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43 夢の舞台

 プータローがもぞもぞと動き、理香のささやかな抵抗を振り払った。畳に着地して、軽く身体を振るわせると、尻尾をむけて歩きはじめる。

 とつとつ歩いてゆく猫を、理香は四つん這いで追いかける。

 プータローは畳部屋を離れてダイニングキッチンに入った。理香がゆっくりと立ち上がったときには、ステンレスラックのまえで座っている。蜂蜜色の瞳が、まっすぐに理香を見上げていた。

 理香は歩み寄り、しゃがみこんで棚をしらべた。ステンレスラックの下段には、猫皿セットと各種のキャットフードパックが並んでいる。

「いっぱいあるね」

 と理香はいった。棚からごっそり取り出して、「どれにしようか?」と理香は考える。迷っているうちに、プータローが器用に前脚で選んだ。肉球は二パックを押さえていた。理香はひとつを戻そうとしたが、肉球はまったく譲らなかった。


 理香は猫皿にかつお節入りマグロとささみのパックをあけた。行儀よく待っているキャラメル色の猫に微笑み、もうひとつの猫皿には水を用意して、ふくよかな猫の前においた。

 進一の部屋で、プータローの食事を世話している。

 夢の欠片を手に入れて、少し違うかなと理香は思う。思い描いていたイメージとは何かが違う。進一がいないから? 理香はキャットフードに喰らいつくプータローをながめながら、「進一の部屋なのにね」とつぶやいて寂しそうに笑った。



 プータローは、さっさと六畳間へ戻っていった。

 理香は、きれいになったキッチンで後片付けをしながら、夢をみようとしている。


 夢は、理香と進一とプータローの世界。


 繰り返し思い描いたイメージのひとつ、『新生活~進一の部屋編~』は、記憶をもとに舞台背景をつくりだしている。そして現実のダイニングキッチンは、美化されたイメージそのままの姿をしていた。冷蔵庫やステンレスラック、電子レンジや炊飯器も、記憶にあるものと同じで、配置もまったく変わってはいない。思い描いていた夢の舞台と、現実との間に、ほとんど差異はみられない。


 理香はいままで知らなかった。進一の部屋を訪れる、猫好きの可愛い後輩も、野良猫も、その姿をイメージすることができずにいた。進一の部屋で、見知らぬ女が、見知らぬ猫の世話をする姿など、これまでに想像したことはなかった。

 しかし、理香はすでに知っている。文恵のことも、文恵が世話をしていた猫が、プータローであることも知っている。同じことをしている文恵が、ほんとうにあっさりとイメージできる。

 進一の部屋で、プーちゃんのために食事を用意して、猫皿を洗う、この行為を、文恵さんは何度繰り返してきたんだろう。

 存在したであろう現実を意識するほどに、夢の世界に違和感をおぼえる。



 六畳間に戻ると、収納庫の扉が開いていた。なかには布団のうえで毛づくろいをするプータローがいて、ドライタイプの袋詰めキャットフードがあり、缶詰があり、ステンレスラックにあったものと同種のパックが倍量あり、釣竿と昆虫採集セットが端のほうに置かれていた。

「…………うん」

 収納スペースはすっごく変わった。

 文恵の痕跡が過去を知らせる。猫好きレベルでは負けるとしても、文恵の気持ちはなんとなくわかる。同じことをしていたような気もして、理香は苦笑した。進一のことならよくわかる。きっと押し切られたに違いない。困ったような顔をして、それでいて文句は言えそうにない進一に、文恵さんはどんな言い訳をしたのだろう。理香はイメージを広げる。自分ならどうしたか、文恵に自身を重ねていく。


 理香は、窓を閉めた。温もりが恋しくなり、布団からプータローを抱き上げる。猫を抱えながら、ふたたびベランダ側に腰を下ろした。まだ太陽は沈んでいない。部屋には西日が射し込んでいて、明かりをつける必要はない。

「遅いよね」

 まだ、進一は帰らない。

 進一は携帯電話も置いていった。文恵と同じように、後のことを考えずに出ていった。

「外は寒いのに」

 財布もカギも携帯電話も置いていった文恵には、どこにも帰る場所がない。誰にも連絡はとれず、自分の部屋にも帰れず、だからといって、荷物を取りに進一の部屋へ戻ってくるとは考えられない。

 おそらく進一は、見つけるまで戻ってはこないだろう。たとえ真夜中になっても、ひとりで帰ってはこない。暗くなるほど、寒さが厳しくなるほど、ひとりでいる文恵を心配するに違いない。

「ふらふらなのに」

 走り回っているのだろう。進一の体調を、理香は気にした。まさか倒れてはいないとは思うが、心配になり、不安が膨らむ。はやく探し出せればいいとも思う。しかし、そのあと、二人はどうなるのだろう。


 文恵に対して、進一も好意はもっている。今回、文恵のことを考えつづける状況において、これまでになく真剣に、その気持ちを強めるのかもしれない。時間が経つほどに、進一は文恵を想うのかもしれない。文恵を見つけだしたとき、どんな言葉をかけるのだろう。文恵の気持ちに気づいているのかは疑わしいが、進一は、どのような答えを示すのだろう。


「待っているのも、けっこうつらいね」


 余計なことしか考えない。ずっと待っていてくれた進一を、そばにいて支えたいと願いながら、どうしても疑問を捨てきれない。

 理香はプータローを抱きしめて耐える。

「彼女には感謝してる」「彼女がいなかったら、もしかしたら、後悔することになっていたかもしれない」

 思い出される進一の言葉。進一の支えとなっていた、文恵に対する進一の好意。進一の選択。

 理香はプータローを抱きしめて願う。

 そばにいて、支えになれるのは同じだとしても、誰よりも力になれるのは、文恵ではないと。



 大人しくしていたプータローが、どうにも落ち着かなくなった。毛づくろいが中途半端なのではなく、ただプリンが食べたかったらしい。またしても束縛から脱すると、理香の持ってきた紙袋に頭を突っ込んだ。


 理香は濃厚カスタードプリンをキャラメル色の猫と分け合って食べた。


 進一がいない進一の部屋で、プータローと一緒にスイーツタイムを過ごしている。理香は寂しさの理由を探して、幸せそうにプリンを食べる猫のことを、進一はすでに知っているのだと気がついた。もうすでに、進一の部屋にはプータローがいた。プータローがいて、進一がいた。思い描いていた夢の舞台は、もうすでに完成していた。

 夢は、理香と進一とプータローの世界。

 現実は、文恵と進一とプータロー。理香はどこにも存在しない。

 理香は考えを振り払う。そんなはずはない。そんなことはありえない。もしも進一とプータローとの生活が、もうすでに始まっていたのだとすれば、なぜ、私はそこにいないのだろう。幕を開けた舞台に立ち続けていたすれば、それは、私でなければおかしいのだから。


 理香は夢をみようとして、夢に似た情景を思い浮かべた。


 進一がいて、プータローがいて、文恵がいる。

 その情景は、誰にも踏み入れることができない幸せな生活、そのものにおもえた。




 プリンの容器から鼻先を引っこ抜き、ひと息ついていたプータローが、とつとつ歩いて離れていった。ダイニングキッチンを抜けて、ドアの前で振り返り、蜂蜜色の瞳で理香に訴える。

「行っちゃうの?」

 理香の呼び声に、蜂蜜色の瞳が柔らかく光る。

 探しに行くの?

 視線での問いかけに、プータローはのんびりと欠伸で答えた。


 理香は立ち上がり、プータローに近づいた。プリンの容器をゴミ箱に片付けて、ドアの前でプータローを見下ろす。ドアが開くのを待っている、プータローとは、いつも一緒に部屋を出ている。見上げてくる猫に、居るべき場所ではないと言われているような気がして、理香はしゃがみ込みプータローにふれた。

 プータローは理香をみていた。

 蜂蜜色の瞳のなかには、微笑みを浮かべた理香が映っていた。

「それでも」

 待っていたいと理香はいった。

 居るべき場所ではないのだとしても、遅すぎたのだとしても、まだ、終わりだとは思いたくない。

「迎えに、行くんだよね」

 理香はプータローをやさしく撫でる。この猫ならば、あっさり文恵を見つけ出して、ふたりを連れ戻してくる。そんな予感がしている。感じたとおりなら、止めないほうがいい。進一に無理はしてほしくない。けれど、わかってはいても、行かないでほしいと理香は願う。

 そばにいてほしい。ひとりでは耐えられない。

 弱さを自覚するほどに、文恵の存在が大きくなる。進一のそばにいなかった、自身の罪を知らされる。もうすでに、進一の力になれると信じることができない。そばにいていいのかさえ、わからなくなっている。

 蜂蜜色の瞳が、やわらかな光を揺らしていた。

 理香は小さく笑いかける。

「それでも待っていたいだなんて、あきらめが悪いっていうか、自分勝手っていうか……いっしょに待っていてほしいけど、それも難しいんだろうね。わがままっぷりなら、プーちゃんも負けてないから」

 そっと猫から手を離して、理香は静かに立ち上がる。


 ドアが開いても、プータローは動く気配をみせなかった。


 じっと見上げてくるキャラメル色の猫に、いまはダメだよと理香は伝える。

「どんなわがままでも、進一が受け入れてくれることだけは、ちゃんと信じていられるから」

 今はまだ、待っていられる。

 夢を見失ってしまっても、すべてを失ったとは思いたくないから。




 理香は、ドアを閉めて孤独(ひとり)になった。


 振り返ると、猫もいない寂しい部屋に、光が落ちていく瞬間がみえた。肌寒さも、匂いも、静けさも、知らない場所であるかのようで、心細さを感じさせる。口のなかに残るプリンの甘さも、幸せをもたらしてはくれそうにない。

 探して、お気に入りのマグカップをみつけた。お湯を沸かして、砂糖たっぷりのインスタントコーヒーをつくった。淹れたてのコーヒーを少しだけ口にすると、手のひらを服の袖で守りながら、熱くなった進一のマグカップに温もりを感じる。元気をもらえたような気がして、だいじょうぶだと思えたような気がして、火傷しそうなコーヒーを口もとに運びながら、失わないように、冷めてしまわないように、両手でマグカップを大切に守った。


 変わらない場所で、変わることのない淡々とした響きで、時計は理香に思い出を語る。


 理香はマグカップを手に入れて六畳間にもどった。

「忘れてないよ」

 忘れるわけないよ。理香はテレビのまえに立ち、時計にむけて小さく笑った。



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