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46 猫はきっと

 理香による代役公演は初回で打ち切られた。くるみの舞台復帰も難しく、予定されていた残りの公演については料金の払い戻しが行われている。


 劇団は新たな舞台に向けて活動をはじめていた。


「いいかね諸君。期待が高まっていただけに、突然の公演中止は劇団の評判に傷をつけることになるだろう。我々は信用回復に努めなくてはいかんのだよ。全団員が一丸となって挑まねばらんのだよ。もう、こうなるとあれだね。腰痛を気にしているときではないのかもしれないね」


 団長は稽古場のステージで元気いっぱいに役者復帰をほのめかした。劇団員たちはポンコツを牽制すべくシナリオ作りに積極的となり、くるみも根性で退院を果たして、優の断髪式に参加している。


 打ち切りという残念な結末に、誰一人として負けてはいない。

 終わってみれば、心配も後悔も無用におもえる。満場の拍手を得た、舞台の高揚も感じられる。


 劇団の仲間たちは、新たなスタートに熱をあげている。




 理香は、喫茶『糸杉』で進一と会った。




 CLOSEの札がかかったドアを開ける。カウンターのほうへ顔をみせると、樹里がティーカップと磨き布をおいて、なにも言わずにミルクティーをつくりはじめた。思っていたとおり、進一はテーブルについている。約束の時間より早くきても、やっぱり進一は待っている。

 別れの舞台。

 理香は静かな観客に礼を言い、窓際のテーブル席へ近づいていく。


「待った?」

「いや、ぜんぜん」


 声にも表情にも硬さがない、互いに自然な挨拶を交わして、理香は向かいの席に座った。

 想い出の場所。樹理に拒絶されて以降、ふたりで『糸杉』のテーブルについたことはない。これで最後だというのに、妙に気持ちが弾んでいる。


「おめでとう」

「ん?」

「院生試験、合格したんでしょ?」

「ああ、そういえばそうだった……理香には知らせてなかったと思うけど?」

「うん、聞いてないけど言ってみた」

「いい度胸だな。落ちてたらどうするんだ」


 理香は可笑しくて笑っていた。どれだけ心を固めても、演じなければ「さよなら」はいえない。そう思ったからこそ、舞台であることを忘れない、観客がいる『糸杉』を選んだ。それなのに、進一とミルクティーを楽しみたくて、ここで会うことを決めたような気がする。


「そこまでは考えてなかったかな。体調のほうは気になってたけど、進路のことはぜんぜん心配してなかったから。それで、実際どうなの? 顔色はよくなった感じだけど、身体のほうは、もう大丈夫なの?」

「問題ないよ。休息は十分とったし、八代スペシャルも食べたから」

「やしろ? 八代さん?」

「そう、八代さんのために考案された体力増強食。汗の量が尋常じゃなかったけど、元気にはなれたよ。おかげで理香の舞台をみることができた」


「せっかく出入禁止が解かれたっていうのに、劇場に行くべきかどうか、ずいぶん迷った。やっぱり怖かったんだろうな。もう戻れないとわかってはいても、気がつけば過去の選択を悔やんでる。情けない話だ。最後に舞台をみたときから、中身はまるで変わっていない……だから、怖かった。遠くにいる理香を、ずっとみていたいと願うことが」


「あんなに難しい役をやるなんて、千姫を演じてた無邪気な理香が懐かしいよ」

「……うん」

「幕開けから、いい演技してたと思う」

「……ほんとに?」

「舞台に立ってる理香をみて、それまで考えていたことは全部忘れた。芝居の世界に引き込まれた」

「いい舞台だった?」

「最高の舞台だった。これまでで一番よかったと思う。最後のシーンでは、優さんが凄かったけど」

「うん、あの崩れっぷりは圧巻だった。これ以上の舞台は難しそうだって、団長も諦めたからね」

「……やっぱり演技じゃなかったか」

「ゆうちゃん、もう無理だって……もう二度と、こういうのはごめんだって」

「……そっか。迷惑ばかりかけちゃったな」


「チケット、ありがとう」

「うん」

「招待してくれて、感謝してる」

「うん」

「きれいだった。これでいいと思えるくらい、理香はずっときれいになっていた」



 樹理がミルクティーを運んでくる。ゆったりと流れる静かな時間。ひとつひとつ、洗練された優雅な動作で、ふたりのテーブルにカップをならべる。心をくすぐる甘い香り。進一がもらした喜びの声に、樹理もくすりと微笑んでいる。

 樹理が背を向けてテーブルを離れると、ふたりは視線を交えて、お気に入りの紅茶をともに味わう。

 もう十分に「さよなら」は伝えた。

 互いにそうであることを、理香はしっかりと感じていた。



 文恵さんと猫のことを聞かせてほしい。理香の願いを受けて、進一は記憶をたどる。

「理不尽な猫だった」

 語りはじめた顔は、ずいぶんと楽しそうに笑っている。


 捨てられなかった犬小屋。床に散らばった生ゴミ。一貫して図々しく、愛想がなく、決して身体には触らせない野良猫。あらわれては睨み、食事を要求したあげくプリンを狙い、またどこかへ去っていく、何もない日々に波乱をもたらした、眠っているときだけは安心できる猫。

 時をおかず、大自然研究会にあらわれた猫まみれの後輩。猫をめぐる冒険で知った、文恵の執念と直観力。アルコールと猫談義。猫依存症の原因となった思い出の猫を求めて、部屋に押しかけてきたときの騒動。されるがままのプータロー。守護天使。ささやかな追跡。

 毎日あらわれる猫好きの後輩。思い通りにならない、文恵とプータローとの生活。

 進一は語る。

 浮き沈みの激しい文恵。猫と戯れる文恵。キャットフードを収集する文恵。お汁粉のような肉じゃがをつくり落ち込んだ文恵。ツチノコへと導いた文恵。どこか寂しそうな文恵。プータローとの戦いを経て、元気になった文恵。


「打撲の疼きなんて関係なかった。西園寺文恵との不自然な関係は、それで終わるはずだった」


 理香はくすりと笑ってみせる。文恵さんが想いを告げても、進一は受け入れることができなかっただろう。わたしがいて、文恵さんがいる。そんな考えを許せるほど、進一は器用じゃない。

 でも、さすがに進一も気づいてるよね? もう十分、文恵さんを好きになってることぐらい。


 進一の話は途切れていた。語るかどうかを悩んでいる。

「抱いたの?」と理香が笑い、「まだ疑ってたのか?」と進一は苦笑した。

 理香にうながされ進一は話した。理香の変化を感じたこと。なにも考えないように無茶をして、体調を崩して、これまでになく文恵の世話になってしまったこと。


「そこで恋人が登場」

「あれは最高のタイミングだった」



 進一が追いかけて外に出たとき、文恵の姿はどこにもなかった。進一は、ミニバイクがそのままであることに気づき、まだ遠くには行っていないと走り出した。駅へ向かったが見つからない。帰る術がないのなら近辺にいるはずだが、隠れる場所に心当たりはない。あちこち探し回ったが、見つけ出すことはできなかった。

 途方にくれた進一は、児童公園のブランコに身体をあずけた。体調は悪化している。意識が定まらず、泥沼をイメージするほど身体が重い。焦燥と無力感。理香から離れたことが思い出されて、気力で立ち上がりブランコを揺らした。ぼんやりとする視界に光がうつる。

 薄暗く不明瞭な世界でも、蜂蜜色の瞳はきれいな光を放っていた。

 どうしてお前がここにいる?

 理香はどうした?

 倒れ込むように踏み出した進一は、プータローの後ろにいる、文恵の存在に気づいて立ち止まった。



「プータローはすぐに離れていった。最後の別れのような気がして、彼女とふたり、公園から去っていくプータローを見送った。実際、それが最後だ。あれからプータローはみていない。たぶん、もう二度と部屋にはやってこない。そんな気がしてる」


 寂しそうな進一をみていると苦しくなる。理香は迷った。話せばどうなるのだろう。プータローとの関係を話して、「会いたい?」と訊ねればどうなるのだろう…………文恵さんが来る?


「いいかげん、タローの小屋も処分しないとな」


「……捨てないと過去に縛られて、新しいステージには進めない」


「どこかで聞いたな」

「お芝居でつかったからね。もともとは水樹さんが男に逃げられるたび口にしてたセリフだけど」


 舞台は『桂馬』。「捨てられたんじゃないもん捨てたんだもん」からはじまる負け犬の七変化。

 うじうじと泣いていた女の子が、最後にはカッコいい大人の女。

 約90分間の水樹劇場。


「いつも颯爽として、同じ過ちを繰り返してたな。ほんとに結婚したの?」

「らしいよ。遠くで幸せになってるって団長は言ってた……で、水樹さんやプーちゃんはいいとして、そのあと文恵さんとはどうなったの? 告白でもされた?」


 理香の気軽な問いかけに、進一は頭をかきながら溜め息をついた。


 わたしはやっぱり、猫が好きなんです。プータローとともに姿をみせたとき、彼女はすでに答えを出していた。返事を求めることもない。自己完結している。最後までご迷惑をお掛けしました。そうやって終わらせた、彼女の気持ちはよくわかる。簡単に捨てきれるものを捨てたわけじゃない。痛いほどによくわかる。

 情けない話だ。

 目の前にいるのに何もできない。理香から離れたことを後悔して、彼女に慰めを求めている。そばにいてほしい。彼女がそばにいるのなら、理香を忘れることができるかもしれない。素直に気持ちを伝えたら、彼女は喜んでくれるだろうか。

 最低なことを悩んでいる。自覚はあった。けれど、あのとき気持ちを明かさなかったのは、彼女を大切にしたかったからじゃない。理香を独りにしておきながら、理香を諦めきれないでいる。ただ、それだけだ。きっと理香はもういない。わかっているのに、彼女を利用することさえできなかった。

 ほんとうに、情けない話だ。


「理香さんにも謝らないと。そういった彼女に返事もできなかった……彼女の勘は並みじゃない。なにもかも見抜いたうえで、付き添ってくれたような気がする」


「たぶん、そうなんだろうね。電話ではそんな感じだった」

「……謝ったとは聞いてるけど、ほかにはどんなことを?」 


「文恵さん、どうしてる?」

「理香もスルーね……今日も部屋でプータローを待ってる」


「進一を、の間違いじゃない?」

「だったらいいな」


「あんまり待たせちゃダメだからね」

「まぁ、そうなんだろうな」


「大切にしてあげてよね。ふたりが幸せなら、わたしも次の人と幸せになりやすいから……それと、あの時計は処分したほうがいいと思う。昔の女のプレゼントなんて、文恵さんにとっては目障りでしょ?」

「それも、そうなんだろうな」


「未練たっぷりの進一には、目の毒?」

「言ってくれるね」


「でも置いておくのは危険でしょ? ふたりにとっては地雷みたいなものなんだから」

「まぁ、飾っとくものじゃないな」


「思い切って捨てないと」

「次のステージには進めない、か」



 …………気に入ってたんだけどなぁ、あの時計。



 文恵さんラブには、もう少し時間がかかるらしい。理香は唸りつつ笑っていた。クスクスと笑っている気配が、カウンターの向こうから感じられる。なにを口にしたのか、進一もわかってはいるのだろう。頭をかきながら、やれやれと溜め息をついている。

 理香は微笑みをみせた。

 進一と視線を交わす。終わりにしよう。想いが伝わる。進一も同じことを考えている。

 理香は、進一の部屋の合鍵をテーブルにおいた。

 進一は肯いた。


「……じゃあ、そろそろ行くね」

「……そうだな。それじゃあ、ここで見送るよ」


 進一。


「ありがとう」



 理香は、進一をのこしてテーブルを離れた。樹理に礼をいい、『糸杉』を出ていく。

 もっと話をしていたい。けれど、これでよかったと思っている。最後まで演じきれた自分のことを、好きになれそうな気がしていた。






 

 ドアの前に、キャラメル色の猫がいる。

 ピュアな蜂蜜色の瞳。ふくよかで大きな身体。しなやかで長い尻尾。ぷにぷにの肉球。

 ドアを開けると、当たり前のように先に入る。



 ベッドのうえ、大の字になって寝そべるプータローを端に引き寄せて、ふっと、理香は出窓をみた。

 進一から贈られた安っぽい時計。たとえ動かなくなったとしても、捨てることなんてできるわけない。過去に縛られる? 想い出に生きてなにが悪いの? わたしには、進一がいればそれでいい。

 理香はベッドの真ん中に座り、プータローを抱き寄せて膝にのせる。

 ずっと、進一は待っていた。

 もしもプーちゃんがいなければ、わたしたちはどんな終わり方をしたのだろう。

 理香は、蜂蜜色の瞳をのぞかせたプータローにきいた。


「あなたは誰の味方なの?」


 プータローは、欠伸でこたえた。


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