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4 理香と猫

 ドアの前に、キャラメル色の猫がいる。


 理香は立ち止まり、いつもと違う光景に理由をもとめた。

 なんで私の部屋の前にいるんだろう。この階で猫を飼っている人はいなかったはずだ。首輪もないし、野良猫かもしれない。でも、どうやってここまで? ここって三階だし、マンションの入り口はオートロックなんだけど……。

 疑問を抱きながらも、理香は猫に近づいていった。

 気になるけど、とにかくいまは、部屋に入ってくつろぎたい。


 猫は蜂蜜色の瞳で理香を見ていた。注意は向けているようだが、動く気配はまったくない。ドアの前に居座り、やたらと長い尻尾をゆらゆらと揺らしている。ふくよかで大きな身体が、ドアを開ける邪魔をしていた。

「ちょっとごめんね」

 傷つけないように、そっとドアを開ける。

 と、猫が動いた。

 すっと動き出した猫は、わずかにできたドアの隙間から、するりと部屋に入る。理香の戸惑いをよそに、何のよどみもなく玄関から奥へと進んでいった。


 なんで入るの? しかも、私よりさきに。


 急に荷物が重くなる。

 なんだかわからないけれど、入ってしまったものはしょうがない。

 理香はあきらめてドアを閉めた。


 猫のことはわからないし、そもそも動物には馴染みがない。動物にアレルギーをもつ親がいると、ペットを飼うことはもちろん、近所の犬や猫にもさわらないでほしいと言われてしまう。さわった動物といえば、進一がしょっちゅう世話をしていた柴犬のタローくらいだ。雨に濡れたときの臭いは忘れようもない。かわいい子だったけれど、臭いのはダメ……。


 ……猫は、どうなんだろう?


 ふっと思いたち、不安がよぎる。


 それに、猫ってなにをするんだろう?


 いつもより、ブーツを脱ぐのに時間がかかる。


 猫は服や壁紙を傷つけるのかもしれない。ベッドのうえで跳びはねるのかもしれない。衣裳部屋と寝室のドアは閉めたはずだから、そこを荒らされる心配はないと思うけど。

 理香はブーツを脱ぎ捨てて、いそいで猫のあとを追った。


 ふくらんだ不安は、あっさり消滅する。

 キャラメル色の猫はキッチンにいた。冷蔵庫のまえで、桃色の鼻をヒクつかせている。

 理香はほっと息をついて、ダイニングテーブルのうえに荷物を置いた。

 お腹が空いているのかな。

 猫ってなにを食べるんだろう。

 エサをあげたら居ついちゃうかも。

 猫をながめていても、考えがまとまらない。とりあえず衣裳部屋に入り、ヨガもできるリラックスパンツと長袖シャツに着替えた。しかし、衣裳部屋から戻ると、猫は冷蔵庫のまえから消えていた。あたりを見回すと、寝室のドアが開いている。

 さっきまでドアは閉まっていたはず……あの猫が開けた? ドアのレバーを下げて押したの?

 おそるおそる、寝室のなかを確認する。

 猫はベッドのうえからこちらを見ていた。ためらいながら、理香がゆっくり近づくと、猫はふたたび動き出す。ベッドの中央から枕元に移動して、そのまま出窓に跳びうつった。


 猫が落ち着いたのは、出窓に置かれていた、時計のとなりだった。

 目覚まし機能もついていないのに、いつも枕の近くに置いてある時計。引っ越しをしても、置き場所だけは変わらない。グレーとブラックの色合いは好みでもなく、安っぽい時計ではあるけれど、理香はそばに置きつづけていた。


 夜の街を見下ろしながら、猫はやたらと長い尻尾を大きく振りまわす。勢いのついた尻尾がぶつかり、プラスチック製のアナログ時計は、いともたやすく倒された。

 理香はあわてて出窓に近づき、時計を抱えあげる。

 詫びることもないキャラメル色の猫に視線をむけた。その態度からして、この猫が思い通りに動くとは思えない。ふくよかな身体つきが、さらに不動のイメージを強化させる。

 どうしようかなぁ、この猫。

 考えようにも、知識が無さすぎる。

 理香は考えるのをやめようとして、ふっと思いついた。


 そうだ、進一に聞こう。


 理香は時計を抱えたまま寝室をでると、ダイニングテーブルにおいたバッグから、携帯電話を取り出した。鼻歌を歌いながら、時計をやさしくテーブルに置くと、薄型テレビの前にあるソファーをめざす。二人で座れるクリームレモンのソファーに、どっと身体を沈めて、携帯電話を両手で操作しようとして、理香は固まった。

 進一への電話をためらうのは、はじめてではなかった。


 いつからだろう。

 夜中に電話をかけるのは、たしかに迷惑だと思う。でも以前なら、迷惑なんて思いつく間もなく進一に電話をしていた。夜中の二時でも三時でも、平気で朝まで話し合っていたのに……。

 携帯電話を操作して、メールの受信ボックスをみる。

(いいよ。また次の機会にしよう)

 そんな進一の返信メールが、液晶画面にあらわれる。


 いつからだろう。

(今度、いつ会える?)って、聞かれなくなったのは……。

 進一と最後に会ったのは三週間も前だ。よその劇団にも呼ばれるようになって、舞台の仕事はずいぶん忙しくなった。練習時間も大幅にふえて、デートの約束をキャンセルしたのも、一度や二度じゃない。進一がいつ会えるのか聞かないのは、当たり前なのかもしれない。引っ越しをして、電車で二駅の距離まで近づいたのに、進一と会える時間は、ずっと少ない。


 いつからだろう。


 ときおり進一が、遠くを見るような眼差しを向けるようになったのは……。


 異音が響いて、理香は過去から引き戻された。

 なにかが落ちたような、ドン、という響き。

 すぐに猫が思い出されて、理香は寝室のほうへと注意をむける。

 寝室から、猫がとつとつ歩いてきた。ソファーへまっすぐ向かってくる。うろたえる理香のことなど気にもとめず、猫はそのままソファーにあがり、理香のとなりで丸くなった。人間に対する敬意もなければ、警戒心もなにもない。瞳を閉じた猫の身体は、ゆったり膨らんでは縮んでいる。こんな姿に、敵意があるとも思えなかった。


 理香は静かにソファーを離れて、携帯電話をテーブルに置いた。

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