩んだあげく、小皿を取り出して、ケーキをすこし分けてのせた。

 ソファーに近づいて、そっと猫の鼻先に小皿を差し出す。


 瞬間、理香は震えた。


 猫がクリームを舐めている。

 さらにはスポンジケーキに食らいついている。


 これまでの猫観をくつがえす猫の姿を目の当たりにした理香は、衝撃のあまり言葉を失い、さらにケーキを分け与えることをためらわなかった。

 

 なんだろう、この親近感。

 猫とともにケーキを食べ終えた理香は、ココアのカップを片手に、猫のいるソファーにすわった。

 猫は脚をのばし、尻尾をむけて横になる。

 臭くない? 理香は顔を近づけて匂いをかいでみる。とくに不愉快さはなく、今度はそっと指でふれた。

 あったかい。

 生命のぬくもり。

 心地よくやわらかい感触を、右手全体で味わう。

 手が隠れるほどの長さはない、キャラメル色の毛並み。お腹のほうは少し白っぽい。キャラメルソースを練り込んでゆくように、背中に向かって色が濃くなっている。よく見れば、うっすらと縞模様もわかる。


 撫でながらココアを飲み干した。

 立ちあがり、ささっとカップを洗って、すぐにソファーへ座りなおす。

 今度は指で、猫の背中をかいてみた。

 背骨のライン、長い尻尾の付け根あたりをかくと、猫は身体をのばして小刻みに震える。

 おもしろくてずっとやっていると、猫がソファーに爪を立てた。

 二人で座れる、お気に入りのソファー。理香はあわてて前脚をつかんだ。攻撃されるかも、と考えたのは、つかんだあとのこと。緊張で身体が硬くなったが、猫の抵抗はなく、ソファーと両手は事なきを得た。

 理香は深々と息をつく。

 安心すると、新たな感触が広がる。


 なにこれ? 肉球?


 ぷにぷにとした感触には、なんともいえない感動があった。

 はしゃぎながら揉み続けていると、猫は理香の手を振り払い、気だるそうに理香を見上げる。

 さすがに嫌になったのかもしれない。

 だが、それでも理香は肉球をもとめて、今度は後脚の肉球を揉みはじめた。

 丸くなった猫の瞳は、ピュアな蜂蜜のように、透き通るような美しさで輝いていた。



 キャラメル色の猫は、ソファーで夜を明かした。

 翌日、猫は理香とともに部屋を出て、一緒にエレベーターに乗り、ともにマンションを出る。

 外に出たあとは、理香と反対の方角に去っていった。


 見えなくなるまで猫を見つづけて、理香は稽古場へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ