44 理香の選択
薄暗くなった進一の部屋に、明かりをつけることができなかった。目を背けたい現実に囲まれて、膝を抱えて震えている。逃げ出すこともできず、身体を冷やして帰ってくる二人のために、部屋を暖めておくこともできない。
慰めるのではなく、慰めてほしかった。
ひどいわがままだと理解できても、愛されていると感じたかった。
アナログ時計は淡々と、乾いた音を響かせていた。
理香はうずくまり、聞きなれた音に耳を澄ました。目を閉じて、時計の活動音に意識をむけると、進一のそばにいることができた、幸せがよみがえる。次から次へとあらわれる、忘れられない大切な日々が、甘い感情をのこして姿をかくした。私はもう、一生分愛されたのかもしれない。心と身体に染み込んだ想いに、笑みさえこぼれて顔をあげる。
居るべき場所ではないと思った。進一の帰りを待ち望みながら、文恵を連れて帰ってくる進一を、どうやって迎えればいいのかわからないでいる。
支えることができないのならば、せめて、困らせることだけはしたくなかった。
理香はアパートの前で立ち止まり、犬小屋をみようと振り返った。暗くてはっきりとはわからなかったが、柴犬タローと戯れる進一の姿が思い出される。理香の足は遠ざかり、アパートを離れた。
耳に残る淡々とした響きが、理香の歩みに力をあたえている。
誰もいない進一の部屋には、ふたつのプリンと一枚のチケットを残していった。
合鍵はまだ持っている。進一が手ぶらで出ていったのならカギをかけることはできないと、ドアを閉めるときに気がついて悩んだ。無用心だからと理由をつけても、進一の部屋で待つことはできそうにない。手放すことも考えはしたが、もう一度なかに入り、合鍵を置いていくことはできなかった。
理香は坂道を下りていく。まっすぐ道なりに歩いて、児童公園のまえを通った。交差地点まで抜ければ駅がみえる。ここからみる景色も、これで最後になるかもしれない。いくつもの過去を抱きながら、理香はマンションに帰るため駅に向かう。
淡々とした時計の音が、一秒として止むことなく、理香のなかで響いている。
もうひとつの時計を求めて、理香は改札口を通りぬける。騒々しいはずの駅のホームでも、時計の音は聞こえている。世界は動いてみえるのに、周囲の話し声も、電車の到着を告げるアナウンスも、ドアの閉まる音もない。
すべてが虚構に思えてくる、誰もいないに等しい、偽物のような現実の世界。
理香はひとり揺られながら、車窓にうつる自身の姿をながめていた。寂しそうではあるけれど、たしかな幸せも感じている。「わるくないよ」とつぶやいて、なんでもないように笑ってみせる。嘘をついたつもりはないのに、寂しさだけが取り残された。
二駅目で電車を降りる。どこにも寄らずマンションに帰った。エレベーターに乗りこむ。三階についた。ドアの前にプータローはいない。ひとりで部屋に入り、ドアを閉めた。帰ってきたと理香は思った。帰ってきてしまったと理香は震えた。足が動かなくなり、玄関でしゃがみこむ。
時計の音が聞こえない。
理香はバッグから携帯電話を取り出した。待ってなくてごめん? いますぐ会いたい? 何を話すことができるのだろう。戸惑い、悩んで、それでも理香は進一を呼び出した。まだ戻ってはいないのか、電話はつながらなかった。
理香は着信履歴だけを残して携帯電話をしまった。
後悔している。帰ってきたことも、進一に電話をしたことも、なにもかも間違いにおもえる。きっと、なにをしても後悔をともなうのだろう。そばにいないことが罪だった。ずっと前から間違っていて、いまある現実は償いなのだ。
どうしようもなくて、どうしたいのかもわからない。
ただ、進一の声が聞きたかった。
冷えた身体に熱いシャワーを浴びせて、リラックスできる部屋着をまとう。甘いココアをつくり、クリームレモン色のソファーに身体を沈めた。今夜はもう、誰にも会わない。進一のそばにはいられない。ココアを口にすることもなく、意識は、テーブルに置いた携帯電話に向けられている。
まだ、心のなかでは進一を待っている。
十分に愛されたはずなのに、終わらせてもいいと思えたはずなのに、進一の連絡を期待している。進一が選んでくれることを、いまでもまだ期待している。
失いたくはなかった。困らせたくないと考えたのも、なにもかも、過去にしか幸せを探せない自分を慰めるための、言い訳に過ぎなかったのかもしれない。ほんとは誰を傷つけることになっても、傷つくことになっても、進一が不幸になっても、わがままを押し通したいのかもしれない。
理香はソファーで待っていた。
離れた距離が遠すぎて、恋人に呼びかけることはできない。進一が無事に帰ったかどうか、文恵とはどうなったのか、プリンとチケットが残された部屋でなにを思うのか、着信に気づいたかどうか、連絡をしてくれるかどうか。
着信音が鳴り響く。
瞬間、怖気づいて身体が強張った。望む言葉が得られるとは思わない。別れの言葉を聞かされるのかもしれない。ためらいながらテーブルに向かい、佐山進一の名が表示された、液晶画面を確認する。
呼び出しに応えて、理香は待った。
話しかける勇気をもてず、進一の声を待っていた理香の耳元に、文恵の緊張した声が伝わる。
向こう側で泣いている、文恵の苦しみを知った。
ふたりで部屋に戻ったと文恵はいった。理香がいなくなった空っぽの部屋に、明かりをつけて、進一は立っていることができなくなったらしい。ごめんなさいと文恵はいった。いままでのこと全部と、勝手に進一の携帯電話をつかい電話したことを理香に謝った。そして、来てください、と理香に頼んだ。布団で寝込んでいる進一が、理香の名を口にしていたらしい。涙をみせて、眠りに落ちるまで謝っていたらしい。
そばにいてほしいのは誰なのか。声をつまらせながら文恵は告げた。
進一は突き放したことを悔やんでいる。泣いていたのは、失ったことを受け入れるため。
理香は、すべてを伝えてくれた文恵に語りかける。
ありがとう。でも、ダメだよ。わたしはいけない。いま、進一のそばにいるのはあなただから。進一が弱りきっているときに、わたしは何もできない場所にいる。だから、きっとこれでいいんだと思う。わたしはいかない。進一が無事なら、それでいいから。
進一は、すぐに新しい恋人をつくれるような、さっぱりとした性格はしていないけど、それでも文恵さんが必要で、これからもっと、あなたのことを好きになっていくと思う。
だから、お願い、文恵さん。進一のそばにいてほしい。ずっとそばにいて進一を助けてほしい。寂しがらないように、進一が距離をとろうとしても、けっして離れずについていてほしい。わたしにはできなかったことを、あなたならできると思うから。
だから、お願い。
これからもずっと、進一を好きでいてくれるでしょ?
進一は未練を抱えて日々を過ごすだろう。昔の女が消えてはくれない、文恵にはつらい状況がつづく。けれど、だからこそ進一にはちょうどいい。過去を引きずる余裕もなく、文恵を守ることに考えを巡らせる。
ふたりなら、きっとだいじょうぶ。
進一は、過去を手放して、現在を受け入れる。
ふたりはきっと幸せになれる。
電話を切って、理香は思う。
かっこいい女を演じたつもりはない。
どうしようもなく、終わりを感じてしまっただけだ。
もう、待っていても意味はない。わかっているのに、理香は携帯電話を手にしたまま、寝室の前に立っていた。もう二度と、触れ合える距離にいられないのなら、せめて、すべてを忘れてしまいたい。抗いながら、失ったものを求めてドアノブに手をかける。目を閉じながら寝室に入れば、時計の淡々とした響きが聞こえてくる。
寂しくて、心細くて、閉じた両目から涙がこぼれた。
出窓に置いた安っぽい時計。歩み寄り、そっと手にする、進一に贈られた思い出の時計。こみあげる想いが胸に迫り、嗚咽になってあふれ出した。
進一の部屋で待っていたなら、進一は選んでくれたかもしれない。もう少しぐらい、ちゃんとした終わり方ができたのかもしれない。
どれだけ涙を流しても、後悔ばかりが押し寄せる。
失いたくはなかった。出会った頃に戻れるのなら、もう一度、同じ時計を贈り合う。忘れられない思い出を抱えて、どうやって生きていけばいいのだろう。やり直せるのなら、「いっしょに暮らそうか」と告げられた、あのときの答えを。
別れたくはなかった。こんなにも愛しい人と、どうして別れなければいけないのだろう。
「やだよ」
理香は涙をぬぐい時計から離れた。寝室を出ると、財布とコートだけ探してまわる。
いまならまだ、間に合うかもしれない。
いまならまだ、進一のもとへ戻れるかもしれない。
着替える時間が惜しくて、鏡をみることもなく、泣き顔のままで玄関に向かう。練習用のスニーカーを履いて、走り出す勢いでドアを開ける。
待ち構えていたかように、部屋の外には猫がいた。
キャラメル色のふくよかな猫が、やたらと長い尻尾を揺らしながら、蜂蜜色の瞳で理香をみていた。
理香は立ち止まり勢いを失う。
眠たそうな眼をしたプータローを前に、ふいに訪れる安心感。消えていく願い。終わりのとき。
理香は一歩も動けずに、その場で静かに泣き崩れた。
近づく猫は涙でみえない。
ぬくもりを肌で感じたとき、寄り添う猫がいることを知った。
ふたりは喫茶『糸杉』で出会った。
進一が孝雄につれられて、美咲と会うために『糸杉』を訪れたとき、理香がいたのは偶然ではない。進一が、友人である孝雄が惚れた雪村美咲を知りたかったように、理香はビアンであるはずの美咲が興味をもった、一条孝雄を見てみたかった。
誰もがそうであるように、進一は美咲に釘付けだった。
ちゃっかり居合わせていた理香は、美咲の男をそれなりに観察したあと、進一のことばかり見ていた。
佐山進一の存在は、美咲から聞いた話に出てくる。
このへんは同じだよね、と理香は思った。イメージ通りの優しそうな人だ。美咲の下僕になりたがるような、哀れな男たちとは違う感じがする。けれど、美咲がそこにいるのなら、私や樹理さんの存在なんて、この人の目には映らない。
理香は自分が残念に思い、少しばかり落ち込んでいることに気づいてはいない。
出会う前から関心があったことなど、まったく気づいてはいなかった。
四人が座るテーブルに、樹理が紅茶を運んでくる。
甘味好きであることは知られており、進一の前には、理香のお気に入りミルクティーが置かれる。進一は美咲に魅了されたまま、無意識の反応でカップを口もとに運んだ。
そして、進一は美咲から視線を外した。
ミルクティーのおいしさに驚いて、感心して、もう一口味わって、ようやく向かい側の席から見られていることに気がついた。
我に返った進一は、理香の存在に気づいて、理香だけを見つめる。
はじめて見てもらえた理香は、うれしくなって笑顔が溢れて、照れ隠しにミルクティーを楽しんだ。
おいしいでしょ?
相手に視線で伝えてみると、甘味仲間はミルクティーを味わい、「ほんとにうまい」とうれしそうに笑った。
理香と進一は、お互いに意識を向けあい、ふたりだけで会話を弾ませる。
美咲や孝雄が席をたったことも、ふたりにとっては些細なことで、記憶にさえ残ってはいない。
劇団の稽古時間が迫ってくると、また会えないかどうか、進一が訊いた。
舞い上がる気持ちに戸惑いながら、明日また会うことを約束して、理香は『糸杉』を後にした。
ふたりで会話を楽しんでいるとき、ふたりで見つめ合っているとき、自分をみてくれたとき、お気に入りのミルクティーを気に入ってくれたとき、向かい合って座ったとき、初めて目にしたとき。
いつからなのか、どの瞬間だったのかはわからない。
理香は、稽古場の鏡に映った自身の姿をみたとき、「私は恋をしている」と知った。
美咲に群がる愚かな者たちを見つづけてきたことで、男というものに幻想が抱けず、美しい純愛など現実には存在しないと思うようになった。その反面、いつか恋に落ちることを密かに期待して、期待を大きく膨らませてもいた。
私をみてくれる人なんて、いるわけないよね。
樹理にも語らない密かな願望。
恋愛も、誰かを好きになることも、理香にとっては遠い存在。
あるわけないと思っていた夢物語。
夢のような恋をした。寄り添うプータローを胸に抱いて、理香は最後を受け入れた。