42 願い
秒針の乾いた足音が、淡々としたリズムで響いていた。
理香は畳に座ったまま、ぐるりと進一の部屋を見回した。時計の活動音が聞こえる静かな部屋の中は、すっきりと片付けられており、古くはあるけれど清潔だった。部屋はきれいになっている。たしかな変化を感じながら、理香はテレビのうえに時計を見つけた。
変わらない場所で、変わることのない淡々とした響きで、時計は理香に訴えかける。
大丈夫。理香は弱々しく笑ってみせる。心配なんてしてない。進一のことなら、ちゃんとわかってる。
「……けど、失敗しちゃったよね」
理香は耳をすませながら、膝にのっかる温もりを感じた。
ドアの向こうに立っていたのは、笑顔のかわいい文恵さんだった。誰だろうって、この可愛い人は誰なんだろうって、本気で考えた自分が怖い。あのとき私はどれくらいニヤニヤしていたんだろう。文恵さんの眼にはどう映ったのだろう。私たちは何も言えなくて、動くこともできないでいた。そして、ふらふらの進一が出てきた。私が誰なのかを知って、文恵さんは慌てていた。態度とか雰囲気を見ていて、ああ、これはもう間違いないなと思った。樹理さんの読みどおり、文恵さんは進一のことが好きなんだろう。そして困ったことに、なんだか健気で可愛くて、とても悪い女には見えなかった。どうしてくれようとは思えなくて、どうしようと思ってしまう相手だった。
それでも進一がいなかったら、たぶん展開は違ったのだろう。文恵さんと一対一で向かいあえたなら、お互いに本音を伝えられたかもしれない。進一って鈍感だよね、みたいな会話をして、感謝してるんだよって伝えて……同じ人を好きになって、仲良くなれたかはわからないけれど、あきらめてくれたかはわからないけれど、泣きながら部屋を飛び出していくなんてことにはならなかったと思う。
文恵さんは動きやすい服が好みなのかもしれない。黒猫いっぱいのシャツにストレートジーンズ、白のロングパーカー、黒髪がつやめいて、何も言わずにうつむいている姿は、すこし色っぽくもあった。
それで、なんだかいろんなやりとりがあって、文恵さんは可哀想なくらい落ち込んでしまった。進一の何気ない言葉に、ああ、今のはちょっと傷つくんじゃないかな、と思ったけれど、私はなにも言えなかった。繊細な人なのだろう。言葉のナイフがつけた小さな傷から、文恵さんは光を失いつづけた。たぶん、よくはわからないけれど、文恵さんは怯えていたような気がする。少しずつ、判決を待つ被告のようになって、裁きを待つ罪人のようになって、最後には光を吸い込みそうなくらい暗く沈みこんでしまった。
なんだか申し訳ない気持ちになって、私は文恵さんの顔を見れなくなった。
それに、進一の顔も見れなくなっていた。
そもそも二人を同時に相手するなんてことは考えていない。イメージトレーニングもできていない状況なのに、長期休養の話を進一にしたのは間違いだったのだろう。進一がすぐに受け入れてくれるとは思っていなかったけれど、そこのところはイメージ通りだったけれど、まさか文恵さんがいる前でラブシーンに突入するわけにもいかない。やっぱり進一は困るよねって。やっぱりそうなっちゃうんだよねって。そんなことしか考えられなくて、ものすごい空気になってしまって。
だから、待つしかなかった。進一はきっと受け入れてくれると信じていた。待っていればそれでよかった。文恵さんには悪いけれど、黙って待ってさえいれば進一は動いてくれたと思う。
たぶん、進一は動こうとしていた。
プーちゃんがあらわれなければ、進一は受け入れてくれたのだと思う。
「プーちゃん、だよね?」
理香は膝の温もりに問いかけた。キャラメル色の猫は頭をかかれグルグルと鳴いている。
「なんで進一の部屋にいるの?」
満足のいく返事はなかったが、答えはなんとなくわかっている。信じられないけれど、奇跡だとは思えないけれど、きっとそういうことなんだろう。
とても気持ち良さそうに、猫は喉鳴らしを続ける。
進一が目を閉じて何を考えていたのかはわからないけれど、顔をあげたときには強さがあった。
けれど、なにか音がして、様子が変わった。
進一は頭をかきながら何かを見据えていた。なんだろうと思って進一の視線の先にある、開け放たれた窓の方をみて、窓枠のうえにプーちゃんをみつけた。
なんでプーちゃんがいるの? 私を心配して助けに来てくれたの? みたいなことを考えているうちにプーちゃんが部屋の中に入ってきて、文恵さんがプーちゃんって名前をつぶやいたような気がして、そのあたりから記憶が曖昧になっている。
わからなかった。なんでプーちゃんがいるのかもわからなかったし、なんで進一や文恵さんが驚いていないのかもわからなかった。違いますけど? この子はうちのプーちゃんですけど? みたいなことを言ったのか言わなかったのかも覚えてはいない。
でも、やっぱりそうなんだろう。
進一の部屋にあらわれる、文恵さんが夢中になっている猫は、私の部屋にやってくる猫。
いまにも泣きそうだった文恵さんは、少し微笑みながらプーちゃんを見ていたような気がする。全身で伸びをしたプーちゃんは、長い尻尾を振りまわしながら畳で爪を研いでいた。
とにかく静かだったような気がする。プーちゃんが動いて、ゆっくりとこっちに歩み寄り、私のひざに脚をのせて、ふくよかな身体を預けてきた。いつものように体勢をととのえて、わけがわからないままに落ち着いてしまった。
泣き声が漏れ聞こえて、文恵さんがこっちを見ながら涙をこぼしていることに気づいた。私よりも、プーちゃんを見ていたような気がする。文恵さんは進一のほうを気にして、涙をこぼしながら立ち上がって。
そして部屋には、私と進一と、プーちゃんが残された。
文恵さんが泣き出したのは、可愛がっていた猫に裏切られたと感じたから? たしかにそれはあるかもしれない。もしもプーちゃんが文恵さんの膝にのっていたら……取り乱すかもしれないけれど、泣いたりはしないかな。裏切られたと感じる前に、そっくり猫の可能性を考えていたような気がする。ずっと進一の部屋で可愛がっていた、文恵さんとは立場が違う。文恵さんの立場からしたら、ここは当然……。
「……プーちゃん、ほんと、なんで私の膝のうえにいるの?」
文恵さんを泣かせちゃったんだよ?
プータローは派手なくしゃみで答え、理香は怯えていた文恵を思い出した。ずっと堪えていたものが崩れてしまい、文恵は逃げ出した。進一の前から、涙をみせて立ち去ってしまった。
繊細な人ではある。でも、たぶん、それだけじゃない。進一と同じように、文恵さんにも過去があったのかもしれない。そうしなければならない理由が、文恵さんにはあったのかもしれない。
進一は、閉まってゆくドアを呆然とながめていた。
プーちゃんの行動には、進一も驚いていたはずだ。文恵さんと同じように、進一は私とプーちゃんの関係を知らない。だから文恵さんが崩れたとき、進一はリアクションもとれない心境だったのだろう。泣きながら立ち去ってゆく文恵さんに対して、進一はなにもできなかった。
ドアは閉じられ、取り残されて、進一はゆらりと立ち上がる。
私は、進一がドアに向かって足を踏み出したとき、不安に襲われた。
追いかけるのはわかっている。泣きながら立ち去った文恵さんを、進一が追いかけないはずはない。私が好きになったのは、そういう優しい人だ。文恵さんを放っておくなんて、進一にできるわけがない。
捨てられるわけでもなんでもなくて、待っていればいいだけのことで、問題なんて何もない。
わかっていたのに、置いていかれるのが怖かった。
待ってほしい、そばにいてほしいと願い、進一を引きとめようとして、私は動いた。
私は、立ち上がっているはずだった。
理香は膝のうえにいる、ふくよかなキャラメル色の猫を優しく撫でた。あのとき立ち上がれなかったのは、膝にのるプータローが重かったせいだろうか。すっかり慣れたとおもっていたが、たしかに重量感はたっぷりとある。
「……プーちゃん、ちょっと太った?」
理香はわずかに吐息をもらした。落ち着いてさえいれば、なんてことはなかったのかもしれない。思ったような動きがとれなくても、動けないわけではなかった。ためらうことさえしなければ、立ち上がることはできたのかもしれない。
怖かった理由は今ならわかる。志穂さんを追いかけることができなかった進一は、ずっと後悔していた進一の目には、ふたりの姿が重なって見えていたのだろう。かつての恋人に負けるとは思わないけれど、文恵さんに負けるとも思わないけれど、彼女たちを重ねた進一の目に、私の姿はどこにもなかった。
私は、私をみていない進一に不安を感じる。
振り返った進一は、動けずにいた私に気づいた。私をみて、私だけを真っ直ぐにみていた。
遠くを見るような眼差しで、私ではない私をみていた。
進一の迷いが伝わってきて、プーちゃんの温もりが伝わってくる。
進一はプーちゃんをみていた。
プーちゃんをみていて、進一の表情は変わっていった。
そして部屋には、私と、プーちゃんだけが残された。
あんなに悲しい進一を、私はいままで見たことがなかった。
全身から熱が奪われて、どこにも力がいれられなくて、声をあげることさえできない。
私はただ、プータローの温もりに救われながら、去っていく進一を見ていることしかできなかった。
秒針の乾いた足音が、淡々としたリズムで響いている。
変わらない場所で、変わることのない淡々とした響きで、時計は理香に訴えかける。
大丈夫。理香は小さく笑ってみせる。心配なんてしていない。進一のことなら、ちゃんとわかってる。
待っていれば、進一は帰ってくる。置いていかれたというだけで、捨てられたわけでもなんでもない。志穂さんなんて関係ない。たとえ過去の古傷がなかったとしても、進一に追いかける以外の選択肢なんてなかった。「いってくる」とか「待っててくれ」とか、そういう言葉を残して、進一は私を残していってしまうだろう。そういう人を好きになったのだから、恋人として、部屋で帰りを待てばいい。
そう、待っていればそれでいい。
進一の迷いはわかっている。なんで悲しい顔をしていたのかも、ちゃんとわかっている。大丈夫。問題なんてなにもない。帰ってくるのを待っていて、ずっと進一のそばにいたなら、進一は必ず受け入れてくれる。他のなにを失ったとしても、恋人である私を望んでくれる。
「私は進一のために生きていたい。これからは、ずっとそばにいて、進一の支えになるから」
だから、お願い。
「それでいいよね?」
開け放たれた窓から、部屋に冷気が流れ込んでくる。理香は畳に座ったまま、猫を抱きかかえて温もりを感じた。全身へ伝わってゆく温かさが、寒さと不安から守ってくれる。いくらでも待っていれられるような気がして、理香は喜びを抱いていた。
時は静かに流れてゆき、ベランダ側の大きな窓から西日が射し込み、部屋と理香の背中を暖める。
もぞもぞと、キャラメル色の猫が動きはじめた。