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48 忘れたころに、もう一度

 『糸杉』にあらわれた理香は、今日も同じようにカウンター席へ座る。


 昨日よりも哀しみは薄れ、落ち着いた雰囲気をまとっていた。自然と態度にあらわれているのは、経験と実績により培われた役者としての自信だろう。進一との結末も知っている。舞台役者として、人間として、女として、成長してきたことは知っている。

 樹里は柔らかな眼差しで理香を愛でた。

 ときには大人の魅力さえ感じられるというのに、佐山進一と出会う前の、かつての理香がそこにいる。


 稽古前にあらわれることが、それを習慣としていた過去の姿を思い出させるのかもしれない。

 だが、みせられているとすればどうだろう。演じているのならたいしたものだ。それが想い出をなぞる行為であっても、もう一度、佐山進一との出会いを求めているのだとしても、新たな舞台の序章とおもえば、見事な演技だと誇りたくなる。


「劇団のほうは順調かしら」

「もちろん、みんな盛り上がってるからね。いちばん張り切ってるのは団長だけど」


「やっぱり団長さんも出るのね」

「うん、久しぶりに役者復帰……たぶん、真田幸村役で」


「もしかして『真田風雲録』かしら」

「そう、次の舞台は、団長のお気に入りに決定。べつの台本も出来上がってたんだけど、まさかの急展開。心機一転の舞台はこれしかないって、団長が押し勝っちゃった」


 まるで恋をしているような、素敵な表情をしている。

 かつての理香にはできなかった表情に、大切な想い出の存在、役者としての昂揚が感じられる。


「懐かしいタイトルね」


 樹里はくすりと笑っていった。


「ほんと、水樹さんがいた頃は、何度もやってたのに……ほんと、ずいぶん久しぶり」


「配役は」

「まだ決まってない」


「千姫だといいわね」

「樹理さん、わたしは主演女優ですよ? 千姫役は……くるみちゃんかなぁ」


 寂しさと期待が混じり合い、また、かつての理香が戻ってくる。

 樹里は微笑みを崩さない。

 ミルクティーをつくりながら会話をつづけて、話題は美咲の近況にふれた。


 経過は順調。母子ともに問題ないと聞いて、「そうだろうね」と理香は笑った。美咲なら当然だ。そんな顔で肯いて、「父親のほうは?」と樹理に訊ねた。樹里はゆったりとした動きで首を横にふった。


「知らないの?」

「孝雄くんなら大丈夫でしょう。それに美咲ちゃんのことだから監視は続けているはずよ。おもしろいことがあったら必ず教えてくれるわ」


 樹里はティーカップを理香に差し出す。

 理香は孝雄のことなど忘れ去り、ミルクティーの濃厚な香りを楽しみはじめた。

 樹里は磨き布を手にして、手元にあったグラスを磨きはじめる。


「ねぇ、樹理さん」

「なにかしら」


「猫って、お団子は食べないよね?」

「食べないでしょうね。というより食べちゃいけないんじゃないかしら。お雑煮のお餅を食べようとして死にかけた猫がいたはずよ。お団子も舐めるくらいならともかく飲み込むのは危険だとおもうわ」


 そうだよね、と理香がつぶやき、樹里はグラスから理香へ視線をうつした。


「……食べたのかしら」

「うん、肉球と肉球ではさみながら、こう、なんとも器用に」


 理香が猫の手をつくり再現してみせる。


「可愛くないわね」

「それはプーちゃんが? それともわたしが?」


「残念だわ」

「なんだろう? 意味もわからないのに落ち込むよ?」


 樹里はグラスに視線をもどして、理香はミルクティーに口をつけた。


「妖怪猫のエピソードならいくつも聞いてる。理香はなにを気にしているのかしら、お団子を食べたくらい呆れることではあっても驚くことではないでしょう」

「そう? プーちゃんなら食べてくれると期待してたけど、けっこう感動したよ? ソファーでごろんと仰向けに寝そべって、ぷにぷにでモチモチをはさんで食べるなんていう衝撃的なシーンだったし、わたしにとっては、完全なる甘味仲間を得た瞬間でもあるし」


「やっぱり自分から与えにいったのね」

「うん。いい雰囲気のお団子屋さんをみつけて、すぐにプーちゃんのことが浮かんだからね」


「ほかの猫には絶対にダメよ」

「それはもちろん」


 理香は得意気に笑っている。


「で、テンションが上がっちゃってね。昨日、買いにいったときに挨拶して、ついうっかり、うちの猫もここのお団子が好きなんです、なんて言っちゃって……お店の人、けっこう本気で驚いてさ。怒られるかなって思ったんだけど……猫に食べてもらえるなら安心ですよ、自信がもてましたって、なんだか嬉しそうな顔で言われちゃったんだよね」


「わたしだって雰囲気くらいわかる。あの若い職人さんは、素直に驚いて、話を受け入れて、本音を言ったんだと思う。少なくとも、笑えない冗談にのっかってくれた商売人じゃなかった」


「ね? ちょっと気になるでしょ?」


「猫がお団子を食べたことをあっさり受け入れたうえに、猫に食べられて喜ぶなんて……なんでそうなるのか、機会があったら聞いてみようかな。ちょっと自信がなさそうっていうか、寂しそうな感じだったけど、彼は、なかなか見所のある青年だと思うね。もっともっと精進して、いっそうおいしいお団子をつくってもらいたいものです」


 理香は得意気に笑いミルクティーを味わう。

 樹里は、楽しんでいる理香を観察しながら、くすりと笑った。


「予想外ね」

「ん?」


「あなたが進一くん以外の男に興味をもっていること」


 不意打ちで名前を口にするのは、まだまだ刺激が強いらしい。理香は表情を曇らせて、「そんなんじゃないよ」とそっけなく告げた。

 樹里は柔らかな眼差しで見つめながら、「そうでしょうね」と同じように返した。


「気になったのは、プーちゃんのほかにも、お団子を食べる猫がいるのかってことだけ」

「そんなところでしょうね」


 あなたはずっと別れたはずの恋人を待っている。


「そういえば時計はもう処分したのかしら」


 確信しながら、樹里は用意していた質問を選んだ。

 理香は何も答えずに樹理をみている。

 感じられるのは警戒と覚悟。いつかなにかを迫られることは予想していたのかもしれない。


「あなたは時計を捨てるよう進一くんにいった。わたしもそれでいいとおもう。文恵ちゃんと幸せになるなら後生大事に抱えているわけにはいかないものね。次の人と幸せになるのなら、ふたりで贈りあった想い出の時計は手放したほうがいい」


「……わたしには、次の人なんていないから」


「あなたは進一くんと別れた」

「……うん」


「だからそんなセリフを口にするのなら聞かないといけない」


「どうして愛し合っている相手と別れてしまったの」

「……樹理さん」


「どうしてあなたたちは愛人契約を結べばいいと考えなかったの」

「樹理さん?」


「文恵ちゃんなら従ってくれたはずよ進一くんは寂しさを癒しながら愛する人を待ちつづけるの理香は心おきなく舞台役者としての栄光を掴めばいい。理香の夢は進一くんの夢。進一くんの幸せは文恵ちゃんの幸せ。たったひとつの事柄を許すことができたなら誰もが満足できる最高のシナリオが描けたことでしょう。もちろん文恵ちゃんが正妻になる可能性は否定できない。わたしは理香が愛人でもかまわないけれど理香はどうかしら、あなたは女として母として日陰の身分でも幸せになれる自信はあって」


 ないよ。理香は疲れた顔でミルクティーを飲んだ。


「残念ね。やってみればなんとかなるのでしょうけれど、たしかに理香には向いていないようにおもうわ。なによりあなたは進一くんと別れてしまった。いまは恋人でも愛人でもない過去を共有する昔の女……よかったわね。憧れの存在だった志穂ちゃんのように月島理香は過去の女になろうとしている」


「ん?……べつに、憧れてた覚えはないけど?」


「ごめんなさい。天敵のように恐れていたのよね」


「……昔の女には敵わないって、付き合いはじめた頃にさんざん脅されたからね」


 やんわりと非難の眼差しを向けられて、樹里はゆらゆらと首を振る。


「心外だわ。興味本位で不安を煽ったことは否定しないけれど嘘をついたつもりはないもの。もしも文恵ちゃんが目の前にあらわれたのなら同じことをいうわ」


「わたしが文恵さんの天敵だって?」


「あなたが復縁を望むなら」


「……ふたりの邪魔なんて、するわけないじゃない」


「そうでしょうね。そのつもりでいることはわかってる。だからわたしはこういうわ進一くんのことは忘れなさいって。もちろん現状をひっくり返してもとに戻りたいのなら協力しないこともない。分が悪いというだけで文恵ちゃんが負けるとは限らないもの」


「……復縁なんてない、けど、忘れるなんて、できるわけない」


「つぎの恋を待っていても時計は手放せないでしょうね。あなたは新しい出会いなんて望んでもいない。目の前に転がっていても気づかずに通り過ぎる。たとえ気づいたとしても拒絶して終わるわ。なかには相性のいい人だっているはずなのに」


「……わたしはもう、一生に一度の恋をした」


「恋が一度きりだなんて誰が決めたの」


「こんな恋なんて、二度とできない」


「あんな迷惑な恋なんて二度としなくてもいいの。できれば進一くんと同じように淡い恋情を育みながら結ばれてほしい」


「……わたしのなかには進一がいる。わたしは進一との想い出があればそれでいいの。終わってしまったけど、後悔なんてしてないよ? わたしには次の人なんていらない。わたしはもう、生きていけるだけ愛された」


「嘘つきとはいわない」


「それじゃあ、忘れる必要なんて、ないでしょ?」


「いいえ。あなたは進一くんに負けないくらい未練がある。いつだって進一くんを探している。いまは心を慰める存在がいるのでしょうけれど、その猫はいつまで理香のそばにいてくれるのかしら」


「あなたは進一くんを愛しつづけたまま舞台に一生を捧げるのかもしれない。心を許せる仲間もいる。もちろんわたしや美咲ちゃんだって協力はする。でもね。あなたはたしかに成長しているけれど、あなたの心は過去に戻ろうとしている」


「役者として、人間として、いつかは限界を感じるときがくる。幼く未熟だった昔の自分を抱えたままで、いつだって進一くんに甘えようとしていた過去の自分を捨てられないままで大きな壁にぶつかりでもしたら、あなたはきっと進一くんを求めて激しく突き動かされてしまう」


「進一くんは見捨てないでしょうね。でも彼には新しい相手がいる。きっと文恵ちゃんがそばいる」


「あなたはきっと」


「ふたりの幸せを壊してしまう」



 苦しむことはわかっている。たとえ壊れないだけの関係を築いていたのだとしても、誰も幸せにはなれないだろう。誰がどんなふうに苦しむのか、どんな結末が訪れるのかも想像できる。



「……厳しいな……樹理さんは、ほんとに…………」



 進一とは永久に離れてしまい、大切な想い出は無残な最期を遂げる。

 理香には後悔しか残らない。



「忘れたほうがいい。猫が去ってしまっても幼く未熟だった月島理香には戻らないように……手放したほうがいい。ゆっくりでいいの。いまならまだいくら泣いてもかまわない」


「……どれだけ涙を流したって、忘れられるわけない……忘れたくないの。失いたくない……こんなに好きになって、こんなに愛してくれた進一のことだけは、ぜったいに」


「忘れるというのは失うことではないわ。ふとした瞬間に想い出を訪ねて、懐かしさに微笑みを浮かべる。忘れるというのはそういうこと」



「わたしにできることならしてあげる。ミルクティー以外の紅茶だっていれてもいい。どれだけ砂糖をいれたって目をつむっていてあげるわ。あなたの大切な時計だって捨てることが無理ならもらってあげる」


「想い出の品は美しい……どんなに安っぽいガラクタでも想いや物語を秘めたものには輝きがある。美しいものは好きよ。芽吹いたばかりの若葉。優美な糸杉。光を溢れさせる透明なグラスや細工を施されたティースプーンも好きかしら。静かに雨が降っているのも好きね。若い男の寝顔もいいけれどダージリンの香りを楽しみながら窓の向こうにある濡れた情景を眺めるのが好き」


 輝きを失うことなく、美しく在りつづける時計をふたつ、ならべて飾るのは楽しみのひとつ。


「どれくらいの時が流れるでしょうね。いつかあなたはテーブルについて舞台のことを考えながらひとりでゆったりと紅茶を楽しむの。わたしは磨きあげた時計をテーブルに運ぶわ。あなたは懐かしさに頬を緩めて、ずっと遠くにある出会いの場面から想い出を訪ねる」


「わたしはそのときが待ち遠しい」


「今よりも誰よりも、あなたはきっと美しいでしょうから」










 樹理のほかには見抜かれないほど、理香の演技は完璧だった。理香は劇団員たちに活気を与えて、部屋に戻れば想い出にふれる。哀しくなっても、うれしくなっても、キャラメル色の猫を抱き寄せて、泣きたいときには好きなだけ泣いた。


 理香とキャラメル色の猫との関係は、その後も数ヶ月にわたって長々とつづいている。


 涙を流すことはなくなっても、理香を心配していたのか、惜しみなく与えられるスイーツの誘惑に負けていたのかはわからないが、猫はずっとそばにいた。「樹理さんに預かってもらう」理香がそんなふうに考えられるようになっても、しばらくは連日あらわれていた。


 そんなキャラメル色の猫も、やがては一日おきにあらわれるようになり、三日おきになり、さよならの予感を理香にもたらして、たまに姿をみせる程度になり、ついには部屋の前で待つこともなくなった。


 最後にキャラメル色の猫を見かけたのは、喫茶『糸杉』から出たときのこと。


 理香が、時計を手放した日に重なっている。


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