45 終末
くるみが病院に運ばれた。
稽古の帰り道で倒れたらしい、と理香には優から連絡があった。原因は極度の疲労。知らされたのはそれだけで、詳しい説明は聞いていない。心当たりは十分にあり、謝ることはあっても追求はしなかった。
理香は優とともに何度か病室を訪れている。
「……お帰りなさい」
それが初めて見舞いに訪れたときの、くるみの第一声。
くるみは一言も愚痴をこぼさず、大人しくベッドで点滴を受けていた。憑き物が落ちたような、妙にすっきりとした顔で、「絶対安静らしいですよ」と他人事のように語った。
主演女優不在の事態に、団長からは代役を頼まれた。くるみの異様な存在感がなければ成りたたない芝居ではあったが、前売りチケットの払い戻しを避けたいらしい。
「もともと理香くんが主演だったわけだから、いけるんじゃないかと思うんだよね、ぼくは」
と団長は言った。実際、なんとかなるように感じてはいたのだろう。理香を拝んでいた団長の眼差しは、わりと本気だった。
団長は、理香ならば観客を納得させるだけの舞台をつくれると考えたはずだ。くるみを徹底指導していた理香が、自分ならどう演じるかを考えていないわけがない。残された時間は少ないが、理香なら主演を演じられる。公演までには舞台を作りなおせる。
劇団のスターである月島理香は、それだけの役者だと信じていただろう。
しかし、早々に舞台へ復帰させることが、理香のためになると考えていたのかもしれない。
佐山進一を劇場に招待すること。
理香の提示した条件を、団長は何も言わずに了承した。
進一は部屋に残されたチケットをもって劇場まで足を運んだ。
理香の主演舞台であることは、経緯とともに理香から知らされている。理香がメールを送り、進一が電話をかけた。あの夜の出来事が語られることはなく、用件だけを伝えられて話は途切れている。
進一は誰にも邪魔されることなく指定席に座った。
別れの言葉を交わすこともなく、離れたままで会うこともなく、舞台上と二階席の距離をもって果たされる、一方的な再会。そのあとのことは決めていない。迷いがないとも思ってはいない。
「ああ、やっぱりそうだ」
あのときの人だ、と言いながら進一の知らない女が隣の席に座った。
理香の予約したチケットは二枚。
理香が座るはずだった進一の隣で、くるみは堂々とメロンパンを食べはじめた。
どうも、理香さんの後輩の木下くるみです。優さんから写真を見せてもらったんで、進一さんだってことはすぐにわかりましたよ。そっちは覚えてないでしょうけど、理香さんの舞台を観に来たとき、一度だけ、こんなふうに隣に座っていたこともあるんで。
ええ、私はしっかり覚えてますよ。私の隣で、私以上に、あなたは理香さんの演じる悪女に魅せられていた。忘れられませんね。感動を共有して、こっちは止めをさされたというか、理香さんには憧れてもいいと思えるくらい、素直に凄いと認めることになったんです。あのとき進一さんがいなければ、私はきっと意地を張って、役者なんかにはならなかったでしょうね。
「病院? ええ、抜け出してきましたけど、それがなにか?」
私だって理香さんの舞台をみたいですし、進一さんに話しておきたいこともあるんで。ああ、だいじょうぶ、わかってますよ。だからこうやって点滴の代わりに菓子パンを食べてるんです。いや、嘘じゃないですよ。もし仮に嘘だとしても食欲があるなら問題ないでしょう。
で、これは理香さんも知らないことなんですけど、この前、帰り道で暴漢に襲われたんです……ちゃんと撃退しましたから驚かなくていいですよ。こっちは優さんを相手に水樹流掌打法を仕込まれてましたからね。ちゃんと一撃で沈めてやりましたよ。地面に這いつくばった男を、命乞いするまで踏んづけて、警察がくるまで踏みつづけて、さすがに負担が大きかったのか動けなくなって、パトカーで病院に運ばれました。
「私を襲った暴漢は、理香さんのファンです」
お前は何をした。お前がいるから月島リカは舞台に立てないんだ。俺が退治してやる。この化け猫が。
どうです? 狂っているでしょう? 夜道に突然あらわれて、ナイフを片手に世迷いごとを口にするような男がいたんですよ。踏んづけてもかまわない男、理香さんに危害を加えてもおかしくはない、狂った男が存在した。これは理香さんの知らない事実。あなたが知ることのできなかった事実です。
「心配でしょうね、理香さんのこと」
でも、進一さんは心配しないでください。心配する必要はありません。狂ったファンの一人や二人、私と優さんだけでも十分です。団長も、劇団のみんなも、理香さんを守ります。襲いかかる外敵なんて、進一さんがいなくても問題はありません。
理香さんは舞台に立ちます。誰よりも輝かしい姿をみせてくれます。だからもう、大丈夫です。
「もう、進一さんの役目は終わりました」
それが私の言いたかったことです。
くるみは劇場の正面だけを見据えて、黙々とメロンパンを食べていた。隣にいる進一の姿を、決して知ることがないように、食べ終えるとカフェオレを飲み、今度はチョコスティックパンを用意する。
進一に意識を向けないように、理香の姿を思い出さないように、関係のないことを考えていたい。
例えば、ときどき菓子パンを分け与えていた、キャラメル色の野良猫について。
あるいは、襲ってきた男について。
くるみは思う。正直、理香さんの武力は相当なものだ。どんな幼なじみがいれば自然と強靭な肉体をもつことになるのかはわからないが、襲いかかる暴漢なんて一撃で意識を刈り取ってしまうだろう。守る必要すらあるとは思えない、けれど、理香さんの場合、精神的な脆さは注意しないといけない。私たちが守るのは、団長や優さんが気にしていたような、ストーカーの陰湿な犯罪からだ。不愉快な行為をやらかす奴があらわれたら、全力で潰す。
優ほど深くは考えなかったが、くるみも疑問には思っていた。
警察が調べた限り、マンションの防犯カメラに男の姿は映っていない。男の部屋にあったのは隠し撮りした理香さんの写真と舞台映像だけで、理香さんの私物がなかったことは、こっそり劇団員たちも調べている。
なぜ理香さんの生活範囲に、あの男はあらわれなかったのだろう。
近所の住人に話を聞けば、異様に臭い挙動不審な人物だったらしい。狂った言動、見た目の印象にしても、卑劣なストーカー行為に及んでもおかしくはない。それなのに、どうして目的である理香さんに近づこうとしなかったのか。いきなりナイフで襲ってくるなど、行動が飛躍しすぎているように思える。
犯行にいたった動機は、警察の事情聴取でもわかっていない。
眠れば夢に怯えて、起きていれば幻覚に怯えて、口を開けば「たすけてくれ」。あの女は人間じゃない、そんな答えしか返さない男から詳しい話は聞けそうもない。近く病院に搬送される予定だと、くるみの病室に訪れた刑事は言った。
「よっぽど怖かったんだろうなぁ」
「骨身に沁みるほど怖かったんでしょうねぇ」
担当刑事と優にまとめられて、それ以来、くるみは考えることがアホらしくなった。
くるみは知らない。パン屋の前で待ち伏せるキャラメル色の野良猫が、理香に対するストーカー行為、そのすべてを嬉々として妨害していたことなど、今後も知ることはないだろう。
当然、理香や進一との関係も知らない。
何も知ることがないまま、くるみは今日も菓子パンを分け与えてきた。クロワッサンに喰らいつく猫をながめながら、くるみは思っている。嵐のような日々にあって、この猫だけは変わっていない。どうせなら、ずっとこのままでいてもらいたいものだと。
だから、くるみは考える。
あの猫はどこかへ行ってしまう。そんな予感が現実になっても、とても文句は言えそうにない。
甘んじて受け入れる、というよりは、猫との別れを望んでいる気がする。だとしたら、ずいぶんらしくない発想だ。そんな罰を望むほど感傷的になるなんて、私も思ったよりは繊細にできているらしい。優さんのことを、なかなか馬鹿にはできそうもない。
迷いや苦しみも抱えて、劇場内は暗闇につつまれる。
開演を告げるベルが鳴り、ステージに視線が注がれる。
幕が上がり、令嬢を演じる理香が、舞台の中央で光を浴びる。それだけで観客は惹き込まれた。
美しく、哀しい。くるみの存在感とは異質のままで、シナリオや演出に変化はみられない。劇中において、理香は口を開かない。ほかの演者がセリフを発声するなかで、理香だけは無声で演技をつづける。令嬢と他の登場人物たちとの間では会話が成りたっていることから、観客は補完する。令嬢の言葉をあてはめて、描かれる日常を想像して、観客たちは世界を知らされる。
美しい令嬢の、哀しい世界。
まるで令嬢に導かれるように、思うままに実行される令嬢殺害計画。地下室に閉じ込めても、崖から突き落とそうとも、翌朝には変わらぬ日常を繰り返す、令嬢の哀しみ。終わらない世界で、令嬢の微笑みは崩れない。壊れて消えたはずの男たちは、すべてを忘れて戻ってくる。淡々と過ぎていく死をもっても、世界は深い哀しみを湛えている。
ラストシーンは幕開けの場面と酷似していた。
平凡な殺害計画を胸に秘めた男が、令嬢を相手に純愛を語る。令嬢の声は聞こえない。一人芝居であるかのように、男の言葉だけが空しく響いている。
ただ、最後まで哀しい、救いようのない終末を迎えて、男の声が途切れて消えた。
理由もなく、脈絡もなく。
男は泣いている。語ることもままならず、膝を屈して、両手をついて、額を床につけた、憐れなほどに無力な姿をさらしている。
哀しみなのか、懺悔なのかもわからない、心に迫る慟哭。
揺さぶられ、世界に惹き込まれていた観客たちは、涙を流すことを思い出していた。
「繊細すぎるんですよ、あの人は」
進一が隣をみたとき、くるみは顔をそむけている。
進一が舞台を見守るなかで、理香が少し困ったように笑い、観客席を見上げた。
幕が下りる。
満場の拍手で埋めつくれるなか、たしかに、ふたりは再会を果たしていた。