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47 二番目同士

 猫一筋に生きてきた西園寺文恵にとって、佐山進一は信頼のおける先輩に過ぎなかった。

 大自然研究会代表という負のイメージが一転、好感度の跳ね上がり方は相当なものだったが、恋愛感情に発展するなど、貴重な理解力の持ち主であるとわかっても、部屋に押しかけるようになっても想像していない。プータローにばかり意識が向いて、迷惑をかけっぱなしである心の広い先輩、という認識がつづいている。


 部屋に通うようになり、寂しがっている進一には、すぐに気がついた。

 黒いブラウン管テレビにのった安っぽい時計に、なにか思い出があるらしい。それもわかる。

 勘がはたらいて、文恵は察した。


 佐山さんには、忘れられない(ひと)がいる。


 想いの強さはなんとなくわかる。片想いとは違うような気もするけれど、連絡を取り合っている様子はない。きっと会いたくても会えない関係。離れ離れになり終わらせてしまった関係。

 直観力の限界、というよりは、プータローを待ちながら考える、常識的な思考が邪魔をした。

 文恵は、佐山進一に恋人はいない、と結論づけた。



 特別なことはなにもない。ただ、ゆっくりと好きになってゆく。



 この人のそばにいたい。恋に落ちていると気づいたとき、再び、警告するように勘がはたらいた。

 佐山さんには恋人がいる。

 文恵の心から光が失せて、悪い女が脳裏をかすめた。父親をたぶらかし、家に押しかけて母親を追い込んだ、悪い女。心に潜んでいた暗い影が、文恵を疑わせ迷わせる。

 許せないでいる人と同じことをしているのかもしれない。

 文恵は恐れた。しかし、だからこそ、進一に恋人の存在を訊ねることができなかった。話を聞いて確かめない限り、直感を疑ってもかまわない。佐山進一に恋人はいないと、信じる余地は残される。

 文恵は恐れを抱きつつ進一の部屋に通った。

 プータローに会うためにも、ほかの選択肢はありえない。心の太陽であるプータローがいれば、悩みどころか進一の存在さえ忘れることができるが、いくら追いかけても居所はつかめず、進一の部屋でしか会うことができない。どれだけ依存体質に揺るぎはなくとも、いつでも会えるわけではない。

 進一と二人で過ごす時間に、想いと不安は高まっていく。

 ひとり部屋で待っていると、文恵の恐れは寂しさを深める。他では会えない猫を求めて、文恵は答えを探している。幼かった自分に、決して寂しい思いをさせなかった守護天使があらわれないのは、どうしてだろう。

 好きになってはいけない。

 それが正解であるかのように、プータローの訪問は一段と少なくなった。いずれどこかへ行ってしまう。わたしが悪いからいなくなる。予感がするたび苦悩は深まり、意識する罪は重みを増した。それでも文恵はプータローを待ちわび、進一の帰りを待っている。


 寂しさを薄めていった進一が、待ち遠しい表情で時計をながめている。文恵は気づかない振りをした。

 勘を働かせることをためらい、猫探しでは苦労した。

 親友にも、好きな人にも心配をかけた。

 安心させたいと思いはしても、嘘をつくことしかできなかった。



 進一が恋人に会ってきたことは一目見てわかった。相思相愛の関係であることも、自分が叶わぬ恋をしていることも察して、文恵はプータローをやさしく撫でる。ずっと考えていたことであり、無防備だったわけでもない。

 これでいい、と文恵は思った。

 わたしにはプーちゃんがいる。だから、これで何も問題はない。

 文恵は、大事なときにいてくれた猫に向かい、プーちゃんはやさしいね、と微笑んでみせた。プータローがいれば光は消えない。幸せそうな進一が目の前にいても、泣きたくなるほどの苦しみはない。

 猫をなでながら文恵は思う。

 離れたくはない。このままでいいからそばにいたい。


 プータローの追跡に進一が加わり、プータローが毎日訪れるようになった。

 このままでいいなら、好きになってもいい?

 プータローは語らない。ただ、楽しそうに進一で遊んでいる。


 わたしは邪魔なんてしない。ただそばにいるだけ。迷惑をかけてしまうぶん、もっと力になろう。

 これでいいと文恵は決めた。

 進一の心が折れて、猫との戦いに限界がきたとき、手伝わせてほしいと文恵は告げる。


 わたしは後輩のままでいい。夜遅くまで頑張っている、佐山さんの力になれたらいい。

 

 プータローの訪問は一気に減った。進一のそばにもいられない。けれど、文恵は迷わない。

 佐山さんの役に立っている。それは嘘偽りなく喜びであり、(ごちそうさま。ありがとう)、それだけのメールに浮かれている。文恵は進一の部屋に通い、ときどき早紀もやってきて、たまにはプータローもやってくる、幸せな生活を送っていた。

 こんな毎日が続けばいい。その気持ちに嘘はない。ただ、いずれプータローはいなくなる。予感がすると寂しくて、心細くて、文恵は現状を振り返る。

 佐山さんとは、今日も一緒にいられない。思い出しては考えて、文恵の心は変わってゆく。



 佐山が頑張りすぎている。八代の懸念を早紀から知らされ、文恵も心配していた。しかし、ついでに伝授された八代スペシャルを仕込みながら、期待もしている。

 進一がダウンして寝込むと、文恵は嬉しさを隠しつつ、手を尽くして世話をした。


 わたしだって、いい感じかもしれない。わたしだって……わたしのほうが……。


 罪悪感はどこにもない。

 自身の本音に気づいたのは、部屋を逃げ出したあとだった。



 文恵は突然あらわれた恋人に打ちのめされた。愛されている恋人は、華やかで美しく、可愛らしく、勝ち目のない過去をそなえている。比べてみればよくわかる。月島理香には敵わない。佐山進一にとって西園寺文恵は、猫好きの後輩でしかない。

 文恵は、それでいいと思ってみた。

 わたしにはプーちゃんがいる。プーちゃんがいればそれでいいと、確かめながら救いを求めた。


 プーちゃんが来るからここにいる。認めてくれたからここにいる。力になろうとしただけで、わたしは邪魔なんてしていない。家に押しかけてきた、あの(ひと)とは違う。だからきっと、プーちゃんは来てくれる。 


 プータローは、怯える文恵の願いどおりにあらわれ、安堵する文恵のまえで理香の膝を選んだ。

 守るべきは月島理香。

 文恵の目にはそう映る。許せないでいる人間と同じことをしている、わたしはここにいてはいけない。

 蜂蜜色の瞳が見守るなかで、堪えきれずに文恵は泣いた。


 部屋を飛び出した文恵は、児童公園の片隅にある、茂みの裏側に潜んでいた。


 逃げ出したところで行き場はない。ずっと守ってくれていた、プータローには頼れない。追いつめられたのは文恵の心。泣きたくなるほど好きだった、ほんとの気持ちを誤魔化せない。

 恋人がいるとわかっていながら、後輩のままでいたくはなかった。手伝うだけだと決めたのに、振り向いてくれることを期待していた。わたしの方がふさわしいと、勘違いもしていた。

 滑稽だと、文恵は思う。

 月島理香との関係において、きっと邪魔にすらなっていないだろう。一人で勝手に舞い上がって、一人で勝手に落ち込んで、一人で勝手に飛び出してきた。どんな顔をして戻ることができるだろう。どんな言い訳ができるだろう。

 一体、どうすればよかったのだろう。

 どうすればこんなにも、好きにならずにいられたのだろう。


 文恵の孤独は、蜂蜜色の光がみえて終わりを迎える。


 プータローはなんでもないように、何事もなかったかのようにあらわれ、文恵に身体をこすりつけた。

 やっぱりプーちゃんはやさしいね。

 文恵はプータローを抱きかかえた。身をゆだねてくる猫の温もりが伝わり、体の奥まで染み込んできて、あったかいねと文恵は言った。幼いころから大好きな猫。ずっとずっと大好きだった猫が、いつものように力をくれる。

 好きなのは、どうしようもないよね。

 そう思えるだけの力をもらって、文恵は笑顔で涙をぬぐった。


「あの(ひと)も、好きになっちゃったのかな」


 これでよかったとは思えない。

 ただ、どんなに愚かで滑稽であっても、愛しく想えたことまでは、後悔したくなかった。



 文恵はプータローを抱きしめる。これが最後だという、さよならの予感がそうさせる。プータローは大人しく抱かれていた。文恵の願いに応えるように、あるいは、文恵との別離を惜しむかのように、できるだけ長く、そのままであろうとしていた。

 ブランコが揺れる。気配と胸騒ぎに文恵は戸惑い、プータローがするりと離れていった。文恵は追いかけて茂みの表側へ出てゆき、ブランコのそばに進一をみつけた。探し回ってくれたことは容易に想像がついて、やさしい人だと、また少し泣きたくなった。


 わたしはやっぱり、猫が好きなんです。


 問われる前に文恵は言った。好きなものは好きなんです。一緒にいた理由はそれでいい。

 文恵の考えはわからなくても、文恵らしくて安心したのだろう。小さく息を吐いて、少しだけ口もとを緩めた進一がいた。進一の心はわからなくても、やっぱりそうだと文恵は思う。この人は受け入れてくれる。こんなに迷惑をかけたのに、嫌いにならないでいてくれる。

 文恵は、進一とならんでプータローを見送った。一度も振り返ることなく去っていった猫を、見えなくなるまで見つづけたあと、聞いて、もらえますかと進一に頼んだ。

 語りはじめたのは、出会ったときに感じた印象。受け入れてもらえた喜び。

 気持ちに余裕などはなく、止まることがないよう一方的に、省みることなく無秩序に言葉を連ねた。不安も恥ずかしさも、なにもかも吐き出して、後悔することがないように想いを伝えた。

 文恵は、すべてを終わらせたつもりだった。

 部屋にいるであろう、恋人のことを思い出すまで、進一の苦悩に気づけずにいた。








 進一は、テレビの上の時計を手にとり、少し考えたあとで裏側の支えを外した。単三電池をどうするかで悩んでいるうち、様子を窺っている文恵に気づいて、そのまま紙袋にしまいこんだ。


「大切な、ものなんですよね」

「……在庫処理品になるような時計だけど、飾りたくなるほど気に入ってたかな」


「それならべつに……犬小屋ほど、場所はとりませんよ?」

「うん、物理的にはね」


 淡々とした乾いた響きが、紙袋から伝わってくる。


「……捨てちゃうんですか?」

「いや、ゴミ袋に入れるのは、さすがに無理だな。とはいえ、収納庫に片付けるのも未練だそうだから、欲しがっている人に渡すよ」


「理香さんですか?」

「いやいや、理香は、処分しろといった張本人だ」


「でも、ほかに欲しい人って……います?」

「言いたいことはわからないでもないけど、世の中には、物好きな人がいるんだよ」


 捨てるのが無理ならもらってあげる。

 その手で処分することはできなくても手放すことならできるでしょうから。


「今すぐは難しいけど……あの人なら、きっと大切にしてくれる」


 進一は、大量のキャットフードで占められている、収納庫の扉を開けた。


「やっぱり、この量は圧巻だな」

「来てくれないと減りませんよね」


 タローと理香を思い出させる、犬小屋は処分した。それはまた、犬小屋を踏み台にしていたプータローとの決別でもある。少なくとも、進一はそのつもりだった。

 きっとプータローはあらわれない。

 だから進一は想像している。減ることのないキャットフードも、いずれは処分することになるだろう。猫仲間に配るもよし。文恵の実家に送るもよし。どんな選択を取るかはわからないが、文恵も、いずれは手放して決別する。


「……捨て猫を拾ってくる可能性もあるな」

「はい?」


「いや、捨てるのはもったいないなぁと」

「そうですよね。一応、消費期限の迫ったものから、順次つかっていこうとは思ってますけど」


「へぇ、何に?」

「……プーちゃん、今日も来ませんでしたね」


「いや、だから何に?」

「犬小屋がなくなっても問題ないと思うんです。プーちゃん、跳べますから」


 進一は不安を消せないまま、収納庫のスペース確保に乗りだした。食材としてつかわれても気づかない自信があると、缶詰を積み直しながら考えている。冗談だと思うことにして、彼女のことはわからないと、文恵のことを考えている。

 彼女がここを空けるまえには、時計を手放しておきたい。

 ぼんやりと決めて、進一はやれやれと頭をかいた。理香の姿が思い出され、あんまり待たせちゃダメだからね、と笑っている。どうだろうなと苦笑した。待たせているのかもしれない。本気でプータローを待っているような気もするが、もしかしたらプータローのことは、ここに来るための言い訳かもしれない。だとしたら、このままでいいわけがない。


「いや、ダメだな」


 そうじゃなくても、このままでいいわけがない。


 振り向けば、少し警戒している文恵がいる。

 進一は缶詰のうえに紙袋を置いて、文恵に向き直り笑ってみせた。


「今からすごく身勝手で、わがままなことを言うよ」


 返事はなかったが、進一はかまわず文恵に伝えた。


 曖昧にしていたけれど、公園で話してくれたことは覚えている。黙って付き添ってくれて、ずっと力になってもらったことは、ほんとに感謝している。でも、関係ない。どう想ってくれているのかは関係ない。プータローが来なくても関係ない。


「ずっと一緒にいてほしい」


 進一は、驚き固まっていた文恵に「ダメかな?」と訊ねた。

 文恵は勢いよく首を振って、怯えたように後ろに下がった。


「でも、佐山さん、理香さんのこと」

「……好きだよ。いまでも忘れられなくて、そばにいられたらとか考えてる」


「それなら」

「それでも、そばにいてほしい……ダメかな?」


「……ダメじゃ、ないです」


 答えて、断われませんよ、と小さく言った。

 進一は頭をかきながら笑っていたが、しだいに戸惑い、唸りはじめた。


「とにかく気持ちは伝えたかったんだけど、これ、やっぱり相当に身勝手な話じゃないか? プータロー以上の我がままを言ってしまった気がする」


「後悔してます?」


「そうじゃないんだけど、どうにも落ち着かないってゆうか……一緒にいてほしいのは、理香の代役を求めているだけなのかもしれない」


「それでもいいんです」


 好きですから。断われません。

 理香さんのことは、それでもいいんです。



「だって、わたしもプーちゃんのことが大好きですから」



 文恵は嬉しそうに笑っていった。


 文恵がどこまで本気でいっているのか、進一にはわからない。さすがに猫に嫉妬はしないが、やっぱり猫より下なんだろうかと、頭をかきながら考えている。

 彼女のことはわからない。

 進一は文恵の笑顔をながめて、やれやれと頭を振った。わからなくてもいい。こういう彼女を好きになったのだ。西園寺文恵はこれでいい。

 進一はしっかりと文恵を見つめる。

 恋人の距離にはまだ遠く、いつかはわかるようになるだろうかと、少しだけ未来を想像しながら。


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